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リネンや麻を織る日々をつづっています。

リネン日記

哲学

2012年06月17日

今日は、日曜日でしたが朝9時の電車で大阪からお客様がお越しくださいました。アパレル向けに生地を企画しておられるお客様で、昔の麻のよい時代のものづくりなどに花が咲きます。いつもこういう話をしていても感じるのは、「奢れる者久しからず」というような感覚です。これは自分自身も含めてですがいろいろな時代に大きく脚光を浴びた会社やブランドであっても、大きくなりすぎたりして無駄が生まれて持ちこたえられなくなるというようなことだといえます。

良いものが常に売れるのではないというのは、商品哲学のひとつというより、自然の条理にかなっているといえます。生まれたものというのはいつか消えていくというのは当たり前のことなのです。恐竜なんかにしてもなぜ絶滅したかということが言われていますが、私からすれば普通のことです。進化の果てには終焉が待っているものです。

恐竜にしても、小さなサイズからだんだんと巨大化しているので世代進化で無限に大きくなれるのかというと、体は大きくなろうとするのですがあるところで限界があります。象なんかも、睡眠時間が2時間しかないというのは、その大きな体を支えるために食べ続けないといけないという悲しさ。

彦根に行くときにナウマン象の像があるのです。それも絶滅しているのです。今の時代なんて大きな動物なんてまれにしかみることがないのに、それがまだ野生で世代交代を続けているということすらが逆に驚きであったりいたします。

馬なんかも、今、日本ではほとんどがサラブレッドしか残っていません。これが普通のことなのかというと速く速く走らせるためだけに作り上げているものですので、究極の形ではありますが壊れてしまいやすいのです。和牛にしても同じで、日本中の牛肉の味が似通っておいしいのも、和牛といわれるものの血統というのは限られているのです。

日本人にしても数千年ほど歴史をさかのぼると、食べることすらもが難しく生きていくのも大変であって、そして今、食べていこうとすれば自分で農業をしなくても働くことでお金が稼げるようになり、自分で料理を作らなくても外で食べることができるようになり、働く仕事や食べるものを選ぶことだけが大事に思えています。

食べるものの血統的なものからピュアなものが増えて、本来だと自然界だとヘテロ的に発生したもののほうが長続きはしやすいのですが、人の手が加わるとピュアなもろいものを求め続けます。人の考える美学というものは神の領域に達するものではないかと思うのが、自然な交配を妨げ品質を求めるところです。

象が絶滅する理由が、人が求めるアイボリー(象牙)というのも本当に悲しい話です。牙を取るとるために殺されたり、また、牙をなくした象が野生で生き残っていけるのかというと肉の塊、ほかの動物やほかの象との食べ物競争にすら勝てず、単なる肉の塊でしかありません。蟹なんかも欧米では一番大事な大きな手だけをとって海に戻すのですが、生き残れるのでしょうか。

日本の捕鯨に関しても日本の捕鯨団体がエスキモーの捕鯨に禁止を唱えたことで、非常に疑問を持っています。自分自身が捕って食べるエスキモーの捕鯨を禁止する日本の商業捕鯨の方向性に危うさを感じるのです。何十という個体から狙った獲物を抽出できるような日本の調査捕鯨の技術は商業と結びつくと絶滅させてしまう恐れがあるのは事実です。


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