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リネンや麻を織る日々をつづっています。

リネン日記

新興国の仕事と先進国の仕事

2017年04月15日

旧来の伝統的な手の仕事から近代化した機械仕事に変わると、生産性というものは上がるのだが、人の能力というのは落ちてくる。人の力のインプットを落とすことで生産性を上げるようになると、人の能力というのは一度落ちると元に戻るということはないものであったりする。本来は人の能力を落とさずに生産性を上げるような方法を取っていかないと新興国の人のほうが人の力のインプットが大きいことが多いので、装置産業になると、人材が豊富で人件費の安い海外に移転されがちである。

たとえば、日本の織物の場合、織っている人がボタン一つで織れるようになったなら機械の調整やメンテナンスも仕事として行うというようにすればよいだけのことである。さらには、自動に織れる様になった分、検査作業や、検反、補修作業を織り手が行うというように進化すればよいだけのことで、単なる織り手なんていうものは海外でいくらでも育てることができるので国内で成り立たせるのは難しいということになる。織り手が織物を織るために自分の織る仕事の準備したり、織ったものを片付けることが必要になる。新興国だとそれが分業という中で行われるものだが、先進国では逆にそれが一人の仕事として必要になってくる。

デザインなんかでも、新興国ではオートスクリーンや最新のインクジェットでのプリントが普通で、それなりの量が流れる。一方、イギリスやフランス、オーストラリアのデザインオフィスでは、布に手描きの形に逆戻り。高いものは流れる量が少なく先進国で量産は期待できず、クリエイターたちが原始的とも思われる手書きに戻る。そして、自分自身で販売してゆくという形。先進国ほど一つの布に対する需要が少なく、価値を人の力で生み出してゆかねばならないというパラドックスが潜む。

これは巨大化した日本や先進国のSPAでも、自国一国の需要ですらも支えてゆくには足りず生産国である新興国の需要に期待する。先進国で売れるものというのはごくわずかな量の手の込んだもの、一方で、多くの手の仕事ができなくなった製造現場の人を抱えながら、需給のニーズのパラドックスが先進国では存在することになる。

数年前、ある大学の経済学部の先生が、ニッチェに対する講演をされていたが、毎朝、漁に出て10匹だけとって、その限定のその日の取れたての魚、通常300円が市場で10倍の値段の1匹3000円で売れるとか。なんか、フロック期待でそんなのに期待しては駄目だろうと思うようなあたりなのだが、日本の成功事例がそういう類のものでしかなくなりつつあり、まともに商売をしている人がそういうのに走るというのも危ないことである。



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