for English speakers: Welcome to HayashiyoWelcome to Hayashiyo
リネンや麻を織る日々をつづっています。

リネン日記

地道にやってこられたものが消えるとき

2019年04月20日

みんなが何か志を持ってやろうとするときに報酬なんて考えないのだが、安定期に入ると普通の仕事の感覚になって、普通の待遇になるとそこからの逆戻りが難しい。長続きしないのは、初心の地道な考えがなくなってしまったとき。普通の成り立つことを考えない感覚になると求めるが増えすぎて最初からやらないとましなほうが多いことも多い。最初だけは気分でスタートで成り立たなくてもではすぐに底が見えてきて終ることは多い。

地場産業なんかもサラリーマン化してしまうと、伝統工芸的なものは絶対に難しいだろうと思う。地場産業というと評価は高いがその評価に値する成果ではなくても努力がなければ評価されることも難しいであろう。普通のサラリーマンと同じ週40時間で作り出すものなんていうのは、趣味の人が作るものにも負けてしまうだろう。アーティストとかクリエイターは、たとえば、並外れた才能がなければ、他の人の何倍もの努力でカバーするしかないだろう。

才能がある人でも動かなければただの凡人。階級社会を守りたい人というのは、自分が一番底辺に落ちる覚悟がなく、常に指導的な立場でいようとするから、世の中の諸悪の根源になりやすい。待遇に文句を言っていないで、自分が求める待遇を他の人にしてあげる立場にならないと、自分の立場を他の人に譲れるくらいでないと、そこが本当に難しいところで、恵まれない人は世の中にあふれていて、その人たちを下から支えられる立場になれる人がどれだけいるだろうか。

増田明美の話だったと思う、増田明美のコーチが自分が白いご飯に塩振って食べて、増田明美にはたくさん肉を食べさせてとか。選手もコーチの支える姿が見えずに、次はもっとよいもの食わせてくれになってくるような馬鹿選手だとたとえ金メダル取っても早く消えたほうが良いのかとも思う。そんな選手が将来、自分の金メダル売ってでも、選手に肉を食べさせられるようなコーチにはならないから。これもサステイナビリティーのない一例だろうと思う。

日本の伝統工芸の世界がサステイナビリティーがないなあと思うのは、伝統工芸の多くはもともと食べて行くのも難しい状況の中、試行錯誤で、人々の生活を支えるために生まれていて、仕事して自分じゃなく家族の生活を成り立たせるという側面が大きい。

自分を捨てて家族を支えて行くというもので、野麦峠もその世界。食べても行けない農家の娘が、家族を支えるために女工として働くという辺りで、女工として働くことで家族が幸せに食べて行ける。これと同じことがバングラディッシュの繊維業界にあって、バングラディッシュの農家で家族が食べていけない状況を父親が出稼ぎで染色工場で1日12時間働くことで家族に幸せをもたらしてその父親も喜んでいる。

でも、農家の食べてもいけない苦労を知らない人が外から見ると、野麦峠の女工も、バングラディッシュの染色工場の父親も奴隷のように思えるだろう。けど、そういう農家を救えるのは野麦峠の紡績工場であったり、バングラディッシュの染色工場であったりする。自分を捨てて家族を支えたい人の気持ちを汲んで受け入れているのがそういう工場だったりする。食べるものもなくその人やその家族が死に行くを放置して、自分たちが幸せ掴もうと働こうとしている人の働く環境問題を議論しても始まるまい。野麦峠の問題視された本質は、階級社会を乱すことだったんだろうと思う。貧農がチャンスを掴んで役人よりも豊かに暮らすというのは、役人にとっては屈辱でしかなかったんだろう。ニューズウィークの記者もバングラディッシュの男性を記事にしてそれで食べているなら、それでかわいそうに思うならもらう給料の半分をあげればよいのにと思うが、批判している染色工場のようにその男性を養うとか分かち合うなんて覚悟はまったくなく批判をしている。他の人を支える苦労をしらない他人事の世界。

伝統工芸の世界も今は先生みたいなイメージだが、元来は田舎の農業で食べて行けない人たちの手仕事で、業として極められた形しかない。そういう手仕事の世界は地道な部分で成り立ち、地道さがなくなれば、仕事の本質も見えなくなる。自分が作ったものや仕事が受け入れられて食べて行けるという農業の延長的な自給自足部分。自分たちの手で食べて行くとか本当にアーティスティックなことだと思うが、そういうことが評価されることは少なく、やればそこまでたどり着けることもあるだろうけど。普通にやって食べて行けないから駄目だみたいな半ばの考えだとそもそも難しいだろう。

育くめる人が残っているうちはものづくりというのは続くだろう。それは作り手である場合もあるかもしれないが、作り手でないかもしれない。作り手が経験を積んでいったときに育む側になれればよいんだろうけども、なかなかそうはならない社会構造。サステイナビリティを意図的に欠如させる縦割り的な社会構造があるように思う。私の同級生のお父さんがやっておられた金襴屋さんが何年か前に廃業になった。現場には人もたくさん居られて、設備も新しいものを常に更新されていて福利厚生も普通以上に考えておられた。私がその社長と話したときに、前向きに新しい設備入れて福利厚生も考えてやっていかないと織物業界も続かないし、将来がないという話をしておられた。でもその社長が亡くなられたら、働く人もたくさんおられ設備で仕事もあるのに。実際はなかなか成り立たせるのは難しい問題。続けておられたのは、その社長の従業員に対する親心を感じるのである。自分は白いご飯に塩掛けて食べながら、従業員には肉を食べさせる、みたいな話で、親心もっている人が働いている人の中から順番に育っていないとうまくは続かない。それが本当に難しいところ。

日本では、待遇も良くないけど内職的にやってる地場産業は案外残ってて、価格も手ごろで品質も高く。企業化して福利厚生を充実した地場産業は消えて行くとか、ものづくりをやめてゆく流れ。過去も、繊維産業のものづくりは、基本、大きなところから順番に消えて行ったとか、海外に移転して行った形。日本の地場産業製品と似たものをつくろうと思えば量がまとまれば10分の1で、無理なく海外でつくることができるから、逆に、国内は基本、見本も必要な小ロット生産の仕事をうまくこなせるような力がないと無理で、現場の人に要求される能力のハードルは高い。仕事があって人がいても、できる仕事がないという状況に陥る。もう日本人はそれほど器用ではなくなってしまっている。


ホーム | ショッピングカート 特定商取引法表示 | ご利用案内