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リネンや麻を織る日々をつづっています。

リネン日記

自分がものをつくる意味

2011年08月14日

昨日は、夕方琵琶湖の湖岸道路を走りました。丁度、大きな夕陽が琵琶湖の西側の山に沈もうとしているところが見えて、沈み始めると夕陽一つ分が1分もないくらいの速さで消えていきます。真っ赤に染まった夕陽をじっくりと楽しみたい気分だったのに、地球が堅実なスピードで回っているのを感じつつ物事は移り変わるのを感じます。

お盆の間というのは、帰郷された方が自動車で走っておられることが多く他県のナンバーを多く見かけます。滋賀の景色を楽しんだり、道に迷いながらの方が多いので、とりわけ交通事故の危険が高い時期です。

村のなかでも普段見かけない人たちが家族連れで歩いていられたりと、日ごろとは違う雰囲気を味わうことができるものです。お盆の時期には、子供のころは母親の親元で遊んでいたことが多かったのです。川原でウロリと呼ばれる小さな魚が川上に上る習性を利用して、水路を作って最後に魚網に溜めて、昼の数時間で小鍋に一杯ほど甘醤油煮にするだけの量が取れるのです。

自然に働きかけることでその日の食べるものが手に入るというのは、今から考えるとすごいことだなあと思います。労働の対価として考えるなら馬鹿げたことなのでしょうが、天然のものを口にすることができるというのは、人の体を強くするのに役立つものです。天然の中で生きているものというのは非常に強く、それを食べるために労力が必要というのは、また、それが人間を肉体的にも精神的にも強くするのです。労働の対価が約束されないというのも自然を相手にするときの特徴で、自然と契約することはできないのを改めて感じます。

今は、禁漁の規制も厳しくなり子供も川で自由で魚を取れない社会システムになり、鮎にしても、小鮎を上流で放流し下流でそれを釣ったりするような、流しそうめんのようなシステムに近づいているようです。この春から、河川敷や道路の脇に自生している苧を注意深く眺めていました。赤苧はたくさん自生しています。青苧はより桑に似ていて稀な存在のようです。今は、つる草にだいぶ追いやられてしまっていますが、つる草にしても昔の人からすれば貴重な資源だったろうなあと思います。

麻糸の原料はわざわざ育てなくても天然のものが自生しているので、それを使うほうが本格派なのでしょうが、細く長い繊維を取ろうとすると密集させて栽培するほうがリネンと同じく、良いのだろうと思います。今の自生している苧からどこまでの良い繊維が取れるのか、糸を作るだけでは良い糸かどうかは分かりませんので、織物まで織り上げてないといけないと考えると気の遠くなる話です。それを実現するために一番足りないのは、人という要素です。

彦根の家電店で、名刺を印刷できるキャノンのプリンタを買いました。安いものは5000円くらいからあり、それであっても一通りのことができるのです。お店の中にはものがあふれているもののお客さんというのはパラパラで、大手のメーカーさんのほうが安くしても売れない時代に突入し苦しまれているように思います。

名刺なんて業者さんに頼めば安く作れたりするのですが、ものづくりしているものが自分でものづくりできなくなれば駄目なんじゃあないかと思うところもあり、自分で名刺をつくることはまだしばらく続けていこうと思います。自分自身の手と頭、感性を使うことが大事だと思います。デザイナーさんのつける色柄に感動していては駄目で、着物の形なんて決まっていたので、本来は着物のデザイナーでなければならなかったのが、林与の曾おじいさんやおじいさんの頃です。

パソコンとプリンタで手軽に名刺を作れる時代になっていても、より簡単にできる業者さんに頼んでしまうと、どこで一体、自分の才能を使うのかという問題になってきます。ちょっとアバウトなところがあっても個性的な名刺をいただくと、その方の考え方なんかが分かる気がします。ちょっと爺臭いのを恥ずかしがっていては、見た目だけにとらわれて自分のスタイルを貫くことは難しいものだろうと思うのです。


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