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リネンや麻を織る日々をつづっています。

リネン日記

仕事

2016年09月12日

今日は地元の工場の社長さんが朝に電話くださった。仕事がこの3ヶ月ほどほとんどないという厳しさで、従業員を抱えておられ仕事が少ないという気の毒な話であるが、仕事を作ろうとすると見本が必要で、そのあたりが昔と違って難しくなってしまって、見本を作らない流れで仕事が少なくなる流れ。工場さんにも仕事が少なくなってもよいと合意もいただいて見本も作らないのが数年も続いた結果のことだが、数年もその流れが続くと市場自体が小さくなってしまう。

地元の機屋さんの情勢というのは数年前から予想もできて、機場を抱えて動かしておられるところほど苦戦されているのがよく分かる。地元でも座布団で一番元気にされていたところが機場を閉じられたりとか、私には座布団というものの価格や需要の低下でよくいままでやってこられたものだと逆に感心するほど。先代なんかは最後まで残ればなんとかなる、とか言っていたけど。傾いた流れを変えるには新しい感覚が必要。昔の流れで最後まで残れば大変なことになるだけだと思える。昔の流れを残そうとすれば別腹で残し、食べていく道はまた新しいその道を探していかないとならないと思える。そういう時に変われない現場があるとしたら現場を支えていくことはまことに大変である。

その座布団の工場も現場を閉じられたものの別の新事業で生き残られる道は残され、先見の明のある事業転換を行われていたので結果よかったのではないかと思える。経営者というのは従業員のことを考えて方向転換できないことも多く従業員を抱えつづけ事業を続けることで、経営者自身が仕事続けてお金を失う状態で破綻してしまうことが多いから、状況に応じた経営判断は将来のことを考えて必要だろう。失ってしまうと惜しいと思える現場であり、働いていた人も自分で採算を成り立たせるすべがあれば残せるのだろうがそこが難しいのだろう。近くの金襴の工場も、社長が亡くなられて、従業員さんは何人もおられたけどそれを成り立たせて動かしていく人はいなく廃業された。

結局は、商売は誰が背負っているのかという問題につきないかと思うのだが、本来、背負われているものがいつしか背負う側に回るのが正しい流れに思うが、背負われる人生を歩む人と背負う人生を歩む人の線引きみたいなものがあって長年続いた商売でも終わりが来るのだろうと思えてしまう。大企業でもあるまいし、大企業と同じような経営者と従業員のような線引きしてては優秀な人の集まる大企業と比べて、大企業でも苦戦の日本で、中小零細というのは普通の人の集まりで普通にしていては成り立つはずもないと思える。そういう線引きがないのが本来小さな企業の一番の強みではないのかと思える。


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