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リネンや麻を織る日々をつづっています。

リネン日記

田中直染料店

2017年02月13日

今日は、夕方6時ぎりぎりの駆け込みで洋型紙を買いに行った。正しい巻きのもののほか、1mの端切れ的な洋型紙が少し安かったのでいくつも買った。たぶんこれだけ買えば、何種類ものストールの版をつくれるだろうと思うが、あまり大きくしすぎると3色の版だと1色1mだと、一柄で3mとか使うことになってしまう。やはりリピートをつけて捺染することを想定したほうがよいように思える。というのも、汚れた版を洗うのも難しいから、新聞紙よりも版が大きいと新聞紙で拭くのも難しいだろう。

私のやろうとしている広幅絣プロジェクトは、他ではたぶん工業的にはやってないと思う。あるとすれば、ほぐしという技法で、縦糸に捺染するタイプ。近江湖東産地でも座布団などではよく使われた技法がほぐし。伝統工芸品のものづくりと同じような技法を使うのだが、オリジナルな要素もいくつも採用して、極端な話一人ですべての工程をカバーできるようにしてある。伝統工芸品である近江上布というのは何人もの分業が基本だったりするが、それと同じようなことを作家的に私一人がすべてするということも可能にしてある。それが私一人でも数日あれば図案を考え型紙を彫って横糸に捺染して蒸して一着分を織りあげることができるみたいな一人の人間でも没頭すればいろんな色柄を一年を通じて生み出し昔のものづくりを再現できるような形で技法から再考案したのがこの一年。

近江上布の羽巻き捺染なんかも、ヨジヨモン爺さんの時代に、長年かけてというより短期間ですべて生み出したのだと思えるのだ。なぜなら、近江上布は毎日のように新しい柄が生産されていたから、やろうとおもったことを簡単に形にしてしまうのが当時の人の意気込み。仕事に携わる人も自分のために働いたのでなく、食べるものは農業で養って、その収入を家族の将来を支えるために蓄えたような部分がある。戦後のご子息さんたちが当時では珍しい大学まで行かれるケースが多かったのも近江上布があってそれに打ち込んだから。羽巻き捺染のような生産効率のよい技法が生み出されてその余力を色柄の充実に費やしたところが近江上布がワビサビの色使いながらも見る人々を圧巻するような大きな芸術の世界をもてた理由だろう。

なぞとして思っている、なぜ、近江湖東地域で麻織物がさかんだったのか。日本中で麻織物なんて盛んにおられていたというのが事実である。嫁ぐときには機をもって嫁いだというのが日本中の光景であって、近江湖東地域だけが特別というわけでもなかったと考える。琵琶湖があって湿潤だというのが一部、近江の特色を生み出している可能性はあるのだが、それは細番手の麻糸は織りにくくて湿度があるほうが糸が乾燥しにくくて扱いやすいということはあるだろう。でも、一番の理由というのは、人という要素でなかったのかと、現在、産地の麻織物が消え行く流れのなかにあるのを考えると思う。他の地域以上に麻織物の仕事に打ち込んだ人がいたからだというのが麻織物が栄えたという一番の理由に思うのだ。

今は豊かになると仕事の手を緩めるということがほとんどで、それがまた厳しい時代に厳しさに耐えられるのかというと使い物にならなくなっていることがほとんどで、他に代替されてしまい消えてゆかざる終えない。うまく回っていたとしても厳しい感覚で仕事に打ち込んで他とは違うような人生観があったから近江上布が戦後も復興して、産地が産地として残りえたのだろうと思える。広幅織物への移行も産地で林与が一番にレピア織機を入れて、他の企業さんがレピアで麻が織れるということを知り、産地全体のレピア織機への移行が進んで1970年代の麻ブームが起こった。これも、人の要素が強いのであり、近江湖東産地が現代においても日本の麻織物の本場といわれる理由の一つであると思う。繊維だけに限らないが産業にとって大事な綺麗な水という要素にも恵まれていた。琵琶湖もその綺麗な水という要素に恵まれてかつては水の綺麗な湖として存在していた。琵琶湖にしても水が作り出す一つの産物なのである。


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