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リネンや麻を織る日々をつづっています。

リネン日記

ヨジヨモンじいさんの妹が

2018年08月27日

東円堂にもう一軒織元があったのは、ヨジヨモンじいさんの妹が嫁いだ先がヨジヨモンじいさんが妹の家のために嫁いだ先に織物業を教えてさせたことが始まりだったような話。業としては新屋分かれみたいなものとして、もう一軒の織物の仕事が始まった。なぜ同じ集落に2軒同じ織物業者が存在するのかというところを不思議に思ってはいたがなるほどな話である。昔は集落というのは基本親戚関係が強かったので一つの親族集団のようなものだった。一つの織元が普通であろうから。昔の時代にはありがちな、隣同士で結婚して新屋を気づいたということらしい。

ヨジヨモンじいさんの父親のカンベイじいさんは、酒飲みでカンベイじいさんは、酒の飲み代のため代々の敷地を担保にいれてお金を借りた。その借用書が今も残っている。カンベイじいさんが、ヨジヨモンを襲名できなかったのもどうしようもなさすぎたからのようだ。その反動として、若い頃から貧しく苦労して育ったヨジヨモンじいさんが、農村だった東円堂に産業としての織物業を生んだ。当時、織物というのは流通を規制されていて、誰もが商売として立ち上げることができるものではなく、米とか酒のように許可制みたいなところがあって、東円堂という村で許可されたのが、ヨジヨモンじいさんだった。代々続く母屋だったが、カンベイじいさんで潰れかかった東円堂中の母屋、東円堂中の親戚の期待を背負って応援も受けたこともあっただろう。

ヨジヨモンじいさんは、成功したので逆に恵まれない親類の親を亡くした子供がいたら家で自分の家族と同様に育てた。だから、私が3歳とかの子供のころでも、親戚の90歳を越えるおばあさんたちが私のことをすごく大事にしたというより、敬意をもって接していてくれたのを子供の頃感じていた。貧しい農村で、戦争で親を失うこと苧あり、食べて行くことも難しいということもあったろう。戦後、引き上げてきた親戚に住むところと仕事を与えてみたいなのも、それなりに良い話だけど。丁稚奉公が奴隷のようにいわれるが、農家で食べて行けないはまさに命すらなくしてしまう状況で、丁稚奉公というのは自分の子供を自分が育てられない状況だから他の人に育ててもらうことを頼んだ背景がある。普通、他の家の子供を預かって育てるなんていうのは甲斐性がなければできないこと。

私が大学生を卒業したときに、親友の一人が大手に就職を希望して、父親のコネクションでその大手の会社に本社採用で入社できたが、地方に送られて6ヶ月は研修という形で給料が無い状態で、そのことに不満を漏らしていた。待遇としては、良家の息子さんのコネ入社と同じで、給料なんてものを期待などしていなくて経験を積ませてもらうVIP待遇の一種だったとは思う。でもミスマッチだろう、預かって育てようとしても育たない。


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