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リネンや麻を織る日々をつづっています。

リネン日記

残りの時間

2020年12月09日

織物の仕事、今、50歳を超えていて普通だとなかなかするのが難しくなる年頃になっている。織物は経験よりも行動力的なところがあるので、その一瞬一瞬の動ける力があるのかないのか。年を取ると落ちていくのは、ほかの経験者の話を聞いていても、若いころの3分の1しかできないとかいわれ、やっても間違いも多くそれでは仕事として食べていくのが難しい。よく聞くのが若いころは働いたという言葉だけど、そういうのは今はできなくなっているという意味を含んでいる。

年をとっても食べていけるのはどちらかというと頭の世界。いろいろと細かいことを正しく動けたりするタイプの人だと年をとっても時間さえ使えば若い人に負けることもないだろと思う。それなりに体力も若い人以上にあるけども、頭やデザイン的な部分で、新しいことをさらにやっていくようなところがないとこの仕事では残っていけないだろう。繊維だけでなくものづくりの世界というのはそういうものである。誰かに代わりにやってもらおうとか食べさせてもらおうとかになるとお荷物になってしまう。

私よりも何十年も経験の長い親戚の人にも面倒をみてもらわないと困るみたいな話をされたことがあるけども、人というのはそんなもので、面倒を見る側と面倒を見られる側というのは、経験の長さではなく人生観で、面倒を見られる側が経験を積んでも面倒を見る側になるということはなかなかむつかしい。相手の面倒まで見ようとせず自分の面倒は見てほしいという生き方。人というのはスケールの違いがあって、できる人とできない人の差は大きい、やらない人ほど仕事に文句をいうもので、仕事をやっている人というのは自分がやるだけなので仕事に対して文句を言わないものである。

仕事があって喜べる人と喜べない人がいて、私は自分で仕事を作るところから始めてやっているので仕事があればうれしいけども、やらされているだけの感覚の人というのは仕事というのは、一つのできる仕事も難癖付けるところから始まることが多くて、仕事そのものよりもその人に仕事してもらうことのほうが大変だったりする。林与の自分がやってきたという家族のものでもそんな感じなので、仕事には向かないんだろうなあと思う。仕事しない人間がこの仕事は駄目よとか平気でいってるので、1日のアルバイトの人のほうがちゃんとした仕事ができて情けない話である。駄目なのは人なので、繊維の簡単な仕事もやる気のない人がほかの仕事は到底無理な話なのである。うまくいっている家族経営というのは、自分自身が生み出す力のある人たちがやっているタイプで、経営者の家族というだけで仕事しない社長気分みたいなのが多くいると駄目になって当たり前なのである。家族経営が難しいといわれるのはそのあたりだろう。外で普通に働くのが楽すぎるくらいでないと自分で独立して商売をするなんて無理よと私が若い人にもいうのは自分自身の経験から、昔なら海外の競争もなくそれもできたが今は実際に自分が動いて成り立たせていけるタイプの人でないと。

ややこしいのは先代も70歳で亡くなったが、亡くなるまでは立て直すはどうしようもできないこと。亡くなってもまだまわりが引きずっていて立て直すために変わろうとできない。まともに働く最初の一日がないと駄目なんだけどもその最初の1日がなかなか。先代にしても亡くなった時に、先代のことをよく思っていた人と悪く思っていた人の差がはっきりと見えて、酒飲んでお調子者の駄目な先代を正しい方向に本当のことを先代に言って誘導しようとしていたのも私くらいだろう。

私が中学生の時に剣道の全国大会に行ったが、引率でついてきた親父が高校生にビール飲ませて大物気取りの勘違いは、ほんと田舎のおっさんだなあと思った。しなくてもよいことを自分の甲斐性だと勘違いしてやってしまって存在すると逆にややこしくなる。例えば大学生が高校生に一緒に飲もうはわかるけども、良い年したおっさんがそれをやったら駄目で、何杯も勧めて飲ます。ほんとそれが林与の先代のだらしない人付き合い。そんなための場でもないことをわからないとだめなんだがそういうのがない。そういう場がないと気に食わないし、そういうのに付き合えない人間でないと気に食わない。また、私ももちろん防具も荷物ももっているが、先生の防具を持てと、小さなカバンひとつの手ぶらに近い親父が私に言うのは無理な話で、酔ってもいない状況でも頭がまともじゃない、自分が一番手ぶらで全体を仕切ろうとする、そういうおっさんがいると全部のバランスが崩れる。そういうほかの人間を仕切りたいお山の大将がいるとまともなものが転んで、ややっこしいのである。

まあ、そういう世間がみえなくなった親父が亡くなってから株とか土地とかゴルフ会員権とかに手を出して何億もの借金問題を解決するのも自分が地道に働いて返すのが仕事。酒ばかり飲んで破綻するのは当たり前、仕事の最初の1日の覚悟で地道に働いたらよいだけだと思うのは私。林与の家の中だけでなく、同じようなことは次の世代の人には必要ないことで、白い状態で次の世代に物事を渡していくべきだろうと思う。酒飲んで有頂天になって浮かれた親父が、お前にどこどこのゴルフ会員権をやるとか、高校生の私がいうのは何も残さなくてもよいから全部売っておいてくれということ、すると、親父はお前は将来ワシに感謝するというが結果は、そういう自分が人間としてどうしようもなくなってしまっているのが見えない毒。経験者というのはどうしても驕りがあって、新しい人を自分の言いなりにしようとするが、次の世代のほうが外の世界もしっていて、外の世界と中の世界の両方の価値観のアクセルとブレーキの中にいる。しょうもない上下関係とか人間の見栄とか早く捨てて、素直に仕事に取り組むような人間性を養うべきだろう。偉そうな経験者よりも、経験のない一所懸命な素直な人のほうが1日でも役に立つ。

田舎の泥臭い繊維の世界が小さくなる一方で、ユニクロや無印などの経験の浅いところが伸びてゆく。当たり前のことが起こっているだけのことにも思うのは、林与の家の中をみてもそう。ようやく田舎でも年下の者に酒を無理やり飲ませるとかもなくなったけども、林与の先代みたいのが田舎の問題の一つだったのだろと思う部分。そういうのが浄化されていくのは大事なことだろう。大事でもないことを大事大事といつまでもやってても仕方があるまい。何かを残していきたいなら覚悟を決めたものが自分自身がやって支えてゆけばよいだけのことで、次の世代の人には白い形で残してゆくべきだろうと思う。問題を生んだり問題を先送りばかりでは若い人たちがややこしい問題の解決を強いられて気の毒である。ものごとは、やってる自分たちが無理と思ったら先送りしないでそこやめておけと思う。

いつまでもワシがワシがでは駄目で、年取って普通の仕事ができんようになったときには、次を立てて言うこと聞いて作業するようにならんとなあと思う。昔はそれがあったから日本のものづくりは強かったんだろうと思う。でもそういうのは若いうちからそういう姿勢でやっていないと後から身に付くものではないだろう。結局はそれが実力だろう。

私自身もまだ仕事はやっているけども次の世代の人たちが仕事も人生も思いっきりやれるようにものごとを持っていくべきだろうなあと思う。


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