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リネンや麻を織る日々をつづっています。

リネン日記

2021年01月12日

技みたいなものは高いほうがよいのかというと、高く持って行こうとすると他の人が対応できないことが多く、高い方に持っていくと自分以外がまったくついてこれない状態が生まれたりしてというケースは多々ある。作業している人に水準を合わせてできる仕事のレベルで仕事を成り立たせてゆくというのも、中もそうだし外もそうであることは多い。

とことんやる人同士の組み合わせでものづくりをすると簡単に高い水準のものに到達するというのは私も仕事で経験していてそれが余裕をもって笑って仕事していけるような理想だけども、そうなってくると本当に特殊な世界に入ってしまって、今の日本の流れとは外れてしまう。

その日にその場で説明してできる程度のことをうまく組み合わせて成り立たせるというあたりに落ち着いてしまう。仕事をする以前の地力みたいなものがあるかないかが結局は大事なところで、地力のある人というのは言わなくても正しく仕事をするし、地力のない人というのは仕事自体に抵抗があるが多い。

私も仕事を始めた最初から職人さんたちが面倒がることでも普通にこなしていたし、こうやったほうが上手にできるのにと思うことも提案はするが受け入れられることは少なくて、全体として仕事の内容を高度なところに行けないという問題も常に抱えていた。自分が初心者の人に仕事を教えるときには、高度なものづくりに近づけるような手法でのやり方でスタートできるので、仕事というのは素直さが大事なので逆に経験がないほうが良いなあと思えたりする。

私自身も経験を積んで失敗の少ないベストな方法を選んで仕事をしているつもりだけども、臨機応変的にいろんなことを試してみるのが職人的じゃないところで、自分が一緒に仕事する相手に応じて、仕事のやり方を変える。私のいうことを理解できてそのままに動いてくれる人と組んで仕事する時には自分が一人で仕事する何倍ものスピードで正確に仕事ができるのだが、なかなかそういう人というのは稀でそういう人に出会った時にはすごいなあと思う。多くの人というのは仕事の時でも仕事をすることに集中できない要素を何か持っていることがほとんどだったりする。

昔、他の会社の人だけど、同世代の人で仕事の終わる時間がくるのが待ち遠しいといっている人がいたので、仕事の中でできることあったらいろんなことをやったほうが良いよと親身な話をしたけども、なかなかそういう感覚に陥ってしまっている人というのは変わることは難しいもので、本当に残念だったけど繊維の仕事を去られてしまった。目の前にものごとがあってもやらないやりたくないというので食べていこうとしても、やってても難しいのにやらないで成り立たせるというのは、方法論を論じているだけの理想高い系に近い気もする。

最初に戻るけども、技の極意にたどり着くなんてことは孤立を招くので私の場合でも仕事じゃなくて趣味の世界として別口でやるみたいなこところ。仕事は仕事で好き嫌い関係なく当たり前にこなしながら、特殊な織物というのは仕事とはせずに自分自身で高めて育んで自分の余力の範囲で残しておこうと思う世界。一方で、そういう高いレベルのものごとだけを仕事として目指す人も多いけども、そういう人ほど当たり前にいろんな壁にぶつかるばかりで食べていけないことも多かったりするので、それぞれの状況に合わせて成り立つような方法を模索して成り立たせてゆくのが正解だろうと思う。

産地を代表する近江上布の織元だったころの林与というのはその作業をしている人たちに地力があったんだなあと思う。ものもない時代に今よりも高度な織物を道具も作りながら手作業の世界で生み出して行く。布の価値というものが詰まる要因がそこにはあって、仕事に対する意気込みみたいなものが、単に技法ではなく、多くの人を魅了するような力のこもった布を生み出すんだろうと思う。アーティストと同じく、布からそれを作る人々の人生観が伝わってくるように思う。農業だけでは食べていくことが難しく、生きてゆくためにも仕事を人々が欲した時代で、田舎のおっちゃんおばちゃんが世界を魅了するような布をつくることができたのが60年ほど前の戦後の時代。

私自身も、必要なら1日24時間あれば、自分一人で糸を整経して布を織出すまでを一人でできるが、働いている人や頼んだことの失敗を乗り越えるときには誰かがそういうことができないと全体の普通が成り立たなかったりするから、繊維の仕事というのは海外に行っちゃうんだろうなあと思う。


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