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リネンや麻を織る日々をつづっています。

リネン日記

寒さ

2024年01月02日

誤報、夜中に震度7の地震が起こったと発表されそれが誤報だったということで、その悪意もまったくない気象庁の誤報に対してメディアがなぜそんな手違いが起こったのかを問い詰めるような記者会見。本当にメディアというのは災害時に平和ボケそのもので、地震が来るのを予期して供えるためなら誤報が起こるのも仕方ないのに、責任を追及して謝罪させようとするような、マニュアル的な考え方。そういうのが本当に駄目な考え方で、最善を尽くしてやってる人を、安全な人たちが最優先の対策に時間を使わせずに問い詰めて時間の浪費。

最初の地震の時にも、地震がこれからくるのを携帯電話が知らせてくれただけでも、すごく良かったのではないだろうか。たまにそういうのに誤報があったとしても、人々の命を救うためにくだらないことやっているよりも、地震や津波が来そうだからすぐに逃げてというのを知らせるほうが良いだろうと思う。原発事故や列車事故などでも、警報装置が働いてなっても誤動作だと人が判断しないといけないようなことがあって、それを切ってしまって、運航して実際に事故が起こることがある。その裏には、優先順位が間違ってしまってそういう判断に至るのだが、人々の安全以上に、マニュアル的なことが勝ってしまったときにはそういうことが逆に個人の責任を問い詰めて起こりやすい。

まともな感覚というのは大事だろうに、記者会見の記者などは自分たちが大きな問題を抱えていることを分かっていない。人々はそんな誤報の理由をしるよりも、そういう誤報があっても人の命を守ろうとする気象庁であってほしいと思うの。それが防災という概念で、意図的な間違いでなければ逃げ遅れないためにもそういう早期の発表は大事なのである。システムが災害が起こったと判断するような場合、人の命にかかわることなら、後で誤報だと叩かれるの心配して流さないよりは、とりあえず発表するということも大事だろう。よく政治家がそういうのやってしまって、今度はそういう失態を隠そうとしておかしなことになってきたのが今までの日本。失敗もあるということを受け入れることも大事で、隠さずにみんなで議論してゆくためにも、情報というのは公開され共有されるべきで、報道機関がその逆の姿勢で責任を追及ばかりでは、人の命を最優先するような姿勢もない。

私自身も最初の地震と違ってまったく地震を感じなかったので誤報を疑ったが、発表した人たちにしても同じに思ってすぐに間違いを訂正で、正常な判断としてものごとが進んでいて、そういう姿勢というのはたとえ誤報につながったからといっても、問い詰めていては仕方ない。大津波警報も、津波の被害がそれほどなかったから、それを失敗だと問い詰めるのではなくて、みんな逃げることが最優先という一丸となった考え方を持つことが大事で、それに手順やマニュアルなど必要なく、今、火事の問題もあるけども、仕方ないとあきらめて消防士なども消すのが難しいと思えば、消火活動を諦めて、落ち着くのを待つという判断も大事だろうと思う。自警団の人たちがあのほのう立ち向かうとなると絶対に無理で、自警団レベルは自分たちの財産的なものはとりあえずあきらめて命を守ったほうが良いだろうと思う。水門を閉めにいった自警団員が多く犠牲になったのが東日本大震災の大きな悲劇で、諦めるものを諦めて逃げることも大事。

こういうのを教訓に、あと見直さないといけないのが、市街地区域とかの概念、やたら密集させて火災などには非常にもろい都市計画となる。古い集落も同じ問題を抱えている。新しく建てる家にしても、一件の家の面積を160平米以下に縛ってしまうのは、固定資産税が3分の1となるなども、あまりにも、国民が豊かになることを否定するような政策で、そういうのが田舎にも適用されてしまう。田舎も必然と、狭い面積のところに家が建つので新しく建つ家も隣とが50cm+cmしか離れていないとか。昔よりは、壁と壁を話す努力はしているのだろうけども、そもそもの広い場所に住むのを許せば、人々はより安全に暮らせるのに、縦割りで固定資産税収入のことばかりを考えていては人々が安全な住まいを選択しにくいバックグラウンドがある。狭い家をつくると、2階建てにして、階段がすごく狭いとか旧だとか、むりやりロフトとか。ほんと新しい家にしても無理ばかりを詰め込ませ強いる。建築基準法を国民に強いるばかりではなく、国レベルが国民をさらに縛ることで解決ばかりを考えていないで、安全な居住空間づくりを考えていくべきだろう。人々の精神面での健康にもつながる。


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