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リネンや麻を織る日々をつづっています。

リネン日記

2016年08月13日

柔道というのは、柔らの世界。たぶん、柔らの世界をやったら攻撃していないということで指導を受けるのだろうが、なぜか、攻撃ブンブンと逃げるばっかりで、柔らな世界がないのが、柔道らしくない。柔道は力じゃなく、柔らの世界であるべきだろうがそれが理解されることは難しいだろう。本当の達人の柔道は攻撃する意思がなく逃げているという意味で指導を受けるだろう。

剣道なんかも、勝負を超えた礼儀の世界があるが、日本のオリンピックのメダル思想とは相反するところがあり、勝つ負けるだけが勝負ではないという方向転換が戦前戦後の剣道の世界にあって、それが大きく影響をしているだろう。剣道が東京オリンピックの正式種目になることは念願かもしれないが、剣道の精神というのはそれほど浅くはない気もして、国際種目になった柔道みたいな道を歩んでは、剣道の中にある価値観みたいなものが流される気もする。

もう生存されている方は少なくなっただろうけども、敗戦で捕虜となった日本人がいたのである。捕虜となった日本人は、あまり捕虜となったときの話をしない我慢強いのである。生きて帰ってきて、それが恥ずかしい。まさに金メダルを取れなかった日本人の恥ずかしさと通じるものがある。しかし、そこから戦後の日本社会を支える土台となった。剣道を教えて下さった先生の一人もロシアで2年捕虜になってシベリア鉄道の建設で仲間を失われながらも帰還された、中学生のときに先生のお宅にお邪魔したときに、その話を一度だけきいてそんな過去を背負っておられたのをびっくりした。

その先生は、当時70歳で、高校生、大学生やほかの先生を相手にできる強さだけでなく、剣道という世界を築いてこられた部分が勝負の世界以上に意味のあるところ。強いものだけを集めて金メダルを目指せみたいのとは違う世界。オリンピックで勝った時に柔道でも、負ける相手がいて自分が勝てるということがわからないと、難しいだろう。誤審なんていうのももちろんあるけども、選手にもフェアな精神がないから誤審が起こるのである。自分で一本取られて負けたと思ったら参りましたと頭下げるくらいでないと一流選手とは呼べないだろう。

日本の卓球男子ダブルスで、審判の判定が日本だったのを日本選手がエッジボールで相手のポイントだったというのを自己申告して審判が訂正。競っているときに2点の差のマイナスが生まれるが、この選手のフェアな精神は、勝っても負けてもこの人は強いと思えた。ドーピングや審判の買収工作なんてしてるくらいだと判定に対する、そんなフェア精神はまったくないだろうが、そういう選手だけでなくコーチまでもが溢れているのは自浄努力がないと成り立たない部分。

クウェートという国が国家が選手の選抜に際し、クウェートのオリンピック委員会に干渉したということで、クウェートは選手が表彰台に立ってもクウェート国旗と国歌が流れなかったという。政治家や企業による裏工作でフェアな選手の選抜が認められないなら、それほどオリンピックの精神に反することはないということだろう。注意しておかないとならないのは、東京オリンピックのエンブレム問題でもオープンを嫌って政治にありがちな不透明な部分だらけで力で押し切ろうとしていたところ。誘致にしても裏では金で解決できるかもしれないが、フェアな精神でやって負けても多くの人は文句はいわないどころか、負けてもフェアであったことを賞賛するだろう。裏では大きなお金が動いているのだろうけど、政治とは違うのだから騙しては駄目。


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