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リネンや麻を織る日々をつづっています。

リネン日記

人力の織物と手織の織物

2018年10月10日

英国の手織りというのは人力織機を使った人力織物で生産性は高く日本の市場でも安く手に入り人気である。一方、日本の手織りというのは本当に手でシャトルを動かして手で横糸を打ち込むので織物としては手織りの熟練の技術が必要で、手間が掛かるので希少性は高く、安く手にいれることは難しい。このあたりが、日本の手織の織物が高級品となりなかなか流れ難い理由である。英国のように日本も人力織りを手織りと定義すれば、日本でも手織りの織物で溢れかえるだろう。日本からは本当の手でシャトルを動かして手で横糸を一本一本打ち込んで織る手織りは評価されなくなってしまうだろう。

言葉定義ひとつが織物の価値観を変えてしまうケース。織物にあてがわれる手織りという言葉も、英国の織物の場合は人力織物を指し、日本の場合はイメージどおりの本来の手織りを指す。言葉なんかよりも、やっていることの実際が何なのかが伝わることが大事だろう。たぶん、日本の着物の世界の手織りをみれば、価値があることが納得できると思える。言葉やラベルを鵜呑みにせずに本質的な目、そういう目がないと布の一般的な評価をすることは難しい。

林与のシャトル織機を自転車式に動力をしたら手織りなのかというと、織物をやっている私からすれば手織りではない。ヤバイ一線を越えてしまった後ろめたさがあってしかるべきではないか。手織りというのは手で織る織物だから。人力でも評価はできるのだから消費者に間違ったイメージで理解されないように人力機械織物と謳うほうがよいだろう。子供がおもちゃの織機で自分の手で織ったもののほうが本物の手織りなのである。

織物の世界で何十年の経験者がまともにものを作れるかというと先代もそうだったけども、経験者ほど驕りがあって一つの布を正しくつくることもできなくなることが多い。過去の実績なんてものよりも、今、正しい布がつくれるのかの問題で、経験の長い先代よりも若い素人のほうが正しい織物をつくるのには何倍も役に立った。それは年取って目が見えないからとかでなく、普段から仕事していないから正しい布もできないのである。母親にしても織物の簡単な作業一つが面倒なのである。偉そうにしていても実際の織物をちゃんとつくろうとする気持ちもないようでは駄目だろうと思う。それは私が私自身にこの仕事で食べていくときに思う部分。仕事に戴する正しい基本の意識がなくなってしまったら仕事からは去るべきタイミングとなると私自身覚悟している点。繊維の世界、化かして儲ける考えが多いだけに、自分たちがお金も時間も労力も使って働いてつくった安心できるものを使ってもらおうという思いがある。ものづくりはラベルで化かすじゃないのである。

産地の存続のためには、自分自身が良い布をつくるとか正しい布をつくるとか自分は仕事をまともにこなして行くような基本姿勢が大事で、やっているものにほかのものが偉そうにしても始まらない。先代と私の関係がそういうものだったので割り切って、何十年の経験なんてあってもだらしない仕事姿勢や勘違いした仕事姿勢をみせればそこで終わり、自分が率先して目の前の仕事するから仕事があるだけで、良い布が机の上で議論して生まれてくるようなものでもあるまい、それなら良い布をつくるための作業に時間を使ったほうが本質的には意味がある。実際にやっている人の仕事の中から試行錯誤で良い布は生まれてくるものだろうと思う。


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