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リネンや麻を織る日々をつづっています。

リネン日記

なぜテキサスで

2019年03月13日

テキサスで全米のオーガニックコットンのほとんどが栽培されているというのは驚きの事実なのだが、それはテキサスでしか、オーガニックコットンの規定に縛られてオーガニックコットンが育て難いという事情がある。雨が降らず普通は植物が育ち難い砂漠地帯がオーガニックコットンの栽培には適しているのである。スプリンクラーで水を吸い上げてコットンを育てる。テキサスの農家の苦労も先進国日本で繊維産業で途上国の繊維産業以上に苦悩の毎日だから、そういう現場の覚悟もない権威主義な基準が現場の人々を苦しめる現実で、本来あるべき自然の恵みが成り立たないようなオーガニックの基準すらもどうかと思う側面も感じるのである。

枯葉剤を使わなくて良いのが、砂漠気候だから乾燥していて雨が降らず、3ヶ月とか放置しても綿花が腐らずに完全に枯らして葉が落ちるのを待つことができる。水分をスプリンクラーを止めることで完全に制御でき、枯れさせるうモードに人造的にコントロールできるのも強みである。他の場所では雨が振ると綿が濡れて品質が落ちてしまうが、砂漠気候の中に人工の力でオーガニックコットンの世界をつくりあげているのがテキサス。収穫も手摘みではなく、大型のコンバインで機械的に収穫が出来き、オーガニックな手積のコストが掛かる部分を大型のコンバインで刈り取ることで少人数で解決しやすい。

乾燥していて虫やカビなども日本などと比べて少ないのであろう。雨が降らない不毛の地を水と有機肥料を投入することでオーガニックコットンの一大産地に変えるプロジェクトが成功したということ。オーガニックコットンというと、代表的なのがインドで、昔からの製法で手摘みの世界がある。日本もオーガニックコットンは雨が多いので棉がはじけるごとに手積みが必要とされる。アメリカのオーガニックコットンの栽培はスプリンクラーが使われていたり大型の機械が収穫に使われていたりと、一般のオーガニックコットンが自然の力と人の力を中心としている中、最先端的なオーガニックコットンの栽培技法から生まれる。

先進国でオーガニックコットンを栽培するのが楽なのかというと、大規模農園でも数人の人間でやるためには設備投資にお金は掛かるし、いわゆるアメリカ的な遺伝子組換コットンや農薬を使っての栽培で効果がなく、成り立たない農家が、生き延びる策としてオーガニックコットンに掛けて成功したという話は人々の共感を得る部分で、ビジネスとしては大きな評価に値するだろう。

インドでも遺伝子組み換えコットンで多額の負債を背負い自殺者が出る問題があって、オーガニック業界での惨事として反遺伝子組換というところにきている。テキサスの事例をみているとオーガニックコットンは将来的には資本が投入されればアフリカがオーガニックコットンの巨大生産地となる可能性が高いであろうと思うのは私だけだろうか。

違和感を感じる一つのことには、オーガニックコットンのイメージとすると大地の恵みみたいな自生するようなものを描くが、それが現実的なイメージではない部分がオーガニックコットンの世界にもあることを知る必要はあるだろう。理想的な基準にしばられながらそれをどう人工的に経済的にクリアするのかが先進国的なオーガニックの考えで、他方では自然の恵みと手摘みの人的労働のオーガニックコットンの世界があり、同じオーガニックの中でも方向性はまったく異なる。不毛の地だから逆にオーガニックコットンのレギュレーションに人造的だとレギュレーション的には適合しやすいというところも、オーガニックコットンを基準で運用すれば一番適合しやすく正しいことの一つなのである。それをすることにも多大なるリスクを伴い成功したテキサスのオーガニックコットンの農家の方を応援するべきだろうとは思う。

たぶん、テキサスの農家のほうが、インドの一般的な農家よりも大きなリスクを背負ってオーガニックコットンに掛けていて、日本の繊維業界の苦悩と共通するところがあり、テキサスの人造的なオーガニックコットンの世界が先進国でオーガニックコットンを育てるのにできるベストなんだろうと思う、どんな基準があろうが、リスクを背負って自分が生きるためにベストをやっている人々を否定してはならない、基準でしばってその人たちの生命線を握るのは奴隷使いそのもの。途上国だけが苦しいのではなくて、先進国の人々の真面目に農業に取り組む人のほうが何億もの負債を背負い苦しいことも多いから。

殺虫剤の使用がすくないからと遺伝子組換を推奨するのもオーガニックの考え方もあるが、それは、原子力発電が地球温暖化に貢献するからエコだというのと似ていて、世界の原子力推進の旗振り役の日本的な地球環境を謳うスタイルに近い気がする。遺伝子組み換え作物を信じて裏切られた気分で、まったく反対のオーガニックで生きようと決意するのも人々の意思だろう。逆にオーガニックのレギュレーションが全世界的にオーガニックコットンの栽培を普及させるのに歯止めになっているという部分があるのも、オーガニック栽培の苦悩をしっている現場の人なら分かるだろうが、レギュレーションだけ作ってる人たちには分からないところ。私が普通のコットンでも十分天然繊維で否定すべきではないと思うのはそこで、厳しい基準をぶつけるだけで全世界的なまともに農業に取り組んでいる人々でも自殺に追い込まれる普通の生産を覚悟している人や作物を馬鹿にしてはならないという辺り。

日本人がコメ不足で、食べるコメにコマっても、日本人の口に合わないタイ米とかしか意図的に入れない農水省のどうしようもなさ、震災のときに液体ミルクをネッスルが被災地に届けようとして安全性の面が確保できないとした農水省。人々が食べるものもない苦しみを感じることもできない日本の行政の人間の感覚。そういう人間の存在が逆に人々を苦しめることは多い。

オーガニックを選択する人に、認定だとかクソだけなことにこだわって、現場の人の覚悟すらも分からずに、農作物が死滅するときに農薬を使えばオーガニックじゃなくなるけどやったらダメなの?認定を外されても自然と闘うためには仕方ない行為だというところ分からないとすれば、奴隷使いそのもの。せっかく育てたものがすべて無駄で食べて行けなくなる方向性。それをオーガニックだと謳えば別の問題だけど、農薬を使用した事情を説明して市場に流すも正直でエコなチョイスだろう。オーガニックじゃなくなるけど否定するようなものでもあるまいが、オーガニックやっているひとは、害みたいにいう人が多いけど、私はどうなんだろうと思う。食べていくのも難しい人たちというのは命すら掛かっている状況で、そういう人たちを支えるときに彼らが普通のコットンを作ったとしてもそれを買って支えてあげるのが私はエシカルで良いんじゃないかと思う。

オーガニックの前に、社会問題としては、生活とか食べて行くとかすらが難しい大きな問題があって、オーガニックなことじゃなくても彼らが生活できるようにとか食べていけるように考えてあげるのが必要だろうと思う。たとえば、普通のコットン製品であったとしてもそういう生きるために苦労をしている人たちがつくったものなら買って応援が人の命を救うことにつながりオーガニックの前にエシカルではないのか。

オーガニックには矛盾が存在するというのも事実で、オーガニックを求めればブラックな現場。朝10時から夕方5時まで週5日のオーガニックではオーガニックの現場すらも支えて行くのは難しいだろう。農作物がオーガニックを信じて死滅すれば、それは遺伝子組み換えを信じて自殺に追い込まれる農家と同じことをオーガニックの基準とか認定だけの世界が強要しているのと同じことなのである。私が思うのは遺伝子組み換えと同じ事務的なレベルでオーガニックの基準が運用されがちなところ。オーガニックをやってる人々を救えるようなオーガニックでないと、遺伝子組み換えと同じところに陥ってしまうのを、オーガニックな世界にも感じる。


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