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リネンや麻を織る日々をつづっています。

リネン日記

サステイナブル

2020年02月12日

ファッション関係はサステイナブルがテーマなところが多いが、林与のものづくりは基調がサステイナブルなところにあるので、5年後10年後には忘れられてしまうようなブーム的な軽い感覚のサステイナブルには、あまり流されないようにしないとダメだなあと思ったりもする。

結局のところは、自分がどれだけ働いて人々を喜ばせられるかとか支えられるかとかいうあたりになるんじゃないかと思う。私も他の人に仕事してもらうことはあるがそれ以上に難しいことを自分は解決して苦労してゆかないと、人に苦労させて自分が楽してサステイナブルでは駄目だろうと思う。あんまり好きじゃなかった話の一つがある方がエコとかオーガニックの商品企画をしてもらえないかという話の時に、儲かるという前提がその方が基本としてあるんだけど、普通の商品の何倍も値段のする材料や何倍もの時間使って織る織物、それがオーガニックリネンだったりして、そのコスト足しただけでびっくりされる値段になってしまって、アパレルさんなんかがなかなか使うことは難しいだろう生地値。

オーガニックラミーにしても同じ問題を抱えていて、スーパーロイヤルなんかと比べると糸のもろさが極端すぎて、経糸切れを直そうとして飾りの中で糸を分けようとすると問題ない糸が切れてしまうほど強度がない。そんなものが織れるのかというと手間を掛ければ織れないことはないが普通の商売として成り立つような世界ではなかったりする。糸のロットや糊付けの加減で織れるときと織れないときの差が大きすぎて織れないときには、他の仕事ができなくなってしまうほどに苦しむことも多い。

まあ、本当のオーガニックの糸ということで、そういう持ち出しになっても大事に育んでいくというのが大事だと思ってやってるから、続いている。それがサステイナビリティなんだと思う。結局は他のところでの余力を底に回して成り立たせるような形でやってるので、それ自体は成り立たないけども、全体として工夫して成り立たせてゆくような世界。そういうのに賛同してくださる方が多いと、そういう成り立ちにくい世界も存在が可能だったりする。経済的に成り立たせるように持っていくことが当たり前に思われて仕事されている方が多いと思うけど、普通の仕事でもマイナスなこともあったりするのが普通であったりして、他の仕事で穴埋めしたり、長い時間働いたり、思い切って在庫抱えたりするから、できてたりすることも多い。年配のお客さんよりも私より若いお客さんが多くなられて、そういう覚悟を強いるのは酷なんだけど、そういう覚悟でやっていかないと特別な世界みたいなものはつくることは難しい。

児童労働の児童よりも苦労のない日本人が児童労働の児童の立場を考えられるのかというと、自分の目線が勝ってしまって、児童労働している子供たちが仕事を苦にしているかというと日本人の大人が働く程度のことは児童労働の子供でもこなせることがほとんど。その程度の仕事を日本人だと仕事が嫌だとなって、児童労働の子供の仕事なんて私は絶対にできないわ無理、みたいな感覚が多いと思う。それはどちらかというと児童労働させて、自分は口だけで児童にさせている内容もやりたくない大人の世界。教育を受ければ高度なことができるのかというと苦労して働かない搾取側に回ってしまうケースがほとんど。そのあたりがサステイナブルとかエシカルとかエコを考えるときにいつも違和感を感じるところで、人に要求や指図するじゃなく自分が体動かして目の前の作業してエコでサステイナブルでエコな社会を目指すが大事だろうと思う。それをやらない人が概念だけでエコやサステイナブルやエシカルを指揮しようとしても薄っぺらく終わる。エコやサステイナブルやエシカルを現実的に支えようとする作業には普通の人が逃げ出すような要素があるものでそういう作業を支える覚悟がないというだけでは融和すら難しい。全部の社会がサステイナブルに向かうは難しいと思う、利己的なところが一番の人がみんなのことを考えるように変わるとか議論して解決する問題でもないだろう。

そういう対立的なことやっているより、サステイナブルなことを大事に思う人が実際にサステイナブルな取り組みをすることが大事で、普通の仕事にしてもさぼってるのとちゃんとするのでは、同じ仕事していてもサボっている人は仕事を駄目にしてしまうし、正しくする人は仕事を成り立たせる違いがある。正しくものごとをやっていても例えばつくったものが売れないとか受け入れられないことも多いが受け入れられないことが駄目なんじゃなくて工夫が足りないと考えて違うアプローチが必要なこともあるだろう。自分が自分で自立して自給自足的に生きてゆけるようなのが、サステイナブルの基本だろうと思う。児童労働の子供のほうがその基本には近いと思う、そういう子供が成功する社会にしていくべきではないのかとも思う。不幸な境遇にある人ほど成功をしやすいもので、逆に、そういうのを、階級社会や学歴社会が拒む要因にもなりがち。階級社会や学歴社会の目で児童労働を見て取り込むんじゃなくて、階級社会や学歴社会が否定されようとも本質的な部分で評価が必要だろうと思う。


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