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リネンや麻を織る日々をつづっています。

リネン日記

2020年10月11日

今年もお寺の裏にある林与の柿がたくさん成ったのだけど、残念ながら2年前の柿と比べると全然おいしくないのである。甘さが少なく味が薄い、2年前は12月に食べていたのに、今は2か月も早い1月に食べないと熟して落ちてしまう。数はそれなりに多いので、2年前のおいしい柿の反動が出ているのだろう。

まあ、それでも、1か月ほど前は、ヤツガシラに全部葉っぱをやられながらも、農薬どころか肥料も、害虫すらも柿の木のはっぱを享受し、その末に残って成った実で、オーガニック農法以上の自然そのものの柿なのである。子供のころには当たり前だったヤツガシラを柿の木にみたのが久しぶりで、安心をした気持ちすらある。柿を食べる害虫にみえても鳥などから食べられてしまわないように全身をとげで守っているヤツガシラ。葉っぱを食べつくすとヤツガシラも食べるものがなくなって消えてしまわざる負えない、あのあと蛾になって飛んで行ったんだろうと思う。

それが最高においしくないとかあっても、おいしいだけが価値じゃない、成っているだけは毎日食べようとは思う。最高のものを求めて普通のものを受け入れられなくなってしまったらそれはバブルのころの浮かれた価値観と同じで、現状を受け入れることが大事。柿をとってもレジ袋が必要なわけでもなく、手で持って帰って包丁で向いて食べるだけのこと。

リネンの糸などロットによって当たり外れがあるけども、外れのリネンのほうが問題も多くても手間が掛かっていて大変だった思い出は残る。そういう時に、傷になって織れないとか補修するために納期を待ってもらったりと肩身の狭い思いをしながらも、温かさをいただけたりでやってて良かったなあと。

また、野生の鳥たちが、熟した柿の実を食べる、その分くらいは当たり前に残しておいてあげる必要はあって、その残った分から人間が柿を取って食べる。自然を守るというのは認証とかそんなんじゃなくて、人間自身がある程度のあきらめをもって自然と分かち合う必要があるだろう。他の動物や植物と自然を分かち合うことが大事ということで、そこには、自然に対する権利なんて概念は必要がないだろうと思う。

人間同士だけで、自然の取り合いをしているから、自然そのものがどんどんと消えてゆく。人が手を加えないことが自然なのだが、私が90年代にアメリカにいた時に、ヨセミテ国立公園などの自然意識に関して知ったのだけども、自然に天災などで火災が起こった場合には、自然に消えるまで消さないとかいうほどの自然保護の意識。

商業的なものばかりではなく、人の手の加わっていない自然農法的な天然の恵みを授かるようなところも大事だろうと思う。品種改良などでかけ合わせがあろうとも、品種改良を進めるばかりではなく品種改良をバックするようなことも大事だろう。そしてそれを分かって、品質が落ちるのも分かって人間が取り入れて自然を守る。

私自身がオーガニックリネンを扱っていても、問題が多く、それは仕方のないことだと思いつつ、手を掛けて織っている。自分が手間を惜しまないで手を掛けることが自然と商業的な部分とを成り立たせるための部分だろうと思っている。オーガニックリネンにしてもオーガニックラミーにしても、強度と品質の安定性の面で織れなくなることも普通、それを手間を掛けることで成り立たせてゆくのも、オーガニックを支えたい気持ちをもつものだけができること。途上国の児童労働を嘆いていても自分がそういう子供の代わりにその程度の労働を当たり前に代わりにする覚悟もない人が少ないのがオーガニックのエシカル的の本質的な問題。

自分たちの老後よりもこれからの人の将来を考えてゆくべきだろう。自分たちが考えて生きてゆけるような社会土壌を残してあげるべきだろう。ボタンの掛け違え見たいなルールを残さないようにしてゆくべきだろう。PCBやアスベストなどを安全と推し進めたのも、学者たちでそれを認可したのも国で、オーガニックの世界も営利的になりそれと同じような感覚に陥れば、オーガニックでやっていることが、PCBやアスベストのような地球環境破壊につながる恐れも多い。遺伝子組み換え作物なども学者が生み出し国が認めたものだけど、もう、その責任から逃げだして会社は消えてしまった。


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