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リネンや麻を織る日々をつづっています。

リネン日記

富士吉田

2023年03月12日

富士吉田から便りが届きました。いろんなイベントが今年計画されているようです。ハタオリマチなので、行くと楽しいですよ。富士山も見えて、吉田のうどんというのがあって、吉田のうどんも、お店によって味が異なるし、6年前には一杯が300円でした、今もたぶん安いままだと思います。私は1回3杯くらい食べたほどで、おいしかったです。

昭和の飲み屋街がゴーストタウン化していますが、そのまま残っている区画があってそこも素敵でした。無理と残すようにみんなが協力して立ち退いたのかと思いましたが、富士山があるがゆえにらしいです。でも、一部のお店は若者向けのバーになるなど、その風情が残っていれば観光地としては昭和にトリップしたみたいな感覚になるので良いと思います。

その飲み屋街も、昔富士吉田が、ガチャマン時代に反映した名残で、当時の機屋の旦那たちは毎晩そこで飲んでいたのでしょう。機業のひと世代前というのは、酒の付き合いみたいなものが仕事のうちで、お客さんと飲んだり、同業者同士でも集まって飲んだりと、今の後継者とはまったく違う職業観だったと言えます。普通に働けばお金が儲かるような時代が昭和の機業で、戦後、自動車産業が花形産業になる前は、繊維産業が日本の花形産業でした。

富士吉田の織物の特徴としましては日本の絹織物の歴史と深く関係していて、伝統産業系の織物としてはシルクの織物があります。富士吉田は徐福伝説ともかかわりの深い街ですが、私が富士吉田にいったときには徐福像などはPRされていませんでした。徐福伝説は、伝説だと言われていますが、徐福というのは神武天皇だったといわれている説があり、弥生人がどこから渡来してきたかを説明するのに整合性があると私は思います。

あと、大麻も徐福が持ち込んだ可能性があり、当時の大麻というのは織物としておられたのではなく、妙として使われアタタエと呼ばれました。シルクはニギタエです。それが織物としておられるようになって、布が出来たのです。妙の語源は多重で、ワタの状態に打綿して、身にまとったと言えます。滋賀県には、近江真綿というのがありますが、真綿というのは、コットンではないんです。シルクなんですよ。シルクの繭を引き延ばして面にしてゆくのです。それを重ね合わせて妙が作られます。今も、真綿布団はその技術でつくられていて、滋賀県にはその技術が継承されていますが、風前の灯と聞いています。

日本の神道では、大麻が神事に使われます。日本の古代の洗濯というのは、砧を使って汚れを落としたので大麻は、繊維長が短いのでどうしても打綿状態になって、柔らかくなってしまって長持ちしないので、服に向いたのは苧麻と呼ばれるラミーでした。魏志倭人伝でもラミーが植えられているという記載があり、苧を取って、緒を縫って最初は、布が作られていたから縫う苧で布という言葉が生まれたという説があり、織物は苧を折るということから来ていると言われます。

カラムシというのは、麻のなかでも苧麻のことを一般的には指しますが、それは殻を蒸して苧を取り出すからという説が有力です。現代の洋服の世界では柔らかいものが高級とされますが、古代の織物というのはしっかりとしたものが良い織物とされ、太い糸を使ったガサガサなものは安物とされました。細い糸をしっかりと目をつめて織った織物が最高級品とされ、日本の神宮大麻が中国に献上されたことから奴佐(ヌサ)と中国で呼ばれたことで、麻という言葉の語源になっていると言われています。中国からは金印や絹の織物、苧麻の織物が賜られたというような感じだったのでしょう。神社の神事で使う幣の語源も、現代では紙が使われることが多いですが、古代には大麻が使われたことから来ているということです。

林与の持論で一般的にはいわれてませんが、神道は、ヒンズー教やインド仏教の影響を受けているのではないかと思っております。ちょうど徐福がインドに7年留学する前には、アショカ王の時代があり、インドで仏教が盛んな時代でした。大麻が神事に使われるのも、ヒンズー教と大麻のかかわりが深く、インドでは、ガンジス川は神の川で、大麻はガンシャと呼ばれ神の草という意味です。神社の鳥居がどこから来たのかということに関しても、インドの寺院には鳥居に似たものが建てられており、それを徐福が日本の神道に持ち込んだのではなかろうかと思っております。仏教の伝来に関しては、6世紀の半ばに百済からという説が定説になっているようですが、日本神道は、仏教の亜種的な位置づけでもあり、日本の歴史の中に置いては、神社とお寺が合併したような歴史もあって、整合性する部分は多いと言えます。

日本のもっと昔からの神様というと、山の神様や海の神様、川の神様などがあります。林与の集落には山の神様は、6か所残っているということで、林与もその一つの集まりにありましたが、いつ始まったのかもわからず、石が積んであるだけの社です。そしてご神体は別の集落にあるのですが、そのご神体は三つ又の木で、それは女性を想像させる部分があって、子孫繁栄につながる思想です。山の神様は、60年間に一回宿が回って来るとからしく、60軒で組織されていたからかなあと思いますが、3世代に1回くらい当番が回って来て、世話役を担当するような形の神主さんなどいない形の宗教です。

縄文時代以前からの宗教というのが、山の神様だったのではなかろうかと思います。縄文人にしても、地球がアイスボールだったといわれる1万年くらいまえ、それが解け始めて、南方の国から日本の西日本に人々がたどり着いたのだろうと言われています。船なのか、氷が解ける前に氷の上を歩いて来たのか、北の方からも、大陸から北海道にはアイヌ民族が定住し、それはアメリカ大陸のアメリカンインディアンと同じだろうという説を、アメリカにいた時にホストファザーが教えてくれました。アラスカがロシア領だったのもうなずけることで、カナダやアメリカでは先住民であるインディアンの種を根絶するような時代や歴史もありました。日本でも、蝦夷とか北海道の開拓の歴史はそれに近いものがあり、日本は一般に単一民族であると言われますが、正式にはそうでない部分もあります。それは逆に、アイヌの子孫を共生の部分が多少なりともあってアイヌ民族の子孫の方々が残っておられるということで、縄文時代と弥生時代にある、縄文人と弥生人が共生して今も主たる日本人の祖先であるのと似ている構造ではないでしょうか。

弥生人が、童男童女3000人と職工500人の徐福一行だとすれば、当時の秦の始皇帝時代の最先端の中国が日本にもたらされたということになり、日本には、青銅器時代よりも鉄器のほうが先に持ち込まれたというあたりも整合する部分で、たたら製鉄の技法なども、きわめて現代でも再現が難しいほどの純度の高い古代からの日本刀の鋼に使われるような鋼鉄は、徐福ともに日本にもたらされていた可能性があります。神社の御神体になりがちな隕鉄なども、隕鉄を集めてヤマタノオロチ伝説時代の鉄が取られた可能性は高いですが、その後の弥生時代にはタタラ製鉄技法での製鉄技術と移行したのでしょう。中国でも失われてしまったような技術が日本で徐福経由で日本で継承された可能性はあるんじゃないでしょうか。

日本独自に、高度な織物技法を生み出すことや、製鉄技法を生み出すことを考える前に、それを生み出す日本人がいったいどこから来たのかという問題を考えると、高い技術水準を持ち込んだというだけでなく、下衆な話になりますが、当時の中国の呉の国の良家の頭の良い子供たちを集めて教育して弥生時代が生まれたのではないかと考えます。七夕伝説や鬼ヶ島伝説も、徐福伝説に被るところがあり興味深い話だとは思いませんか。


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