for English speakers: Welcome to HayashiyoWelcome to Hayashiyo
リネンや麻を織る日々をつづっています。
ホームリネン日記
リネン日記
リネン日記:3569
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | ... 179 次のページ»
2024年04月23日
今日ある会の代表の方と話をできた機会があって、オーガニックの国際認証の大きな問題の本質を認めて、世界統一の基準があるのではなくて、各国ごとに異なる各国のオーガニック基準に従うしかないという問題が、国際認証にはあるのも駄目だけどそれしかできないみたいな話で、正直にそういうのを認めてくださっての話なので、日本で、化学肥料不使用とか、遺伝子組み換え不使用とか謳うのも輸入される原料を使った糸に関しては多くの割合で難しい状況になっている。国際認証機関でもコントロールするのが難しいというような、昔から天然繊維やっているものからするとそういうのが一番ラベルだけで一番の謳いが怪しい要素というのを認めておられる方なので、逆にそういう現状を認めないでカネ取るだけの認証機関的なタイプの方よりは何倍もマシに思えた。

認証機関も認証が取り消せされるなど特に認証の緩い国では国家基準が怪しくなりすぎている特にGMOコットン大国といわれる国ほどオーガニックコットン大国なので、GMOコットンを推進してきた国のオーガニック国家認証というのはそれほど厳しくなく、日本のオーガニック基準は非常に厳しくて、それを適用すれば、海外のオーガニックコットンの多分9割以上がオーガニックじゃなくなる話じゃないのか。そういうのは、熊本のアサリに似ていて海外でオーガニックラベルを付けて、日本に持ち込めばオーガニックとして売れるという、もしかしたら消費者の期待とはまったく反対のことになってしまっているのではないのかと国際認証に思えるような問題。

まだ、林与の林も普通に理解が出来て、当たり前ですが、GOTSも国の中には入っていけないので、各国バラバラで緩い国の認証もオーガニックと認めないといけないというのも認められて、一般的に流れている化学肥料不使用、遺伝子組み換え不使用が現実的には不可能になっているようなオーガニックコットン大国もあって、そういう原料を使った製品が日本のオーガニックコットン製品の市場の半分以上というのが現実。

普通のコットンを叩いて、結果、GMOコットンがほとんどになってしまっているとか、権威主義の怖さで、そういう事実も普通に話ができないと駄目だろうなあと思うが、そういう話をできる人というのは、生産者や消費者保護の気持ちがある方だろうと思う。林与も自分でできないものを、他の誰かができそうならその方にどこどこの方がやっておられるからやられたらどうですかと提案することも多い、でも、林与で織ってつくれるものをみたいな方もいてくださって、本場の産地産として作れる布の量も限られているけどそれが当り前の現実だったりする。
2024年04月23日
仕事の力というのは人生観やそれまでの経験そのもので、会社の中で働いてもらって教えたからと言ってできる人とできない人の差みたいのは埋まらないことが多い。できる人というのは最初からとことんやろうとするけども、できない人というのはとことんまでやろうとしていない。余裕があるというか目の前の作業をすることじゃなくて、そこまでできないわみたいな別のことを大事にしている感じが漂う。

作業をしてもらったからといって正しくできても上手にできてもそれでトントンというのが仕事のプロの世界なのに、やればできることをもったいぶっていては、仕事というのは本当に難しい気がする。やっても難しいことをやろうとするくらいでないと、仕事で食べていくのは難しいが、一つ一つの作業はコツの積み重ねみたいな部分があって、大事なのは作業することじゃなくて、作業の結果、みんなが仕事として成り立つことだと思う。仕事は好き嫌いじゃなくてみんなが嫌がる作業ほど意味のある作業だったりする。

先代が言っていたことの一つに最後に残れば大丈夫みたいな感覚があったけども、先代自体が時代が替わるとまったく残ることも難しく通用もしなくなってしまった。良い時代の感覚は、人間関係があれば食べてゆけるような感覚で、目の前の仕事にありがたさすらもなくなり、きびしい時代には生き残れない。

上下関係とか意味すらもなく、どこまで自分が答えを出すためにやれるかが大事で、他の人をいちびって仕事みたいなのが一番すきじゃない。昔ながらの繊維業界にはありがちで、ホワイトな繊維業界にもありがちな体質そのもの、国連レベルの驕りがちな地道な人たちを見下したSDGsにもありがちな体質そのもの。本当に覚悟決めてやっている人たちを支えないなら意味すらもない。

林与が地道な方たちを評価するのはそのあたりで、別に無名でも本気の方というのは、すごいものを作っておられ、北海道の亜麻音工房の小野田さんは、日本で世界一くらいな凄いリネンの世界をおひとりで実践されていたりする。お会いしたときに、すごく静かな方で、でも林与が小野田さんが織られた布をみせていただいたときに、林与が小野田さんがやってられるすべてのことが理解ができた。これってすごく大変でしょっていうと、大変なんですとニッコリされていた。作業的に、大変なことを乗り越えておられるだけでなく、織られた布がまさにありえないほどの別格でゴールドでまさに亜麻色でしなやかで美しすぎた。ありえないほどの最高の日本産のリネンを自分が働くことで、フラックスから育てられて、手紡ぎで、手織りで作られていて、そういうのは規模は小さくても、世界的にもまれだと思う。
2024年04月22日
今日もいろいろやらないといけないことがありすぎて、夜中に請求書などを作成して、午前中は金融機関、午後は梱包と納品。帰って来てから、また、夜の出荷作業。織っているリネンガーゼの片耳がよく切れるので、本腰で夜中に調整をしようと思う。織り進めると耳が汚くなるので、しっかりと直してから織らないと思う。

先週の頭は風邪でボロボロだったけども、先週の後半からは元気に戻って体調も良くなってきた。左手の中指と人差し指の第二関節がシャトル織機を動かすときに框を握りしめてソウコウ枠に当たるので、ダメージ中。林与も十分に中年を超えた感じだけども学生以上にまだ動いているような感じで、いろんなことに動けることはうれしいことに思う。

林与自身は、何でもやればできるんじゃないかという自信を持っていろんなことをやっているのだけども、それをやろうとするとすごくたくさんの試行錯誤と成り立たせるための努力が必要で、他の人と一緒にやっていると他の人が限界を超えすぎていて気の毒に思うことがある。小学生や中学生だと乗り越えられそうなことでも大人だと難しいことが多い、経験者ほど新しいこととか深くすることが難しいことも多く、経験というのは時間の長さじゃなくて広さや深さが大事に思えたりする。逆にそんなことやってるとすることだらけになってしまって、無限にやることができてしまうから、自分の限界を納期の兼ね合いで品質をどの程度で妥協して安定させるかというあたり。

林与の自信がどこから来るのかというと、人のできる限界を知っているから、それをはるかに超えてやっていれば、失敗が多くあったとしてもそういう失敗は高度なレベルの失敗でケアレスミスみたいなものじゃなくて、ケアレスミスを最大限に取り除きながらそれでも難しい問題とにらめっこ。

林与が本気で麻業界の方と話すときには本気の話で、そこまでやれば普通に成り立って当たり前なのじゃないのかと思えたりもする話で、そこまで行くか行かないかじゃないのかと思ったりもする。覚悟決めることができるかできないか、損得で終るのかそれ以上所余裕をもって商売を営むのか、余裕というのはプラスじゃなくマイナスをそれなりに背負ってそれを自分が余力を生み出しながら解決するという本当の厳しさがあると思う。

林与のお客さんもその覚悟の方が多くいてくださって、林与も成り立っていると思っています。林与的なドンキホーテーの問題を、業界では珍しいと思って受け入れてくださってる方々に感謝し、林与なりの自分の限界も支えられていたりしているのを感じることが多くて、日本的なサステイナブルの気持ちには答えたいとおもいながらも、正直、自分自身が自分の限界でやってるのを、笑う人がいたら似非、ラベルでごまかそうとする人がいたら地道な仕事で成り立つ繊維業界を食い物にしているだけ。

日本も戦後のサラリーマンの時間から時間の感覚から抜け出さないと、海外にも軽く追い抜かれてしまう。海外の人たちが自分の人生ではなくて、自分の家族を支えるために必死に働いているのを、海外だからと言って先進国の驕りで笑ってたらそういうのに支えられて先進国の繊維業界が成り立っているだけ、日本でやるんだからとことんなことやりたいなあと思う。
2024年04月21日
物事を深く経験しておくことは仕事では大事だなあと思う。広幅絣プロジェクトをやったときに、東京に行って二宮先生に3時間ほど型紙捺染の基本と材料などの具体的な購入場所や商品名などを教えていただいた。そこからはすぐに自分で実践で、自分で広幅絣用の機材を作ったりして、時間のできた年末から正月に掛けて本格的に捺染に入った。

染料の特性なども失敗するうちにいろいろと分かり始め、林与の昭和の27年から38年頃までの近江上布アーカイブの10点ほどを再現した。型紙を自分で掘るところから始めてみて見えてきたこともあったり。横糸の種を作ることも試行錯誤。横糸をシャトルの管に巻き返すのも一苦労。織るのもシャトル織機を使ったので1回のミスも許されない。シャトル織機で1本1本織るというのは本当に難しいなあと実感して、これなら広幅で手織りしたほうが楽だと悟った。

シャトル織機を使う利点は、精密なギアで経糸を送ることができることで、ストールなどガーゼのものはピッチが狂うことなく織ることができる。着物の織物というのは基本、和織機で力強く打ち込むことが大事で、目が詰まっている織物が昔の良い織物の定義の一つで、ち密なものを織ろうとすると細い糸が必要で、ゆえに細番手の織物ほど高価であるという公式があった。

絣の着物というのは一生ものなので、昭和の林与の近江上布の捺染も今の染以上にしっかりとしていて、アーカイブは、去年作ったものかと思うくらいに70年ほどまえのものでも、色も生地もしっかりとしている。麻布の一張羅そのものの感じで、林与の近江上布のアーカイブは海外の展示会でも目からうろこのようにデザイナーの方たちが驚かれる。再現できればなあとおもって、再現してみたのが林与の広幅絣プロジェクト。

林与自身繊維業界にいるのもそういう星の下に生まれたからというだけで、損得ではない感覚が強すぎて、でもそれが世界中の方とのつながりが生まれたりするきっかけになっている。今の林与の力じゃないけども、与一爺さんのころのものづくりの力が世界ではありえないようなものとして注目され期待されているのがわかる。

東円堂という村は林与の親戚の塊みたいなもので、他の田舎の農村の集落も同じようなものだっただろう。それぞれの集落で母屋があって、明治の四民制度の崩壊で、農家が織物産業を日本の最先端の産業として働くということで最高の物をつくり、田舎でも中学校卒業でも大卒以上の工賃を手にすることができ、日本でもそれなりに一番くらいに恵まれていたような村だけど、そういう意味が分かっていないと仕事もおろそかになりがちで、先代がいつ口にしていたのは食べさせてたる、そういう先代の驕りが働く人の驕りにつながってそういうのを背負うのは誰もいなくて次の世代が解決で、林与が林与を背負う覚悟。

できない分からないしらないとかは仕事するには厳しすぎるのだけども、他のそういう人たちが頼っている先代でもおなじようなところがあって、戦争に行った勘一じいさんは伝統工芸士でも生きてゆくありがたさとかを分かっておられ、組織というものも分かっておられ、清水のお婆さんも同じで、先代の甘さをわかっておられ、与一爺さんの世界最高に迫るような麻織物の世界、それがあるから、地場のモノづくりの意味もあるのではないかと思う。世界最高の物を作る気持ちもなく打算的だと、先進国での最高級が難しい。

林与が中国の世界インターナショナルテキスタイルコンテストで世界の何千社が集まるテキスタイル点で海外企業としては一番の第三位を得たのを分かってもらいたい。世界が求めているのもそういうもづくりで、日本国内も打算が勝ちすぎて謳いだけが多くてその裏も知ってる林与だからいえることで、勝美社騙しビジネスというのは一番駄目なラベルビジネス。ラベルじゃなくて実際にやってる人を支えましょうよ。何も繊維のことを知らないラベルの人たちが実際にやってる人を下に見てラベルだけで定義づけて上から目線で奴隷みたいな感覚は、日本の今の繊維業界の日本の背負う覚悟もなく、仕切って食いつぶして金儲けしたいという気持ちの悪さ。ほんとやめてほしいわ、一番駄目、日本のありがちなラベルビジネス社会。
2024年04月18日
昔、夏場になって仕事が少なくなってくると林与に電話を掛けてこられて、何か仕事をもらえないかという電話をいただくことが度々あった。会社を経営されていて仕事がないというのは会社を回していくことが難しく従業員たちを養っていくことが難しいというところで、仕事というのは結局のところ自分たちが食べていくための手段なのである。

間口の狭い仕事観だと自分の仕事はこれだとなってしまうけども、他の人のやっていることなら自分もできるんじゃないかと思って、自分ができる仕事の範囲を広げておけば仕事というのは他の人のやっていることも仕事になる。極端に言えば、自分の会社の中の仕事だけでなく、他の会社の中の仕事も自分の仕事となる。たとえば、自分でパンフレットをつくるのも仕事だったりするし、生地を販売するのも仕事だったりする。

織物の世界というのも一応、ファッションとかデザインの世界なので、単に技術畑ではないというあたりが、林与には案外あっているのかもしれない。先染めの柄なんかも、柄をどこから始めるかだけで、布としてのイメージが変わって来るので、林与はそういうのも考えて布を整経したりするのを最初の時からやっていて、左右対称にみえるように違和感ないように配置する。そういうのできる人って少ないと思う。それやるだけで計算がすごく面倒で、実際に作業するとなると作業もすごく面倒になる。でも、毎回、そういうのをちゃんとやるといい布が作れ、布として残っても価値がある。

布を作るときに、そういうのできる人って業界でも少ないと思う。林与が計算してやってもらおうとしてもその説明を理解してもらうだけでも理解してもらえないことが多い。なんで、もっと簡単に、柄の始まりから整経しないんだみたいなことを思う人も多いが、縦の本数というのは決まっているので、それに当てはめる必要があって、柄をリピートしたときに最後どこで終るかが綺麗かどうかの問題。またそれが、裁断する時に柄を使いやすいように配置することにもつながることが多い。生地の裁断というのは左右対称に取ることが多いから。

一つの仕事をするときにも、無駄に思えるかもしれないけども、それなりにベストなものを作るということに徹していると、高度なモノづくりにつなげることができて、そういうのを理解できるチームで動いていると良いものが作れる。そういうのを頭の中で当たり前に組み立てることができるタイプなのでこの仕事には向いているだろう。
2024年04月18日
昔から仕事していて思うのが、繊維業界というのは人の力が重要な要素だなあと思える。作業スピード、正確さ、責任感など、地道な作業を成り立たせていくために重要な要素で、できる人は当たり前に働いている間、全力で作業することを心掛けていて、他の人の何倍もの仕事をてきぱきとこなしていくことができる。そんな方に林与も仕事のはじめを教えていただいて、作業する時にはその気持ちでいたいなあと思う。

日本の繊維業界というのはかなり厳しいなあと思うのが、昔だったら人が集まってやっていればものが売れて成り立ったのだけども、そういうのが海外で安く作れる形になっただけでなく、海外でも高品質なものが当たり前につくられるようになってしまって、日本国内の昔のスタイルが追い抜かれてしまったという現実があって、日本国内で集まって作っているだけでは難しいというあたりで、高コストな日本ではよほど意欲をもって、仕事を自分でこなしていくような姿勢がないと難しい。海外との競争とかが普通にあるのを理解していないと自分が普通にしている程度では駄目で、スピードと正確さと責任感が求められるのが今の日本。

昭和の良い時代の現場の感覚がまったく通用しなくなったのが今の時代で、令和の時代に今の林与的な感覚がすごく批判もされたりもしたが、それが結局、業界で成り立たせてゆくためには当たり前なことで、高度なものづくりをどれだけ高めてゆくかということ。今作っているもののほとんどが、シャトル織機での生産で、定番の曽部と仕上げを除いては、普通のものはほとんどなかったりもする。

現場で機会任せに普通に織れるものというのは、あったとしても、それを普通に織れるようにしないといけないのが現場の人の仕事で、織る力が必要になってしまったのが今の時代で、一昔の工場をまかされているレベルでも今の時代の織物というのは厳しすぎるのが現実で、そういう甘い感覚がまったくないのが今の繊維業界。普通にいろんなことを自分が見えていないとほかの人が全部準備してくれるが当り前で片付けてくれるような海外の大量生産の現場の感覚では難しい。

林与も、働き始めてすぐに、おじさんに自分たちの面倒をみてもらわないとこまるみたいな話をされて、それが普通に田舎の感覚なのだけども、今の時代の若者がそんなのを頼まれても困る話で、とことんだらしなく年配の方たちが若いものに甘すぎるものを求められても困る話で、そういう方々が先代に頼って先代が驕ってしまっての昭和の時代の感覚で、もうまったくそういう人に頼れば甘えればなんとかなるみたいな感覚が通用もしていないというのに気が付かないと難しい。

そういう方たちが頼ってきた先代でも、次の世代からするとまったく、食べていくのが難しいというのが現実で最初の日から仕事はしていて、先代の驕った感覚と先代に頼って面倒を見てもらう感覚というのが、ほんと、驕って食わせてたるみたいな感覚と頼って食べさせて感覚で成り立つはずもなく、普通に繊維業界の厳しさを認識して日本の高度なモノづくりを実践できる人でないと無理だと思うし、先代のような典型的な驕りが昭和の時代にも通用していたのかというと、単に人のよいカモでしかなかったのかと思うほどで、普通に世間の当たり前が分からないとそこで離れる覚悟はないといけないが、そういうのがないできないと今の繊維業界の厳しさを乗り越えていく覚悟があるのかないのかという辺りは本当に難しい。
2024年04月16日
まつりの準備ころから風邪気味だったのが、昨日と今日、熱が上がってふらふらな感じ。風邪特有の頭が痛い感じで、昨日は作業がほとんど無理で、今日は午前中は銀行に行って、ようやく午後から仕事。

先週お客さんから生地が売れたので再生産してほしいと連絡があったので、その生地に使う太番手のリネン糸が国内にあるかどうか調べますということで、月曜日に確認したけども、糸がないということで再生産は難しい話。次から入って来る糸は同じ番手でも製法が変わるという話。そういうのを教えてもらえるのがありがたく、糸商さんも誠実な対応でトラブルを避けようとしてくださっている。糸値の高騰で、林与が扱ってきた太番手系のアイテムというのは、もう糸の入手が難しいものばかりになってしまった。リニフィチオの糸も入手が難しくなって、糸の銘柄指定の特別なものは作りにくいような状況になってしまって、林与だけじゃないだろうけども、高くなりすぎて国内にも糸がないような状況。

物価の上昇が激しくて、特にリネンの糸はコロナ前の2.5倍から3倍とかで、この春夏は店頭でリネンのアイテムは少なく成ってしまっているだろうと思う。ヘンプでリネンを代用する動きもでているようで、店頭はヘンプブームになりそうな予感。林与は、ヘンプは、2008年ころのヘンプブームの時に力入れてやってみたのだが、時期尚早だったようで、その後はあまり力をいれてはいない。まだ、ヘンプ糸の供給が不安定だったころ。
2024年04月14日
地元の神社のお祭りで、昨日は1時間ほどの飾り付け、今日は午後から神輿渡御、夕方5時に終わったけど、お天気も良くて楽しく終わった感じ、今は年配者が混じって神輿を引くような形になって、本来は主役だった30代以下の人というのは少ない、それは林与の住んでいる集落だけでなく他の集落のほうが人が少ないような感じがするほどで、子供神輿は3つ、大人の神輿も3つでたけども、林与の集落の神輿が一番人が多かったかなあ。

神輿渡御も形が変わって2年目で、長く続けられるような無理のない形を目指しておられ、法被着用のドレスコードも緩く、ほとんどの方は色Tシャツでジャージやズボン履いて、その上から法被姿で参加。林与の80過ぎた母親が気にしすぎて、白いおニューのTシャツを買ってきたり、白い短パンを用意したり、林与自身も法被着て参加すれば良いだけなんやから格好はそれほど気にしなくてもよいといっているのに、母親がテンパって過ぎて足袋も用意しているしまあ40年前の世間体の感覚のまま。今は、祭りはシューズでよいし、Tシャツやジャージやジーンズの上に法被でよい、気軽に参加できることが大事でそれが祭りが続くポイントにもなる。

最近まではひと世代前の方々が雅楽会をやってくださっていたが、最近は次の世代が集落の雅楽会を引き継いでやってられて、そういう気のある方がいてくださることはさらに20年30年引き継がれることになる。雅楽会のような役を引き受けることというのはなかなか難しいだろうけども、引き受けてくださているというのはありがたいことで、頭が下がる。

林与は、若い世代の活躍を期待し今の若い人たちの流儀に合わせ、祭りに参加しても出しゃばることなく人手の足りないこと部分を丁寧な対応しながら助けるなど祭りを静かに支える形でいたいなあと思う。若い人の健全な祭り運営は立派だなあと思う。
2024年04月12日
久しぶりにファブリカ村の陽子さんと電話で話たら、半年前に手織り体験で使っていた手織り機をファブリカ村においてもらったらうまく活用もしていただいているようで、それは本当にうれしいお話。幅が狭めなので、2倍の幅のものが良いということで次の整経は2倍くらいの本数にできたらよいなあと思う。なんやかんやいっていてもすぐに夏にはなってしまうだろうけども、もう一台立ち上げておいてもらうも可能なようで、多くの方に手織りを体験してもらいたいなあと思う。

林与自身が、イベントに出展して手織りを体験してもらうというのは、織物を織る、とか、布を作るということが身近ではなくなってしまっていて、布をつくるというようなことが特別なことになってしまった感がある。林与も織物の仕事をしていても、手織りはほとんどしていないので、似たような話かと思いながらも、働きにきてくれる従業員の人たちでも昭和のころから、そういうのを趣味でやったりしている人も少なかったりで、林与のことでなくてもよいので、織物を織るというようなことから、身近に感じてもらいたいなあと思う。

特に、小さな子供さんなどは器用なので夢中になって織ってくださることが多く、子供のうちに一度でも織ることができるというのを体験して楽しんでもらえれば、将来、どこかでまた手織りする機会も増えるのではないだろうかと思えたりする。教室とかに行くとかだと敷居が高いだろうけども、林与の無料手織り体験イベントなどで気軽に最初の体験をしてもらったらと思う。

林与の参加しているイベントなども基本、大人向けのイベントが多く、そういう場所に一緒にこられたお子さんたちが、イベントでなにか楽しめるようなことがあったらという思い、林与にできることというと織物のことなので超かんたん無料手織り体験は、林与も実施させていただきながら、多くの方に体験していただけるのをうれしく思っています。

子供さんで夢中になってくださって親御さんがもう迷惑だからやめときなさいみたいなことをおっしゃってくださるのだけど、林与は親御さんに迷惑でなければ、子供さんの織りたい気持ちというのが本当にうれしくて、次の方がなくて空いているなら時間の許す限り織ってもらって、そういうイベントに来られた思い出の一つにしてもらいたいなあと思うんです。イベントに出ているときも、林与の場合、物販も同時に行っている場合もありお買い上げいただくこともありがたいことではありますが、手織り体験そのものをしていただくことのほうが一つの主目的だったりで、参加するイベントを林与自身も楽しみたいから手織り体験を開催していますので、好きなだけ自由に織ってもらえるのがうれしい気持ちです。

今まで手織り体験で、日本の伝統的な手織りが本業の方などとも多く接させてはいただいておりますがトラブルなどは今のところはまったくありません。和織機の場合強く打ち込むというのが、一般的な着物の世界の良い布の織り方の基本で、織り方の違いなども林与は把握していますし、小型の洋織機の場合には華奢なので強く打ち込むと織前が踊って、整経ビームのギアが外れたり、糸がたわみやすく難しいことも織機の性能として難しい問題も理解しながらですので、手織りのプロの方とも技術的にはそうなんですよね、という話で、織り方の違いに関してもぶつかり合うこともありません。織る布によって織り方が変わってくるのも理解をしながら、一般の方向けのイベントでだれでもが簡単に織れる方法で最初の体験をしてもらえたらと思っています。

林与が展示会などに参加させて頂いて全国のいろんな機屋さんとの交流の中でいろんな技術的なことを教えていただくことも多いですし、今の衰退する傾向にある日本の織物業界の問題も共有もしながらで、林与が自分がやって成り立っているようなケースも参考にしていただくためにお話させて頂くことも多く、林与自身も惑星直列的な幸運が重なったから麻織物を続けていられるようなところがあり、その基本が、成り立とうとするために自分ができる限りのいろんなことをがむしゃらにやってみるという考えです。織物を無心にやることから始まってうまくできるようにならないと成り立つはずもなくで、時間から時間働いたから食べていけるような世界ではなく、憧れで成り立つような世界でもなく、それで食べていくならばいろんな問題を解決してゆくそれなりの努力が必要で、そのいろんな問題というのが、日本の繊維業界では増える一方なので、日本の繊維業界的な特色を残すためには、よほどの努力が必要なのかとも思えたりし、今の日本の働くことを悪いことのようにとらえていてはそれはもう国際競争の中では成り立たないような誘導を自らしてしまっていて、働かずに優雅に暮らすといういわゆるホワイト的な理想そのものが、搾取構造そのものでいわゆる批判されがちなブラック的な概念につながります。国連レベルやSDGsレベルでも、ホワイトを謳っている人ほど、助けろとはいうけど、苦しんでいる人を自分が雇う覚悟もなかったりで、苦しんでいる人の面倒を見て雇っている人を叩くだけとかの階級構造で、そういうところが本当に残念な、国連やSDGsの浅すぎるところで、一番底辺の人たちを自分が雇って法律の重荷を背負う覚悟の無い人たちが、法律ばかりを厳しくして、一番底辺とみなされる人たちの面倒を共感して支えようとしている人たちを法律で縛って、面倒見させて叩いているだけの話で、そういうのが一番駄目なのではないかと思います。法律が法律がと逃げているひとが多すぎるけども法律というのは人の心が大事で、自分が背負う覚悟もない人が自分が出来ないことを他の人に法律だとか規則だとかで強いては駄目で、そういうのが国連レベルやSDGsでも一番駄目に思うところ。掌るものが、覚悟決めて末端を食べさせていく責任を背負わないと駄目だけど、その覚悟もなく、国連レベルのSDGsというのは、まったく本質が見えていないし自分が自分の人生も捨てる覚悟もない人たちがホワイトのようなルールを強いて他人事のように人々を苦しめているだけの連鎖に終わる。本当に一番駄目なのが、国連レベルのSDGsの裏側で、そんなレベルの金儲け主義のSDGsならやめておいた方がよいと思う。





2024年04月10日
全国の田舎では空き家問題がこれからさらに加速してくるとは思うが、空き家問題を解決するためには、後継者がいない場合には、家を相続せずに片付けるようなことが必要で、それを自分が死ぬ前にやらないといけない。すなわち、先祖代々の仏壇やお墓もしまっておかないといけないことになるし、死ぬ時には別のところで死なないといけない話になる。

これが今の空屋問題の根本的な問題。田舎に家を持って都会暮らししているなら、田舎の家を処分するは普通の話だけども、田舎の跡継ぎの無い家が家を処分するは先祖代々の家の歴史を閉じる話で、空家が増えて困るからというだけで、軽く考えられる問題ではなかったりする。

生まれ育った家で死ぬことができてが普通だと思うけど、空き家対策のために、死ぬときは別の場所で死ぬのがきれいな死に方みたいなのでは、本当によいことなのだろうか。都市部だと周りが干渉することもなく、ごく自然にそういう問題も行政が解決をしてゆくような話になるのだけども、田舎だと、行政が対応も出来ずに放置で法定相続人がどんどんと増えて、さらに解決が難しい問題になる。

昔だと、周囲に住んでいる誰かがそういう物件を買うか、面倒を見る形で解決してきたのだけども、今の時代にそいうのをやれる家というのは少なくなってきてしまっている。自分の住む環境を守るために出ていく人の家を買うというのは覚悟の入る話だけども、昔はそういうのが普通だった。今は家を建て壊す費用も高くなって、建て壊したとしても土地を売ることも期待できないし、固定資産税だけが延々と掛かってきてしまう。

愛知川の商店街もお店は閉じたところが多く、ウナギの寝床のような奥に長い形で、砂利で敷き詰められた空き地がいたるところにできている。立地的に、それほど悪くないような場所でもそんな状態で、新しい人がそういう場所に入って生活をするということは非常に難しいことだろうと思う。

結局、田舎での空き家対策での家じまいは、村じまい、町じまいにつながる形で、過去からの文化や伝統的なことの一切を過去の歴史として葬るころになって、全滅したときにディベロッパーが再開発をするためのロードマップということになる。それも一つの考え方だけども、空き家対策というのは都会よりも田舎のほうが越権行為的に行われるために、村を村じまいに至らせる要因になってしまうだろう。

限界集落と呼ばれる集落が、廃村にならないためには、村の掟みたいなものを無くすことが大事なのだけども、そういうのをなくすことは本当に難しいことで、都会のような感覚になれば、若い人たちも残りやすいだろうと思うけど、田舎ほど人間関係を重んじる人が多く、同じように、繊維業界も人間関係を重んじる人が多く、結局、社会の流れに適応できずに衰退してしまう。林与も先代が古いタイプの人だったので、問屋さん商売を大事にしていたけども、林与と取引のあった京都の問屋さんはこの20年ですべて繊維からは撤退されて不動産業に業種を替えられたりして残っておられるところは残られている。

形を変えることができれば残れる可能性もあるし、そこにいつづけることも出来るのだけども、昔からの形に固執してしまうと終わりは早いもので、外の変化に敏感に対応しながら自分自身の考えで残れるような決断をしてゆくべきだろうと思う。一方で、林与のようなタイプは、古いことを続けるために覚悟を決めて広く深くこなして行くことで、分業でやっていたことを、一人でも全部背負う形で乗り越えてゆくみたいなスタイル。夏の前くらいまでは忙しいのが続きそうだけども、落ち着いたら洋服をつくることも始めようかと思う。1点ものから。
2024年04月07日
10日ほど前から指先が数日パンパンに腫れたのは、へバーテン結節という原因不明の症状らしいけども、林与の場合には生地の修理を集中して行いすぎたがためにへバーテン結節の指先が赤くパンパンに腫れる症状が出たようで、テーピングして指先を守ったのも正しい対処方法のようで良かった。指先を使いすぎると、新しい毛細血管が出き、指先に溜まってしまうようで、結果、指が太くなったり、指の関節の変形などが伴うらしい。

林与も仕事をするときには、ぶっつづけで数日することが普通にあるので、生地の修理の際に、親指と人差し指で糸をつまんで引っ張るような作業が連続したことが、指先の多用ということで、へバーテンの症状が出たようで早期に原因が究明されて良かったなあと思う。女性のほうがへバーテン結節にはなりやすいようで、家庭での家事なども、かなり指先を使うような作業が多く、それが原因ではないだろうか。料理にしても野菜を左手で押さえながら右手で包丁をつかうとか、指先に力が籠る。

林与自身の場合には普通の現場の人の何倍もの量をこなすので、働いている時間も普通の現場の人よりも長いし、へバーテン結節の症状がでることは仕方ないといえば仕方ない。仕事量を半分くらいに減らすと、直るだろうと思う。ロッククライマーなどもへバーテン結節にはなりやすいということらしい。

昔から職人の指は太かったり、にぎりバサミを使っている人の右手の親指は引垂れての親指よりも太かったりするがそれは同じ原理だろうと思う。林与の右手の親指は左手の親指よりも分厚い。
2024年03月24日
土曜日の朝に滋賀県に戻ったのだけども、高速道路で東京から出たとたんに渋滞がずーっと続いて、のろのろ運転モードで、これだったら一度サービスエリアで休んでから夜中出発にしようと、蛯名サービスエリアで休憩してから、滋賀県に戻る。さすがに疲れていて、滋賀県が寒い、寒い。東京に3日もいると滋賀県の寒さがきつくて、体が冷えまくり、とりあえず1日は体を休める。

体力も回復して、体を中から温めるために、ニンニク、ショウガ油、そして肉を食べて、体力も戻して、仕事を再開。4日か5日ほどぶりの作業だけども、なんか、遠い昔のことのように思える。浦島太郎が竜宮城に行って帰ってきたような感覚だろうか。東京は活気があって楽しかったし、5年ぶりくらいに昔から知っている方々にお会いできたことと、林与をネットなどで知ってくださって初めてお会いできた方とのお話も楽しかった。そして、また、現場で一人での作業が始まる。

仕事以外のことを考えるべきではないのだけども、高速道路ってなにもない山の中を巾15mとかの広い道幅で、何百キロも走っている。会社に戻って、思うのが、毎日生活する集落内の道路って、道幅3mで、そういうのが、何十年も変わることがないのが、田舎というものなのだろうなあというギャップ。また、車で混んでいなければ5時間で東京というのに、田舎に住んでいるだけで違う考え方を求められたりもするから、田舎で大きいことをするのは難しいんだろうなあと思う。

林与のやっていることも、田舎の小さな工場での作業に過ぎないけども、自分が作っている麻布をみなさんがすごく評価を下さって、期待も下さって、東京の展示会に行っても、そこがホームグラウンドであるかのように皆さんとお出会いができて、なんか、作っている布がそういうつながりを生み出してくれているんだろうなあと実感する。準備も半日くらいしかできずに飛び出して行ったFABRICa NIPPONでしたが、お会いしたみなさんから元気をもらいまた、作業を地道にやりつつも、余力ができたときには新しいプロジェクトや布を立ち上げたいなあと考えています。

林与自身は、こつこつ地道にというのを大事には思ってはいるものの、業務的な感じがすきじゃなく、普通は無理に思えるようなことやできないとかやらないことにでも挑戦して成し遂げたいなあと思う反面、そういうのって普通の何倍ものリスクと時間が係るので、きたいしてくださるお客様にも迷惑を掛けることが多く、反省することも多く、悩むことも多い。あと10年、ながくて15年くらいかもしれないが、思いっきりのスタイルを変えない形で進んでいこうと思う。

久しぶりに、会社に戻ると80過ぎた母親が、私が徐福に関する本を30冊以上も集めて持っているのを1冊借りて読んでいるらしく、私に徐福のことを説明し始めた。日本の歴史では名前も出てこない徐福だけども、母親が知りはじめたくらいだから、日本の歴史が解き明かされるのも近づいてきているのかもしれない。徐福のことが日本国内で封印されながらも、講師や孟子などの漢文が国語の教科書にも出てきているのに、国や国境という概念はまさに昔の人にとっては何の意味もないくらいに昔ほど国境を越えるにもパスポートも必要なかったようなやったもの勝ちの世界で、あまり小さな世界のルールを気にして押し込めないで、無茶苦茶なトランプよりも、もっと健全な精神をもった人が社会で自由に活躍してゆくべきだろうと思うが、ああいう無茶苦茶でないと、葬ろうとする力があるのが、権威主義的な、村社会に通じる構造で、そういうのを引きずってしまっていては、古い繊維業界や田舎社会もで、本当にやっている人たちが決断をできるようにしないと、覚悟も決めずにやってもいない人たちがいい加減にだらしなく偉そうにしているだけでは次の世代が食い物にされるばかりで可哀そう。

自分可愛さの年配者たちが若いものをいちびって食い物にしながら、自分たちの面倒を見てくれないと困るでは、それは自分が仕事して食べていくの覚悟もなく、何十年の経験者であろうがまじめな学生さん以下な、日本の行政の考えるホワイトで待遇を求めるばかりの公務員的な発想でそれが階級社会的な悪政のメカニズムで、行政が悪政を当たり前に考えて自分が国レベルの責任を背負う覚悟もない人たちが、権威主義で国民生活を食い物にして悪化させて苦しめているのが、一番世界でも駄目に思うような感覚でそういうのから人々は解放されるべきだと思うところ。頑張っている人に責任を負わせて、自分はできない分からない知らんという年配者が、できる限界も超えてやってても説教をされるような、覚悟決めている子供のほうがまともな、歪みすぎた村社会構造。そういうの早くなくなったほうが良いと思う日本から、世界で一番嫌われるような権威主義でアカン構造で、人にはできる限界もあって、求めるものが人の限界を超えすぎて、繊維業界や田舎が美しく見えるためだけに取り繕って、人々を苦しめているだけなら、そういう偽善は捨てないと、それはほんと善意あるものの一生懸命を利用しているだけのことで、守られている人たちが守られていない人たちを食い物にするだけのことに終わる。
2024年03月22日
今日は、2日目最終日、昨日の夜は、うれしい出会いや再開が多すぎて、なんかテンションが高ぶりすぎて眠ることが出来ずに、夜中までCNNみながら、普段現場に縛られた生活とはまったく別環境なので、そういう環境をただ起きているだけだけど楽しんでたのだと思う。朝は、6時ころに起きて、簡単なクロワッサンとブラックコーヒーの朝食をホテルのロビーわきのラウンジスペースで取った後、天気が良いので、海でも見るかと、不当に向かって歩いてい言うと、汽船がでる船乗り場となっていて、そこは、八丈島へ行くフェリー乗り場。青ヶ島に行くには、ここからフェリーに乗れるんだということも確認できた。片道10時間ほど、2等チケットで大人一人1万円。往復で2万円。ホテルに戻って、八丈島の民宿やゲストハウスだと5000円くらいから、5万円あれば、船内泊2泊で、八丈島1泊 青ヶ島1泊の4泊から5泊くらいの1週間の旅が出来そう。

9時半に展示会場入りして10時に始まって、最初に見かけたお客様が、昨日の夜、成田さんが江国さんにご紹介したい先生という駒沢大学の太田先生で、これは必然的な出会いを感じて、さっそくお二人が出会うことになり、30分くらいはいろいろと話しておられたろうか、老兵はただ去るのみで他の作業。すると、キッチンクロスでお世話字なっている東屋の青山さんが来てくださり。ちょこっと手織り体験してもらって、飲み込みも早い方なのでなんの問題もなく綺麗に手織りをこなされていた。

午後には、PTJでお世話になっていたJFWの井上さんと5年ぶりくらいに出会えた。林与がイタリアでブランドをされていたヨシさんに合えたかどうか聞いてくださって、昨日会えましたと伝えると、よかったと。林与のことは忘れずに今も気にかけてくださってて、いろんな方と出会えるきっかけを作ってくださっている。終わり崖にも、びっくりしたのがロンナーの白髭さんが突如会場に来られて、林与に電話がつながらないと昔の携帯番号にかけてくださってたみたいで、間に入られていた問屋さんがコロナ中に音信不通で、白髭さんとも5年ぶりくらいだろうか、林与が東京の会場にいるのをしって会いに来てくださった。ロンナーさんもコロナ中に解散されて、再編されて新しい形でロンナーブランドが続いているが、それを白髭さんが引き続き担当されているそうで、ほかにも林与が15年前くらいまで取引のあった大阪の会社さんのブランドのものづくりも手掛けておられるそうで、素材的には林与が若いころ時手掛けていたものに再度声が掛かりそうな感じだろうか、でも、いろいろなことを仕切り直さないと状況は依然とはまったく違ったりする。

国内の高級ブランドほど固定客を抱えておられ百貨店店頭での対面販売が大事な要素だったので、コロナでその販売形式がまったくできなくなり、また、スーツやジャケット、ビジネスシャツへの需要も、外出の機会がなくなり激減し、会社を整理されたり、縮小、廃業、再編などがアパレル業界では相次いだ。問屋業も閉じられたところが多く、また、縫製関係も需要は激減した。華やかなアパレル業界も、コロナを経て、サステイナブルなアパレル業界へと変化の流れで、新規でつくるよりも、在庫生地の活用などが一つのトレンドどはなってきている。

2日目も5時に会場が閉まると6時前には会場の撤収もおわり、ハイエースで江国さんをホテルまで送って、滋賀県への帰路に、静岡辺りまでが渋滞が続いて、渋滞がとけるまで蛯名サービスエリアで仮眠して休むことにして、11時ころにまた運転再開。高速乗る前にガゾリンを満タンにしておいてよかった。ガス欠の心配なく暖房付けて仮眠が取れる。

ブログに取り上げた以外にもうれしい出会いがたくさんあって、何よりも初めて開催されるイベントだったので、どのくらいお客さんが来てもらえるか心配もしていたので、ネットのお客様じもたくさんお越しいただいてうれしかったです。土曜日朝に無事滋賀県に戻ることが出来ました。
2024年03月21日
今日はFABRICa NIPPONの初日で、マーケットゾーンに出展させていただきながらも、ワークショップ的に、超かんたん手織り体験のほうがメインな感じで、2台持ち込んだ手織り織機での手織り体験を来場者の方や、出展関係者の方なども含めて体験いただいた。何人かの方はやはり、手織り経験もあり、学生の頃が懐かしいなあ見たいなお話で、生地のイベントを盛り上げるのにも役立ったのかなあと思う。

前日のよるに、ネットショップのメルマガメールで、今回のイベントのことを配信させ頂いたのが、あまりに急すぎてもうしわけありませんでしたが、メールをみてきてくださった方も多く、一般の方もありましたが林与のネットのお客様もブランドを立ち上げておらるプロの方が多く、林与と会えることを楽しみにきてくださった方も何人もいてくださって、一昨日にバタバタの中も散髪にいって10歳以上は若く見えるようにしといてよかったなあと。

終了間際には、テキスタイル業界のバイブル的な、テキスタイル用語辞典のテキスタイルツリーの方々とも、メールなどは交換しながらもお会いできたのは5年ぶりくらいで、一緒に夕食させていただけ、一緒に夕食というのも親しい方とでもなかなかできないことが多くて、エビ料理のお店で、食べながら、夕食の主役は、林与でもなく、30代の江国さんで、なんか日本の繊維業界が次の世代の方につながる感じでうれしいのが私も含めて。、

初日も夕食も、感無量の一日で、ホテルに戻ってもすごく高ぶってしまってて、ほとんど眠れない。30後半から、国内海外で動き始めたころの若かりしころの林与が自分の中にちと舞い戻った1日でした。
2024年03月20日
今日は、朝の8時出発予定が9時過ぎの出発になり、東京の会場に予定よりも1時間遅れで到着。今回は、林与が今後コラボして一緒にやっていく沖縄で縫製をされてる江国さんが先に会場に到着してくれてて、スムーズに準備が完了して、ついてから1時間後の夕方5時には準備が完了して夕食をとって、準備完了。

いつも展示会などに出発する時には展示会の準備などは12時間くらいしか時間の余裕がないので、今回も前日の夜中から、さをり式の手織り機を織れるように立ちあげて、あとキッチンクロスを50枚くらい準備して、反物などをハイエースに積み込んでバタバタでの出発になってしまったが、とりあえず、会場dの準備に間に合って良かった。

会場は、今までの展示会の中では、一番準備がしやすいような至れり尽くせりの感じで、ハイエースにいっぱい積んだ荷物もスムーズに大型のエレベーターで、展示会フロアまで運び入れることができて、最新の東京の展示会場の凄さを感じた。

5年ぶりくらいにJFWでお世話になってた、今回主催の兼巻さん、久山さん、菊池さんにお会いできて、ほんと懐かしいばかり。最後お会いしたのは今思い出すと東京のTN展だっただろうか?林与も田舎の織物工場のおっちゃんなんだけども、昔から展示会などでもハートフルな温かい応援をいただき、なんとか、今まで、織物の仕事を続けてこられたのもそういう方々のサポートのおかげでもあったりで、林与も布の世界を背負ってる覚悟しいるので期待も下さってのことなので、精一杯でいつも動けるだけは動こうと、現場での仕事、また展示会などへの参加などもさせていただき、今回、5年ぶりくらいに皆さんとお会いできて、この5年にしても、動き続けてはいたので、久しぶりにお会いしながらも、そのときのままのつながりで新しく始まる今回の展示会も林与はすごくアットホームなスタート。
2024年03月15日
この1週間ほどシャトル織機を織りすぎて、頻繁にシャトルの管を交換したものだから、指に負荷が掛かりすぎて指先が腫れてしまってパンパンに。シャトルの先って尖っていて、その部分を指で押してシャトルを反対側に飛ばすことがあるので、それを一日に何百回もやると特に両手の人指し指の第一関節のお腹の辺りが痛み、それが他の指の先にまで広がっているような感じで、指先にテープでも撒いて作業をするべきか迷う。指で作業ができないほどになってしまったので、手を休める。

糸を巻いてくれるおじいさんが1年前の年末位にもう仕事を辞めると引退宣言をされていたのだけども、数週間前にすごく電話をくださって、仕事したいのだけど、仕事がないかと電話くださって、たまたま30kgほどの案件があったので、その糸を早速巻いてもらった。80半ばを過ぎられて体を動かす仕事というのはなかなか大変だろうと思うけども、ずーっと体を動かしてきておられた方なので、病院に通いながらでも、体を動かしている方が気が楽だといっておられた。すごく、元気でおられるのでうれしい。お爺さんが引退されるときには、林与がたぶんおじいさんの機械を片付けるのを手伝う話にはなっているけど、できる限り、林与の仕事でなくてもよいので、現役で続けてもらいたいと思う。でも、あまり負荷が掛かると駄目だろうから細い麻糸などは、林与が会社で巻こうと思う。

仕事って、単に作業というだけでなく、人と人とのつながりを生むきっかけになる。麻織物の仕事というのは、仕事としてはかなり負荷レベルは高いだろうと思う。一日中立ち仕事で動いて、出来る限りキズができないように織らないといけないので、動力で動く織機ながらも、経糸切れ、横糸切れで織機が止まったときに目合わせみたいな、ギアを戻して糸をきれいに片付けて再開する作業があるのだけども、それが一般的にはシャトル織機の難しいところだといわれるあたりで、シャトルを使いこなすには10年掛かるとか昔いわれたところ。

林与の場合は、シャトル織機は、1週間もあれば織れるようになるのが普通だと考えているので、最初の日から、シャトル織機を動かしてみるように教えたりすることが多い。そのときに、シャトルを一度も挟むことなく使いこなせるくらいだと、向いている。思い切った覚悟みたいなものが、シャトルの運転を再開する時には必要で、ハンドルを手で押し込む作業の思い切りと、押し込んだ後に手を放すタイミングというのが大事で、それを呑み込める人と、呑み込めない人との差は大きい。織機ごとにその加減というのは異なって、織機ごとの癖を知る必要もある。

今織っているキッチンクロスなどは普通に織ると失敗やキズでのロスが大きすぎるので林与的な工夫で織っているとかだけども、それは、織るというのが単純作業で亡くなるので、普通だと面倒だろう。今織っている生成の横糸なども、シュワイターで管に巻いて使うときに、巻いた管に白い帯などを見つけたら使わないようにして、少しでもキズのロスを減らしているが、そういう作業だけども糸の無駄もでる。何も考えないで織るだけなら簡単な仕事なのだけども、最後、結果がなるべく良いように織ろうとすると、結果を出せる人しか織物の仕事は向かないだろうと思う。

繊細な麻糸を織るときには、織るだけが大事ではなくて、整経の作業や、どこまで正確に繋ぐかなども大事で、経糸が何本か切れた時の糸のさばき方が上手ではないと、糸が交差してしまったり、斜めに走ってしまったりする。同じ織物でも織ることができる人とできない人の差というのがあって、織れば織るほど織機の調子が上がって行く人と、織れば織るほど問題が広がっていく人とあって、織れば織るほど調子が上がって行く人というのは、織機の調整だけではなくて、自分自身が作業する時に注意しないといけないことを守ってるということがすごく大事で、我流が入ってしまっている人というのは、高度な織物にたどり着くことは難しい。高度な織物といっても普通にみえる平の麻織物とかなので、それほど高度ともいえないだろうけども、普通の白い麻の平織が、色が黒になうだけで、織物を織ることは何倍も難しくなる。

頭を働かせるのが面倒なタイプの人だと、毎回毎回頭を働かせないといけないというか、適切な判断が必要で、適切な処理が必要な織物というのは苦痛だろうと思う。シャトル織機でのギンガムとかは、ドビーを戻す必要があって、ドビーを2本分戻すのか4本分戻すのか、基本の作業は教えられるけど、基本を理解した上で応用して、正しいギンガムを再現できる人でないと、いくら仕事を頑張っていますと言っても結果が正しくないと駄目みたいな厳しさがある。そういうのからしてOKな人と、論外の人あるだろう。

ドビー織機の機能をフルに使うと多色で綾織などの多彩なものに広がるけども、そういう構造まで現場の人がたどり着けるかどうかというのは、たどり着けない場合が多い。色が4色とかなったときに、どこにどの色を指してよいのか分からない人というのは多くて、何十年も織っている人たちでもそれが普通だったりする。林与は、昔のコンピュータというのは織機で、織りあがった織物が計算の答えみたいな感覚があって、そういうのは誰に教えてもらうこともなく、子供の時からのプログラミングしてたのが生きていて、どういう織物を織りあげるにはどういろいろなことをせっていすればよいのか、また作業すればよいのかというのは、誰に教えてもらう必要のなく、その場で答え普通にあるから織物の技術的な話とかは教えてもらう必要はほとんどなかった。仕事するには向いている素養はあったと思う。あと、子供のころから美術とか図工は得意だった、本当の才能じゃないけど、一般的にいい感じというものを生み出すのは得意で、それも、仕事するには自分を消して多様な相手と対応する向いていただろう。あと人生観みたいなものも、林与のもっている普通じゃない人生観みたいなものは、いろんな方と混じったときでも特別に思ってもらえ、それがものづくりにも生きてはいる。

仕事していて教えてもらことがあまりなく、他の人が作業しているのを見ているだけでなく一緒にやって次からは自分がやるみたいな感じで、自分がやるときにはいろんなやり方の中で一番良い方法でそれをできないかと考える。自分で何十年の経験者の人よりもすべてのことに通じていたりすると、それは良いことばかりでなく、何十年の人たちの仕事に駄目出ししないといけないので嫌われることも多いが、仕事なんだから低いレベルで止まっていても仕方ない。テキスタイルデザイナーの人の話をその場で理解して実際の織物にする側なので、机上の空論的な部分に気が付かないといけないし、規格の問題なども、事前に想定をできないといけない立場。テキスタイルデザイナーの方たちの仕事をサポートするような要素も仕事の一部で、そういうのは過去に実際自分が作業してきた経験と、織物を作り出してきた中で自分が体験した問題などの経験が生きてくる。

今も、指が腫れてみたいな経験をしているけども、今は指が腫れて困っているけども後で仕事の笑い話になる。昔、イタリアの展示会に行く前の日も、展示会のことよりも展示会に行く間に他の人がする仕事の準備が必要で、織機の調整などして織機の上から下に下りた時に右足を愚ねって、たぶん骨折した感。かまぼこ板を足の裏に当ててガムテープでぐるぐる巻きにして、イタリアに行った。他の人の仕事の準備をしてあげないと、自分で仕事の準備ができる人というのも稀なことで、そういうのは一つの仕事でもどこまで分かってやっているかの話につながるのだけども、自分でやっている仕事の全体にたどり着こうとする人とそうでない人との差は大きくて、林与は、仕事始めた最初の日から全部の工程のすべてを理解し、できるようになるつもりでやっていたので、そういう積み重ねというのは大事だろうと思う。

普通じゃないとことんな感覚みたいなものが大事だろうと思う。何人分もの作業を兼ねて一人でやるとかが普通になると、見えてくるものも多いし、できることもさらに増えてくるし、一番は、する仕事がないなんてことはなくなり、自分でいつでも仕事を生み出して行ける。基本は、お客さんの仕事を優先に仕事をして、余力ができたときに、時間の余裕ができたときに、自分のやりたかったようなことを試行錯誤してみるというような感じで、そういうのが新しいものを作るのにつながるし、お客さんの仕事一つ一つの中にも高度な作業が含まれているので、それを実際に量産するというのは、自分のやりたいことをうんぬんよりも、仕事レベルとしては高いレベルではないかと思う。試作するのは簡単でも本生産となるといろいろと問題がみえてくることは多く、そういうのを乗り越えるのが本当の力みたいなところで、リネンストールや、リネンキッチンクロス、リネンハンカチも特色のあるものが多く、林与なりの織物へのこだわりみたいなものがあったりもする。

林与自身が自分で、作業をするとかコツやノウハウを持つことで、他で出来ない生地が生まれてくるというのが、自分自身との戦いの問題であったりして、そういう自分自身との戦いの中で林与のモノづくりが生まれ、それが産地のものづくりにつながり、日本のものづくりの特色につながるみたいな、林与でなくても他の誰でも頑張ってやってられる人がいればそれはその方が日本の麻のパイオニアーであって良いと思う。林与はたまたまそういう家に生まれただけで、恵まれている部分もあると思われるだろうけども、楽をしているというよりは、すごいマイナスを背負ってても、とことんやれば成り立つんじゃないかと思って、偶然の奇跡的なことにも恵まれて今まで続けられてきたと思う。それなりに精一杯やって、それが続くなら続けていけるだろうし、それが無理ならば無理だろうし、お金の損得じゃなく、できることをできるだけ精一杯やっているということは大事だろうと思う。大きくぶれないためにも、また、いろんな可能性を見出す努力にもなる。他の人がやらないことをやれるきっかけにもなる。

スマートな生き方は、苦手で、好きじゃ無かったりする。人々の苦しみとかにも目を向けてそういうのをなくすというよりは評価したいと思う。苦労することを無くす考えだと結局働かず楽して儲けたいみたいな釋種思想につながってしまうから、頑張っている人が報われるようなのが林与なりの理想的な考え。成金とか権威主義的な考え方というのは好きじゃなく、高級素材を生み出しながらも、自分自身の地道な努力の積み重ねで価値のある布を作りたいなあと考えている。展示会などでも、人が詳細を語らなくても布自身がお客さんに語るような布を作りたいなあと思う。
2024年03月10日
林与は常に仕事を抱えているような状況でありがたいのだけども、2008年ごろのデフレの時には、高級な生地は売るのが難しくなって、1000円以下で買える生地を探しておられるところが多かったのだけども、林与は絶対に無理なので、安いものじゃなく、高くても麻100%のものをPRしようと思って、逆にアイリッシュリネンのプロジェクトを立ち上げた。

ちょうどそのころ、ストールブームがあったので、ストールを織ることを本格的に初めて、細番手の糸を使った柔らかいリネンストールを開発した。それまでのリネンストールというとシャリ感のある固いものだったり、ごわごわしたものが多かったが、柔らかいリネンストールを細番手の糸を使って作ろうと、薬剤を取り寄せたりしながら家の中で加工方法を考案した。

ストールブームの時には会社の中はすべてレピア織機だったので、出機さんで織るつもりだったのだけども、最初の見本を追ってもらうことが出来ず、自分で織らないといけないということになり、織機の入れ替えを行ってストールブームの生産に備えた。たまたま、遠州の機屋さんが周りが住宅街になって半年くらい織機が動いていないような話で機料屋さんに話をまとめてもらって、一切合切譲ってもらうことになり、12台のうち10台を工場内に移設できた。

林与の会社は、昔はシャトル織機だったのだけども、昭和51年ころにレピア織機に入れ替えてからは、自社工場の中は全部レピアだったので、林与自身は、その時が自分自身でシャトル織機を動かした最初で39歳のころ。動かしたと言っても、織るのは織り子さんがいてくれたので、織るじゃなく、修理や調整から。

サンプル時に10台のうち9台がまともに動かないトラブルも、奇跡的に量産前に原因を見つかった。もし、原因が見つかっていなかったらその年に量産に穴を開けてしまって、潰れていただろう。移設した織機を職人さんが電気が入る前に調整などしまってテンション管理の棒を抜いてしまったのが原因だったのだけども、10台のうち1台だけ固くてぬけなかったのだろう、その台だけがサンプルを順調に織れた。もし、その棒も抜けてしまっていたら、原因を見つけることはできなかっただろう。

出機さんでのストールの生産にそなえて廃業のあったシャトル織機の工場の職人さんにきてもらったのだけども、普段は太い糸を織られていたので、テンション管理の棒は、鉄と鉄が強く押し合うので摩耗するから外して使われていなかったから、不要だと判断され外されたのだろう。

ほとんど寝ずに2週間で、60縦を織りあげることができたのは、すごく器用なスタッフに恵まれたからで、まともに動いた、1台の織機で2シフトで、1日3縦、各5枚づつストールを繋いで織りあげるをこなしてくれた。一番最後のサンプルが、展示会にぎりぎり間に合う感じで喜んでいたら、突然、動かなくなって、2週間働き続けてても必死に原因を見つけようとしたのだけども、分からない。諦め、「みんなありがとう、最後の一つだけは諦め、お客さんにできなかったという」といったあとに、織ってくれていたスタッフの女の子が織機の下にもぐって、ここのネジが緩いからおかしいみたいなことを言う、林与はそんな簡単じゃないぞというものの、その緩んだネジを締めたら、なんとまたその織機が動き出して。

林与もシャトル織機はまだ2週間の素人だったけど、スタッフの女の子の自分が織機が動かない原因を探そうとしてくれただけでなく、原因まで見つけてくれたことには本当に驚いた。経験の長さじゃなく本気さが大事で、林与が2週間ほとんど寝ずにはたらいてヘトヘトだったので、代わりに織機の下にもぐって試行錯誤してくれた。若い人から学ぶことが多く、たとえ若くても一生懸命の人というのは、織物に関しては、数か月で何十年の経験者を越えてゆくというのをすごく感じた。

林与の場合はすなおに感心するけども、林与というのは働き始めた日から本気だったから経験者の人たちというのは抜かれていく恐怖みたいなものがあっただろうと思う。自分の会社で一番できない人間みたいに扱われていたのが林与だったのだけども、最初の日からもう超えてしまっているのが普通で、田舎のおっちゃんおばちゃんというのは先代も含めて、生きてきた世界が狭くて競争にさらされていないから、年を取るほどできなくなってしまっているのに、驕りだけが高くなり、年配の人たちが出来ないということも若い人がやれば出来たりするのが普通だし、できることだからやってもらうように用意して頼むのだけど、やる前から、できないと断る人は多く、その程度の壁をいつも乗り越えずにできないという判断では、働き始めた林与に面倒を見てもらわないと困ると言われても、経験のない学生ができることでも、何十年の経験者たちがやろうとせずできようとしないのが多いのは、仕事がいっぱいあっても頼めることが少ないし、普通以上だと思うことが頼めないような歯がゆさが、若いころの林与にはいたるところであった。自分でやれば、そういう高度なものづくりも出来たりするので、林与の中にシャトル織機を入れ戻したことは、自分自身の経験の成長につながったけども、仕事の世界では誰かが答えを教えてくれることもたまにはあるけど、ほとんどの場合自分で答えを見つけ出さないと、そこで仕事が終わってしまう。

そうやって、仕事を生み出そうと生み出してきた林与だから、普通のサラリーマン的だと、一つの仕事に集中して頑張ればよいだけで幸せに思えてしまうが、時間から時間のなかでどれだけ楽をしようかみたいな、できないといえば、自分しかできないと思っているけども、素人でもできることを頼んでもできないという経験者も多く、そういうのが昔の先代が育んでしまった甘さで、そこまで仕事を軽く考えていたら潰れるのも当たり前だろうと思う。全員が全員ではないけども、年配の世代というのは若いころの3分の1のスピードで、しかも正しくないものが出来上がってきて、それを本業じゃない人が直して問題解決みたいなのが普通のこと。

糸を巻いてくれるおじいさんは、林与のことを「にいちゃn」と呼んでくれて悪い気もしていないのいだけども、おばちゃんが、「社長さん」よと、別にどっちでもよい。出機さんの仕事が難しくなってきっていて助けるために連れて行って、スタッフが私御ことを社長と呼んだ時に、出機のおじいさんが大笑いしてたのだけど、70過ぎて人間として成長もしてないし、仕事もできなくなってるのも驕りから。若いできない人と同じ様な結果しか頼んでもないけども、丁寧に接していると田舎のおっちゃんおばちゃんというのは、ほんとどこまでも軽く考えてだらしない態度を見せてくることが多く、丁寧に対応していると、年配者がそういう横柄な素の考えをみせてもらえるのはわるいことではないと思う。ブレない人はブレないから。たとえば、子供のころに私にそれなりに厳しく剣道を教えてくださった先生方というのは、こちらが世話になったのに、大人になってからはすごく丁寧な言葉づかいで社会人として認めててくださる感じがするけども、それはその先生方が人格者であるという証だが、若い私に対してすごく丁寧に話してくださる。こちらが世話になっているのに、そういうのできる方というのは凄いなあと思う。
2024年03月09日
林与の工場の中には30台くらいの織機があるけども、それぞれの織機の機の規格は異なる。それが、小ロット多品種を機の載せ替えをせずにこなすための手法の一つ。たくさん織機があるとどうしても、電力容量の関係で高圧の契約が必要なのだけども、数年前にブレーカー契約にして低圧に変更して、毎月の保安点検も必要なくなり、トータルの維持費も下がり、すごく、電気設備の管理が楽になった。

ブレーカー契約に変更をするのも田舎だと詳しい方が少ないのだけども、同級生の友人が電気工事の会社を経営しているのでブレーカー契約にしたいと頼んだところ、林与が中古で安く手に入れた電子ブレーカーを電力会社の検定らい、もしかしたら電子ブレーカーがそろそろ寿命なのかとも思ったり、雨が降ったから外の電気メーターのあたりが漏電したんじゃないかとか心配したが、単にインバーターの遊んでいたアースの問題だったみたいで、今はブレーカーが落ちることもなく、問題の無い状態。

そういう大きな変更というのはやってみないとうまくいくかどうかわからないところがあるのだけど、たとえば、電子ブレーカーの容量が小さすぎたらブレーカーは落ちまくるだろうし、容量が大きすぎたら基本料金が必要以上に毎月支払うことになる。大体整経機、チーズワインダー、シュワイター、シャトル織機5台くらいレピア3台くらいを同時に動かす想定で、このくらいだったらぎりぎり大丈夫だろうと思った容量がうまくブレーカーも落ちずに使えていて正解な感じで、電気代も高圧の時よりも抑えることができて、もっと早くやっとけばよかったなあと感じた。

インバーターなども今は非常に手に入れることが難しくなってはいるけれども、これも7年とか前くらいに10数個、中古で状態のよいものを買っておいたので、そういう先行投資が役立っていて、安心して織機を動かすことができる。織機も固定資産に入るので、固定資産税の対象であるが、まあ、それは仕方ないこと。フルですべての織機が動くかすのが当り前なら、高圧のディマンド契約でよいのかもしれないが、働く人が限られていて手間のかかる織物の場合には動かせたとしても同時に10台も動かせないだろう。同時に5台から7台くらいが動いていれば林与的には大満足な手間な世界。

エアジェットをいれられている会社で仕事が少ない時には、1か月まるまる仕事をしないで、電気使用量をゼロにして基本料を半額ですませるみたいなことをやられてる話を聞くほどに、織物に掛かる電気代というのは馬鹿にできない金額であったりする。蛍光灯も工場の中についているだけでも500本近くになるだろうから、全部つけたりすると織機以上に照明のほうが電気を食う話で、普通所家の何十件分の蛍光灯の数。LED化をしたのと、それと、人感センサー付きのLEDをチーズワインダーのところには使うなど、作業する時だけ電気がつくようにして節電。

LED化も7年ほど前に、スタッフのお父さんが電気工事士の方で、蛍光灯の中の安定器を取り外してLEDが使えるようにしてもらったのが生きていて、依然と見違えるほどに作業が明るくしやすくなって、黒い糸も筬を通しやすくなった。この5年でもあのときにLED化しておかなかったら織るのに何倍も苦戦をしてしまっていた織物が多かっただろうと思う。あのときに、やってもらって本当によかったと感謝している。

同じタイプの織機を多く持っていることは、たとえ1台が壊れてもその1台を部品取り用にすれば他の何台もの織機が生き延びられる可能性がある。また、シャトルを含めた消耗品も、なるべく、今後20年分くらいはもつように買いだめをして、林与が織りつづけられる間は部品で困らないようにと考えている。シャトルはもう一回30丁くらい作っておく必要があるだろうか、それだけでも50万円くらいはするだろうから、心づもりは必要だったりする。高いシャトルはそれなりに丈夫な木でつくられているので長持ちはする。

林与のシャトル織機の問題は、織る経糸が麻なので経糸切れ時にシャトルが飛び出しやすく、飛び出したシャトルが織機に挟まれたりするとシャトルが壊れたり、あと、片四と呼ばれる、片側4丁杼なので、前後運動だけでなく日箱の上下運動があるので、日箱に挟まれやすく、その理由でも壊れやすく、デニムなどのオートチェンジや単丁のシャトルよりもシャトルが壊れやすく、予備のシャトルをたくさん持っている必要がある。

今、機料屋さんが貴重になっているというものにタイイングマシーンがあって、日本中で40年前のタイイングマシーンが今も現役で使われているのだけども、中古のタイイングマシーンの出物が少なく、タイイングマシーンを修理するための中古部品が手に入りにくいという問題があるそうで、ほんと、いろんなものを使わなくても残しておかないと壊れた時に部品が手に入らないという問題がある。

昨年はシャトル織機のドビーを修理したけども、ドビーの中のプラスチック部品も経年劣化で壊れやすく、入手することが難しいようで、自分で3Dプリンターかプラスチックの板を熱で溶かして代用品を作るかしないといけないだろうなあと思ったりしている。

たとえばシャトル織機が1台あっても、その織機の価値というのは、その織機の維持のことを考えると部品が手に入らないと動かせなくなる可能性は高いだろう。でも、何台か同じ織機を持っていて保守部品もそれなりに準備しているなら活用はしやすいし、例えば、1台の織機のために何かの部品を最低男十個つくらないといけないとかなると迷うが、何台もある織機のためなら新規にシャトルでも30丁つくろうとかは考えやすいと思う。

林与にとっては仕上がり44インチの織物が織れる織機が一番便利で、それより狭い幅だとアパレル向けには難しく、出物があっても手をださないだろう。小幅のシャトル織機も、おじさんの家の倉庫に10台以上あるだろうと思うけども、何十年も動いていないままで、その織機もいつか林与の工場の中に移設しないといけない話。

いろいろと織機の話も書いたけども、一番不足しているのはそれを動かすことができる人という問題で、織機の構造を分かっているだけでなく、地道な織物の作業をてきぱきとこなせるような人で、林与の織機はそういう人たちに出会い、活躍し続けることができるのだろうかというあたりが一番の問題ではないだろうか。

織機を昭和のひと世代見守ってこられた方々が引退される今のタイミング、日本の織物工場も廃業のラッシュ、ひと世代守ってこられたものを引き継ぐということはたやすいことではなくて、新品でもない部品もなかなか手に入らないものを自分自身がメンテしてゆかないとならない。今の時代は、織物の現場には答えを見つけてくれる人も教えてくれる人もなく、自分自身が自分自身で問題の答えを見つけて解決して行けないと、織物をつくることはできないような厳しさがある。今の若い人たちにそういうのを求めるのは酷な話だなあと思うのは思うし、織物が織れたところでよほど器用でなければ、織物で食べていくのは難しいだろうと思う。林与も織物だけじゃなく、少しはミシンを踏んだりもできるので半端な生地などからでも小物をつくったりできたり。試作までは自分でやって規格を決定してあとは業者さんにつくってもらったりもできるけど、布はつくれども売れなければゼロではなくてマイナスだし、マイナスも経験してそれを乗り越えて続けてプラスになるまで試行錯誤できないと残っていくのは難しいという厳しさは普通にあるだろうなあと思う。

そのほか、糸の在庫なども細番手のラミーやリネンの糸などはある程度在庫をもっていたりするし、幻といわれるアイリッシュリネンの糸も手績み糸もそれぞれ1トン近くはあるだろう、また、近江本麻上布の昔の絣の反物も100匹くらいは残っているだろう。通常の番手の糸に関しては高騰はしているものの国内在庫はまだ糸商さんに残っているし、世界NO1,NO2といわれるリネン紡績工場がなくならない限りは、将来に渡って通常の番手は手に入れることが可能であろう。

今は構えないモノづくりが流行ってはいるけども、やはり20年先くらいまでは考えて、外的要因にはなるべく左右されないように、織物を生産を維持してゆけるような柔軟性すらもが必要ではないかと考える。そのためには、設備、原材料なども、在庫を持つことが悪いようにいわれる今の時代ではあるけども、備えておく必要はあるだろうと言える。
2024年03月08日
3月も半ばに近くなっては来ているけどもここ数日体が冷える。今年は近江湖東地域は雪も少なかったのでありがたかった。雪が少ないと麻織物が織りにくいという問題があって、冷え込んだ環境だと麻織物は糸が水を含んで織りやすい。気温の下がる、夕方から夜中にかけては織りやすく、明け方から昼にかけては非常に織りにくいというのが1日の麻織物のパターン。

麻織物というのが雪国で織られたとか、山側で細い番手が織られるとかは、全国的な傾向だろうと言える。宮古上布に関しては、沖縄でなぜ麻織物や芭蕉布が発達したのか、いつか訪ねる機会があったら考えてみようとは思うが、江戸時代というのは沖縄は今よりも寒かったと言われるものの、沖縄という場所は年中温かくて、麻を着ることが快適であったという需要的な要因から、麻織物の技術は進歩し、また、衰退にしてもしにくかったのだろうと思う。現代においても、沖縄での麻織物の需要は通年的で、県を挙げてかりよしウェアのプロモーションが行われていると詳しい方から聞いた。

沖縄も滋賀県と比べるとどちらが田舎かとなると、観光客も少なく多分滋賀県のほうが田舎だろう。昔きいた話だけども、沖縄では手織りは盛んだけども、動力織機での生地の生産というのはあまり聞かないが、その理由が海が近いので、鉄製のj部品などはサビてしまうからということを聞いたことがある。
2024年03月07日
昔の生地の加工してある生地に関して分からないことがあって、その件で業界の方何人かに問い合わせをして、今の加工だとどのような加工に相当するのかを加工工場の方に尋ねにいった。その生地というのがリネンなのに非常に柔らかくしなやかに上品に仕上がっていて、ちょっと綺麗すぎるかなあと思うほどに、リネンに見えない仕上がり。昔のリネンというのはそれほどにきれいなリネンが多かったのだけども、その加工ももうその加工設備を持った加工工場が廃業となり、同じ加工はもうできないので、今の加工方法の中で近い加工を試してみる所から。

単に加工方法だけでなく糸のチョイスなども林与なりに考えて、ちょうど定番のソフト仕上げをつくるタイミングで、ソフト仕上げとは異なる皺になりにくいやわらかなリネンのシリーズを作れないかと思うところがある。海外展開を積極的にやっていたときに、求められていたようなきれいなリネンのテイスト。高密度の平織のタイプと綾織の2タイプで展開をしてみようかなあと、半年後とか時間が出来た時につくろうかと思う企画。

今の現場の仕事も林与以外ではできない作業が多くなりすぎて、そういう作業は人が育てばできるような仕事でもないような気もする。麻の整経にしても、今の整経は、必要量の糸を柄に合わせてカウントして、ぎりぎり使い切るような計算が必要で、一回勝負で失敗が許されないところがあって、エクセル使って必要総メーターなどから何カウントかを計算して、木管に巻く。そういう作業ですらも林与の会社では、林与だけしかできなかった仕事だったりで、私も仕事をし始めた最初からそういう計算をやって、そのやり方で最適な糸の使い方を常に考えたりしてきた。

そうすることで複雑な先染めの仕事でも、10回やって9回10回は整経がうまくいくようにデータなども記録したりして、毎回毎回そのデータをつかって簡単に再現できるようにもしてきた。作業的にも整経時の糸のテンションの管理などにも気を付け、同じ番手の糸でも色糸はおもりを多くして、白の糸はおもりを減らすなどして糸のテンションが均一になるようにしたりとか、普通だと逆にそういう匙加減をすると問題も起こりやすくなるのでやらないような調整まで自分の手が糸から感じるテンションを判断して調整を加えるとか。

また、荒巻ドラムにまくよりも、荒巻ドラムからビームに巻き取る作業で、巻き取り幅の決定はミリ単位でのシビアな調整が必要で、失敗して巻き始めてもある程度は糸を移動させながらビームに均一に巻くという作業も、毎回毎回のことで、そういうのも林与が整経の巻き取りを最初おしえてもらった人以外はやろうとしない作業。麻織物において、自分自身で整経ができることで、先染めの麻織物を自由につくれるし、特殊な織物でも小ロットでの試行錯誤的な生産が可能。

また、経糸は綛染めにすることが多いのだけども、外のチーズアップでは対応できないような、100番手を超えるリネンのチーズアップなどは自分でチーズアップしたりすることで、生産を可能にしたり、150番手リネンを織ることができるのも、自分で糊のついた糸をチーズアップしているから出来たりする。

林与の工場では、タイイングマシーンで糸を繋ぐこともあるけども、手で経糸を繋ぎ変えることも普通にするので、タイイングマシーンでは繋ぐのが難しい100番手を超えるリネンや、超太番手の5番手8番手のリネンなども織ったりもでき、手で糸を繋ぎ変えられるだけで、ものづくりの可能性が広がるので、ぜひ、織物工場の機場で作業をされている方々は縦繋ぎを習得されているほうが良いのじゃないかと思う。

縦繋ぎも何千本の糸を1時間に300本くらいのペースで繋いでいくのだが、肩が凝るとか肩が詰まるとか、慣れるまでは地獄だろうと思う。そういうのを他の織機を動かしながら当たり前にできるようになると、林与的には、織り手さんとしては3か月から半年での目標のあたり。できる人だと1年目くらいで、経糸のテンション管理や、積極送り出しの調整とか、2年目くらいでドビーの開口の調整とか、ドビーの開閉のタイミングの調整とか、3年目くらいになると、機づくりとか、ドビーカードのパンチングとか、できるだけ早いタイミングでいろんな作業ができるようになった方がよいだろう。早く自分で作業ができるようになるほど、活用する回数も多いので、当たり前にいろんな作業ができるようになる。

林与も整経作業ができることで、その経験が織りにも生きていて、織機の調整に関しても織機の調整のコツを理解できているから、問題なども見つけやすい。他に調整が必要なことが多いのが、レピアのヘッドの調整とかだろうか。一度一緒に作業をしたら次からは自分一人でやるくらいの覚悟がないと、物事の上達にも時間が掛かるだろう。

林与もまだ、筬通しなどできたりするけども、黒い糸などの筬通しができなくなれば、高度な先染め織物は正しく織れなくなる。白い生地と比べると黒い細番手の生地は、3倍くらい織るのが難しい。麻の先染め織物を手掛けられる機屋が日本でも少ないのもそのあたりで、もうそういう作業をこなせる人というのが織物業界でも非常にまれな存在になっている。先染め織物というのはそれだけの手間を費やしながら何倍も高く買ってもらえるということもないから、消えゆくのは自然の流れなのかなあとも思える。

林与がなぜ織物全般をこなすのかというと、織物作業全般をこなしたいという思いがあるからだろうと思う。他の人がやってもできないことを自分がやればうまくできることも案外あったりして、他の人に頼んでもうまくいかないときには、自分が解決してきたことも多い。それって大したことはない話にも思えるかもしれないけども、新たに移設したシャトル織機がまともにうごかないときにも、職人さんに任せても駄目な時には、自分が解決しないとそれはタダの鉄くずに終わってしまう話で、そういう問題の原因に案外短時間でたどり着けることが多いので、まだ、織物工場を経営していられるのだろうと思う。

最初の日から、油にまみれた織機の下にもぐって織機の問題を直したりすることなども覚悟して積み重ねてきたからできることで、普通の人だと織機の下にもぐって修理をしようなんて気持ちにもなれないだろうけども、林与のおじさんが機械に問題があったときに、それをやっているのをみて、次からは機械が壊れたら自分が潜って解決しようと最初に見た時から覚悟決めて実践してきたので、目の前に問題があればそれを解決するのが林与の仕事みたいな感覚で、他の人が解決できない問題を報告受けても10のうち9はすぐに答えが見つかる話、とくに織機の問題というよりも作業している人のうっかりとか、正しくない作業が問題の原因になっていることが多かったりするので、織機だけでなく、働いている人の作業手順の説明を受けて、その手順に間違いがないかどうか確認することが多い。いったことと違うやり方をやって問題が起っているというケースが多かったり、原因を見つけるのができないのが、不規則な作業手順だったりして、問題の原因を見つけるためにも作業手順というのは、問絶対に守ってもらわないと駄目だったりするが、それを守れない人というのは多い。一呼吸で、ドロッパーに糸を通して飾りに糸を通すとかも疲れないための作業手順で、間にもう一呼吸入るとすごく疲れるだろうし、遅くなる。結論として、仕事が大変なままか、仕事を挫折することにつながる。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | ... 179 次のページ»