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リネンや麻を織る日々をつづっています。
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2023年07月11日
先月の百貨店イベントで、初日に一番最初に来てくださったお客さまがキッチンクロスをお買い上げいただき、その数日あとにもう一度お越しくださって、使ってみて、本当に良かったので友達にもプレゼントしたいといって追加で買ってくださった。今日も、百貨店イベントでお会いしたお客様が、キッチンクロスが良かったのでどこかで手に入らないのかというようなお話。

布というのはすごいなあと思う。人々を惹きつけるような要素を持っているのを感じる。コロナ前には海外の展示会に行っても、言葉が通じなくても布が言葉みたいなもので、多くの海外のデザイナーさんたちとの出会いが生まれる。パリの展示会に行ったときにも、最初のお客様というのが、ベルギーの天然繊維にこだわるデザイナーの方で、ベルギーのリネンのことも聞きたかったので1時間くらいは雑談させていただいたのだけども、ベルギーではアパレル用の良いリネンがみつけられないといっておられた。えっつ、って感じ。林与の生地をみて、良い布をみることができて今日は一日幸せだと何度も何度も言ってくださってた。

林与がちょうどアイリッシュリネンプロジェクトをやっていた時だったので、お出会いの記念に1枚、アイリッシュリネンハンカチをプレゼントさせていただいた。林与自身がすごく思い入れをもって織ってハンカチに仕上げたもので、1枚の小さな布をハンカチにしたものでしかないけども、その布というのは布に思いをもった人からするとずーっと探し求めていたような布との特別な出会いになるのかもしれないと。

リネンのストールプロジェクトなども、海外の展示会では発表をさせていただいて、細番手リネンの織り成す柔らかリネンストールを世界に提案した。また、リネンデニムプロジェクトも林与がこだわる世界の一つで、リネンでは不可能だと思われていた綿のようなデニムをリネン生地で織りあげ国内や海外の展示会で発表した。

一つの布を開発する時には3年くらいは時間を使うことが多く、一番最初に絶対に織るのが難しいような規格から入って、それをどこまで織れるように持っていくのかという試行錯誤、織ると並行しながら生地を加工して製品化までしてみて、面白いか面白くないか、一見してその製品にときめきがあるのかないのかを検証する。開発中の商品は事務所に転がっていることが多く、なんどもなんども見る、その時に良い感じなのかどうか。

リネンキッチンクロス、アイリッシュリネン、リネンデニム、リネンストール、それらの生地は、自分が、いつ見てもそれなりにいい感じで、それぞれがそれぞれに特徴もあって、布が私に語り掛けるようなところがある。林与の布ロゴ看板も展示会の荷物に紛れてどっかいっちゃったけども、あれも、ほんと語り掛ける創作物で、あれは初めての展示会の前日に、生地ハンガーはあるけども、ブースどうしようかというのを思って、半日掛かりでつくりあげた。そのブースに看板を飾ったのだけども、ほかのスタイリッシュなブーストは違って、手づくりっぽいインパクトが強すぎてなんか笑えて。あのロゴは与一爺さんがつくって近江上布の着物の箱に印刷してたもので、それを私がまた使い始めたこともストーリー的には面白いんではないだろうか。ある海外の大きな展示会でも林与のブースにこられた方が、展示会で一番いいものを見つけたといわれて他の人にも見にくるように電話されてたが、それが林与のロゴ看板だったりもあった。林与の名刺とか会社案内とかも15年ほど前に自作したものを今も使い続けていて、手づくり精神はそういうところにもある。

林与のものづくりが、その道のプロの人も感動を与えることがあって、ある展示会では藍染の工房さんが出展されていたのだけども、ちょうどその時に林与が麻の藍染プロジェクトをやっていたので、本藍で完璧なまでに濃紺に染められたリネンがその工房の方には刺激的すぎたみたいで、感動を受けたということでほんの少しで良いからサンプル生地を分けてほしいと真似ができるようなものでもないのでお分けしたことがあった。海外の展示会で藍染の展示をみられたオーストラリアのデザイナーの方が、仕事の話じゃなくて自分のものとして本当にほしいと思われて展示会で一番気に入ったものだったのだろう。林与が作った布を、布のプロたちが自分用の私物として買いたいと思っていただけるというのはありがたいことである。展示会に来た記念のお土産に林与のストールを買ってくださる世界各国の出展者や来場者の方も多い。
2023年07月11日
8月5日6日に米原の伝統産業会館で開催されます長栄座のイベントのロビー展示に関する準備の詳細とチラシが届きました。友人がビームを下すのを手伝いに来てくれたので、チラシを見てもらう。私自身、イベントの準備というのは前日位からが多く、今回もキッチンクロスの縫製と洗い掛けを前日に行って朝に出来上がったものを会場に持ち込む予定。あと手織りの織機の整経もしないといけない。

友人は、他の出展者の方の情報もいろいろと知っておられ、私以上に地元のことはよく知っているタイプ。今回は、滋賀県の地元の方向けのイベントなので、来場者の方にキッチンクロス1枚プレゼント企画を行うのと、超簡単無料手織り体験を行う。来場される方の多くが、滋賀県では麻織物が特産品であるということはご存じなのだけども、普段、滋賀県で織られた麻をお使いの方というのは少ないと思う。手織り織機の画像イメージはあっても、実際におられたことのあるかたも案外少ないと思う。

キッチンクロスは、生産の途中でいろいろと問題があったりしてハギレができたりするのだけども、そういうのを残しておいてよいところどりして、正規の商品ではないプレゼント企画用のキッチンクロスを作る。キッチンクロスに向いたナチュラルな加工で仕上げてある。サイズもバラバラだけども、好きな大きさのを選んでもらえばよいだろうし、大きいのが欲しい方もあれば小さいのが欲しい方もあられる。またハンカチに使えるような小さなタイプのものが欲しい方もおられる。

時間があれば、ストールやカバンなども販売を兼ねたディスプレイ用に展示などしたいのだけども、たぶん、キッチンクロスを2日で150枚くらい縫製して準備していると時間はすぐに足りなくなるだろう。他の方々というのは、会社や地場産業のイメージを展示されるのだけども、林与は、ブースをいろんな商品で飾ることはできないが、家に帰られてからキッチンクロスをお使いいただくことで日本の麻織物の本場の麻織物を身近に感じてもらいたい。

また、超簡単手織り体験も整経などの準備が間に合うかどうかだけどもできるところまで準備して、あとは会場で織機の立ち上げなどはできるので、なんとかなるだろうという感じ。2台持って行きたい。長栄座の公演というのは、出演者に子供さんがおられたり、また、親御さんについてきて子供さんが来られることも多い。手織り体験ももう5年目くらいにはなるだろう。子供さんにもキッチンクロスは1枚プレゼントさせていただくので、そういうのも、滋賀県に麻織物があってそれを使ってもらえるというのは、織物を身近に感じてもらえるひとつのきっかけになるだろう。

私自身が手織り体験の凄いなあと思うところは、子供たちが織ることに夢中になってくれるところで、自分の作業で目の前で織物が織れていく楽しみみたいなあたり。もちろん子供さんだけでなく、お若い方から年配の方まであらゆる方が経験頂くと、やってみると分かることもあるで、目からうろこみたいなところがあります。日曜日に米原の伝統産業会館に来て公演や他の出展でも楽しを見つけられるとは思うけども、手織りを体験していただいて織物を織ったことも1日の思い出になれば。手織り織機で織物を織ることは難しそうにみえてもすごく簡単で楽しいということを知っていただけたらうれしいです。
2023年07月07日
先代を持ち上げていた母親もようやく今まで自分がやってこなかったという状況が分かり始めたようで、80過ぎて気の毒だけども、実際に初めて位に仕事をしてみて仕事の普通の厳しさみたいのを知る話。仕事というのは外の世界とのつながりなのだけども、内輪のなかで偉そうにしていてもそれはまったく成り立たない世間知らずで本当に無意味な話。

母親には寝る時間やテレビを見る時間、自由に動き回れる時間をあげたけども、それが普通になってしまって自分が自分で食べていくというのが理解できずに、なんで私が働かないといけないのよ、若いころに働かされたわよ、というような、今の若い人の働く覚悟もない、自分のメンツが勝ってしまって、自分がすべきことをやらずに、自分が下と思っているものに当たり前にそれがあなたの仕事でしょうというような、いわば、日本の階級社会の末期状態。

自分が働く覚悟もない人というのは本当に厄介で他の人を仕切ろうとするからややこしくなる、それが林与の先代夫婦。6億もの借金を自分が信用あると自慢して、お前には無理だとか言っていても、でも、実際に返すのは次の世代。くしくも先代は先々代から借金してまで仕事するなと言われていたのがあって、私が3歳くらいで亡くなっているので記憶はあまりないが、おじいさんというのはしっかりとした人だったなあと思える。過疎化や少子化なんて当たり前で、年寄り連中が好き放題に。実は林与というのは、親に育ててもらったというよりは、本当に正しいことは旧の愛知川町の剣道の先生方に教え育ててもらって、先代なんかは、一番に小学生からやり直さないと駄目のも当たり前。日本の繊維業界の落ちるに落ちるを見る話で、それで成り立っているのが今なお令和の日本経済だったりもする。

何も残していらないから借金を片付けて綺麗にしておいてほしいというのに、驕りすぎてお前は将来ワシに感謝すると田舎の旦那さんというのが、私が高校生17歳の時の真面目な話の結論。そういう先代に頼ってしまっていては結局何倍もの問題を解決するのが私が働き始めた時からの仕事。でも、先代夫婦というのは今時の感覚で、こかしてなんぼの世界、そして先代と懇意にしていた金融機関もそれが理想だと思っているから、何億円もの問題が次の世代にのしかかってくる。

カネや数字に浮かれた人たちが、人々が守ろうとする物事の大切さや気持ちも見失って、綺麗ごとで利用して責任感もなく食い物にするのは解せないところ。先代はあまりにも人が良すぎて、田舎の世間知らずの旦那さんそのもの。その世間知らずの旦那が、人間関係に奢って、他の人に頼り始めた時に、それは相手の苦しみも理解せずにやったら駄目だと警告を鳴らすのが私で、人々が働くをあまりにいい加減に考えすぎているのが覚悟すらもないというか、覚悟すらもない人が集まりすぎて覚悟している人を食いつぶすようなのが当り前な今のながれ。誰が面倒を見るんですかという話で、自分が面倒も見ようともしない人たちが偉そうに面倒見ろとか、それは野麦脳外の世界に通じる話で、日本の階級社会の闇そのもの。生きてゆくのも難しい困った貧農を救うのが国からすると一番駄目なようなように持って行く、3年で家が建てられるとかのチャンスが日本苧行政的な階級社会では一番駄目なことになる。

江戸時代の身分制顔がそのままなのが今の日本の法の下の平等で、法律で江戸時代の身分制度や階級社会を守っているだけのことで、それが、本当に残念、そのもの。自分が支える覚悟のあるものが日本の繊維業界を支えてゆかないと思うだけで、その気持ちを増やして行かないと、日本の繊維業界もどんどんと楽にうすっぺらく、ラベル商売が横行して、逆に実際に作業する気持ちすらも食いつぶして行く、それがこの15年くらいの流れ。

専門家の人が林与にアウトソーシングしなさいとか、損得じゃない日本の産業としての問題で、それは、日本の大手企業すらもが海外のお客さんになるだけの話で、自分たちが働くことすらも面倒になって、そういう考えに陥ると成り立たないようになるだけのこと。大きな企業に憧れが無くて、一般的には特に大きな企業の中の人には魅力をあまり感じない。大きな会社の中でも、私と同じように仕事している人がいたりもして、そういう人はなんでも自分でやっていて解決方法も持っていたりする。実質的な仕事のところがあって本当の仕事力みたいなものを持っておられ、その会社では一番年配の開発者の方らしいのだけども大企業を支えられているなあと思えた。

補助金の審査会でも審査委員のいわれることがずごく浅すぎてそれが一番駄目だったりとかも多く、わたしは、現実も分かっておられずに「そうですか」というだけ。別の審査会では審査員の方が事業計画でなぜ販売をしないのですかという質問をされたりもして、補助金の事業期間中は販売してはならないルールがあることが私の返答だったりとか。自分が開発した商品などにしてもなぜか販売は他の人に任せなさい見たいなことを言われたりするけども、それももちろん今までの仕事で経験はもっているけども、繊維業界全般で販売が難しくなっているから、作っているもの自身が販売を手掛けていくという必要性が出てきているのである。

一流企業で働いてとか公務員になるも難しい人たちが田舎の繊維企業に集まったときに、そういう人たちの生活をどうやって支えてゆくのか。できなくても精一杯やってみるというところから始めないと。何億問題を当たり前に背負いながら、まだ、働いている人を先代のように大事にしなさいよみたいな感覚では、今の時代の普通に働くも難しい話で、そこまで要求されるのが駄目な田舎社会。持ち出してその人々の人生が支えられているのがわからないと年配者や経験者がどこまでも覚悟すらもなく支えている喪に要求では難しい。みんなが頼っていた先代や、ちゃんとしているという母親に、1日のアルバイトの覚悟もなく、次の世代に面倒見てもらうのを求めてしまっている日本社会と被って、残念に思うところ。

田舎の商売感覚ではどうしようもないところがあって、外の人たちというのはピュアな気持ちで応援もしてくださる方が多く、普通に一生懸命にやっていれば評価してもらえるというまともさがあって、そういうのは一般の最終消費者のお客さんが評価される気持ちみたいなところからきている部分もあるのだろう。一般の消費者というのはSDGs的なものごとやエシカル、エコを大事に思ってくださる方が多く温かいなあと思う。そういう気持ちに応えられるような感覚で仕事はしたいし、意味のあることを続けていることがやっぱり大事じゃないのかなあと思える。儲けるとか儲かるとかに支配されてしまうと、大事な物事を見失ってしまって、毎回毎回の判断が誤りの積み重ねになってしまうだろう。それだけは避けないと一生懸命にやっている意味すらもなくなってしまう。
2023年07月01日
遺伝子組み換えのBTコットンではないかとオーガニックコットンが疑われている事例への、国際的認証機関の返答が、綿花レベルで遺伝子組み換えか否かを見分ける技術は現在のところないので問題ないという返答。それって国際的な認証機関が、オーガニックで遺伝子組み換えを禁止していると消費者には謳いながら、実際には、インドなどでは遺伝子組み換えでないコットンの種子は入手が難しくなって努力目標でしかなくなっているのが実情。

何がいいたいのかというと国際的な認証機関自体が、消費者に謳っていること自体がもはや現実味すらなっているということ。今に始まった話ではなく、2008年のピークから次の年に半減したのは、認証機関が適正な検査をしていなかったということで、2009年2010年にはインドの綿花の栽培量が半減した。オーガニックコットンの意味を否定するわけではないけども、国際的な認証機関の認証もうのみにせずに、消費者目線で警笛をならさないといけないというのが実情なのである。

特に、日本で一番大きなオーガニックコットン系の組織で、数年前まで、理事長やってた人は本当に無茶苦茶なことを電話で言っててびっくりした。私がコットンじゃない合成繊維交じりのものにもオーガニックコットンのラベルがついていますよね(当時はオーガニックコットン100%でないと駄目なとき)、というと、その理事長は、それは企業が勝手にやってるだけだから私の責任ではないと。それが国際認証機関の日本の認定委員も兼ねているから、結局、その程度の認証なのである。ほかにも、エシカルなことが面倒だとか、国際会議でなまった英語を聞いていると眠くなってくるんですとか、私があなたが一番オーガニックのなかでやばいですよ、早く理事長を止めた方がよいですよ、というと、辞めたいけど他にやる人がいないからやっているだけだという答え。そういう方が日本のオーガニックを謳って、セミナーとかで講演をしていたというだけのこと。一番感じたのは権威主義的で階級思想的な考えをもっておられ、そんなボロボロなことを言いながら、オーガニックの代表では駄目だろうと思うが、それが一つの日本のオーガニックのお粗末すぎる実情。その当時の副理事長だったかたにこういう話をするとびっくりされていたが、副理事長の方ですらも、理事長がそんな人だとは思ってもおられず、一緒にオーガニックの啓蒙活動をされてたみたい。その方を取り巻いておられた他の方ともお話するとびっくりされているけど、取り巻いておられる方々にしても、そういう本質も見抜けずに一緒によくやっておられたなあと思う。

オーガニックコットンに憧れる業者の方というのは、それまで普通のコットンを扱ったことのない方が多かったりする。同じように普通のリネンを扱ったことのない方々が、オーガニックリネンを求められて商売にしようとされていたりも多い。そういうのって繊維の世界からするとアプローチが違って、繊維の基本知識もない方がイメージから入ってこられるみたいなあたりで、消費者に正しい知識が伝わるのかとかも心配だったりするところ。

国産と謳われると安心するというイメージがあって、それが海外でつくられたものであっても、国産しか謳わないからどこがどう国産なのかというあたり、百貨店レベルでも危ない橋を渡っておられる業者さんがあったりもして、販売店員の女の子と話しているとすべて国産ですと言われるが、その裏の話をしっているから、販売店員さんにその会社は海外本社の業界では有名な輸入生地業者さんだということを教えてあげる。熊本のアサリのようなことは繊維業界でも普通にあって安い生地にはやっぱり訳がある。別に安くて悪いわけじゃないけども、高く売りたいからすべて国産とか謳ってしまう。

生地の産地にはいろいろな産地が絡んでいる、原料の産地、紡績の産地、染の産地、織の産地、加工の産地などなど、生地の産地要件としては、基本織の産地が、生地の産地となる原則があって、後染めやプリントの場合には、織の産地+プリントの産地とか、林与の場合は、織の産地主義に基づいているから、産地主義を貫いている。林与のように自分自身で仕事を受けて織っている会社からすると、今すでに麻を他の会社に頼まれて作っておられるなら、その織物工場とのお付き合いを大事にされるのがよいのではないかと思ったりする。

機屋というのは日本では絶滅危惧産業で、林与のようによいお客様やチャンスにも恵まれながら、いろいろとものを作って動き回っていても、実際の作業量が多すぎてなかなか成り立たせるは難しい。でも、普通に憧れて本質を見失なってしまえば私が織物をやっている意味も無くなるだろうと思う。ある方が、林与に尋ねられたことに林与さんの特徴はなんですか?と、自分で織物を織っていることかなあとお答え、尋ねられたかたはその当たり前に思われる答えにポカーンとされたのだけども。たぶん、どこどこの糸を使っていますとか、すべて何とかリネンですとかのようなところを求めておられたのかなあと。麻の知識に関する認識が違いすぎる時には、整合することはないだろうから言わないほうがよいのか迷うことも多い。言わないときには林与との仕事としての接点は生まれないほうがよく、接点が生まれると生地に対する情報がその方に正しく伝わるか、また、その方から消費者に正しく伝わるかどうかが重要なポイントとなる。
2023年06月28日
ルールを作っている人が現実しらずに理想もとめてたりだと大変なことになるのが、クリーンディーゼル偽装。地球環境を守ると言いながらも、不正プログラムで実走行では排ガスを垂れ流すディーゼル車に買い替えさせて世界シェアも伸ばしたが、実際には、10年20年排ガスを、偽装クリーンディーゼル車が環境によいということでシェアを伸ばしより大規模にディーゼルの排ガスを垂れ流すような結果になって地球環境を破壊。今、VW傘下のアウディ者の元トップが裁判に掛けられているが、そういう絶対に無理なルールを強いて偽装に陥らせてしまうような環境意識高い系の素人専門家や国の役人たちが深く考えもせず、まともにやっているものごとを破壊して、地球環境の悪化につながってしまった典型的な事例。環境に良いと信じた消費者が手にした車を買い戻しさせることも出来ない。

人々のモラルまで落ちてしまって、素人的な環境の専門家たちと一緒になって、ルールを守って地球環境破壊することが、まともなものを淘汰してしまって最悪の結果。地球環境の専門家たちがクリーンディーゼルというような実現性のないものが実現されたと持ち上げて地球環境を救う最先端みたいに、普通のまともなものを駄目なことのようにつぶして行く。偽装の発端が、地球環境保護を謳う人たちの意識と知識の無さにあるだろう。

同じく、熊本のあさりの産地偽装問題も、やっている人たちはルールを守ってやってたみたいな一夜漬け、その一夜漬けもしていない業者もいたりで、結局、そういうのが表面的な世間一般では超えたことをやって国産の優良企業として扱われて、正直に商売している人たちは成り立つのも厳しく、商売がヘタみたいに扱われて、何十年。まともに仕事していたら儲からないのは当たり前だけども、そういうまともな商売を評価しないと駄目なのに、なぜか、ルールやラベルがあることで、それを欺くところにビジネスチャンスがあるみたいな今のものづくり。

オーガニックなんかでも、いくら認証やラベルがあろうが、結局は一つの企業のモラルの問題というだけでしかなく、普通の糸を使ってオーガニックラベルを付けても判別は不可能という現実。ルールの独り歩きの典型が虫のいない様な場所でのより工業的な作物の生産手法の導入とか、自然農法とはどんどんとかけ離れてゆき、資本主義的になりがちな今のオーガニックで良いのかと思う。

続いている技術というのはそれなりに安全性があるのだけども、それを駄目なことのように貶めてより安全でエコだとかで買い替えさせ、ずっと使えるようなものを捨てさせて、新しいものに買い替えさせるような、ビジネス目的のエコでは、従来の業界のまともさすらもなくなってしまうだろう。変な環境家や学者など必要なく、健全性を守る覚悟の人たちが業界をつくりものを生み出していくのが一番良い。買い替えさせるのに必死なビジネスのどこがエコなのか、その買い替えたものがまた数年で買い替えないといけないようなものだったり、より地球環境を破壊するような結果になる。

アベノマスクにしても、マスク企業がやったんだけども、あれは一番駄目な日本の終わってるようなレベルの政治と癒着し商社化した繊維業界の典型。ああいう形で生まれたマスクでも、つくられたマスク自体には罪はないしゴミでもない。今はマスクが普通に出回ってマスクのありがたみすらもまた失われてしまったけども、ゴミのように考える考え方が蔓延ってしまうのが本当に残念で、どうしようもない人たちが掌っていると保管料だけで6億円とか、もうそこが根本的に垂れ流し。

国もエシカルサステイナブル言いながら長期保管もできないようなシステムそのものが、エシカルとかサステイナブルを指導しようとしていたりでは、日本のエシカルサステイナブルからもまともが消えてしまう。人としての温かさを失った人たちがエシカルやサステイナブルを牛耳り始め、実際にやってる人たちを駄目かのように苦しめはじめたらそれはもうエシカルでもサステイナブルでもない。
2023年06月25日
商売するのには、場所というのはすごく大事だったりする。何もしなくても人通りの多いところでは商品やサービスが人の目につくが、奥まったところだと人の目に着きにくく、売り上げをつくることは難しい。若いころ展示会に出て、人の流れの少ないところが当たったときに、場所が良くなくて、新しいお客さんとの出会いが少なかったことがあって、もっと良い場所に割り振ってほしいなあと思ったことがあった。その考え方が本当に愚かだと悟ったのは後のことで、主催に近い出展者は、大きなブースで費用負担も大きいけど敢えて奥まったような場所を意図的に自分たちに割り振ってられるようなことを知った。その理由が、奥までの動線を作るためのような全体を盛り上げるためにあえて自分たちに悪い場所を割り振るみたいな考えの方がおられるのを知って、ほんと自分自身は浅いなあと思ったことがあった。

ものを売るだけの商売なら、販売のチャンスにものが売れないと難しいことになるけども、林与の場合は、織物をつくるという大事な部分があって、展示会に出ながらも、そこに一番の力を注ぐべきだろうと思うようになった。売り方にしても商社的な会社の売り方を真似るではなくて、自分自身が作っている立場の人間として、これは良いものですよと伝えるような売り方がよいんじゃないだろうかと。たとえば、それが他社の生地でも私自身がみて感動したならそれは良いものとして、お客さんにどこどこの業者さんがすごい生地をもってられるみたいな話をするとか。手ごろな価格帯の生地を探しておられるお客さんには、他の業者さんの情報を紹介することもある。出来上がった生地がいくらというよりも、製造するのに掛かる手間やコスト、リスクが結局のところ私にとっては生地の値段。林与の問題というよりもお客さんの求める生地の作り方次第でコストは大きく違ってくる。

他の会社のカラーブックで、数メーターから買える生地に慣れておられる業者さんにとっては、生地というのはいつでも手に入ると思われるかもしれないが、ブランドの色とかもうちょっと薄い生地を敢えてそのお客さんだけにつくるとかなると、お客さんがしっかりとした生地を買い上げる企画をもっておられないと話からして難しい。自分が頭でほしい生地を、30cmだけ作って見せてみたいな話をされるお客さんが多いけども、それほんとそれを頼むことの意味を分かっておられないと、次は1着分だけほしいとか、10m20mのサンプル作っても30cmだけ送ってとか、自分がオリジナル生地の企画をするのに売れたら買いますみたいな話とか。林与が自分自身でオリジナル生地を作るときにでも普通に100mとか200mはつくって売る自信があるし、作った生地は在庫として持って販売する努力を売り切るまで努力しつづけるけども、そういう自信のない人の企画というのはアイデアだけの使い捨て企画が多い。

もう10年ほど前の話になるけども、年商何百億円の大手の生地商社が、生地をつくらせて小出しばかりさせて、3年経ってもまだ買取らないので、買取るつもりないんですかときくと、わからないという。買い取るつもりがないなら私が自分で売って片付けますよというと、どうぞといわれる。それで売ったんだけども、また半年ほどしてへっちゃらに出荷してほしいとか言ってくるけど、もう売ってないですよと返事。なんで売ったんですかとか、あわててるけども、その大手の問屋のどうしようもなさ。そういうことがあったので、もう作らないと決めていたけども、絶対にあんなことにはならないから、もう一度作ってほしいと言われて、担当も変わったけども、結局また2年経っても新たに注文して作らせた300mほどもまったく引き取らないから、それが日本の大手の生地商社の中の人の商売感覚。最後また別件でより上のほうの方から電話貰って、その方個人で引き取りはしてもらったが、今後の取引はお断りする話で、そこまでどうしようもなくなっているのが日本の大手生地商社レベルで、日本の繊維業界も元気に見える所が末期状態でリセットが必要ではないのかなあ。その生地を使っているのも、日本のものづくりにこだわる海外でも日本のものづくりを謳う知名度の高いブランドさんだったんだけどもう関わりたくなくなった。

金儲けやものづくりへのこだわりよりも、地道なことを支え合うような精神を大事にしたいなあと思う。今の世の中というのは法律自体がもうボタンの掛け違えで作られすぎて、今の若い世代の人たちはかわいそうに思える。若い人たちほど搾取される立場で、生まれてくる赤ちゃんたちに今の日本のだらしない行政の問題を背負わせてしまうような頽落状態の行政。自分たちの問題を背負わせたいがために次の世代が必要みたいな、どうしようもない感覚で少子化問題議論。生まれてくる子供たちが今の大人たちの問題解決を背負わせる奴隷では可哀そう。少子化問題も対策の機振りしている人たちが少子化問題の元凶だったりもするのが、日本の少子化問題の根の深さ。それは過疎化問題と同じで、自分を譲れない人たちがいつまでものさばってしまっているから、世代交代すらもできずに、ワシの目の黒いうちは牛耳ろうみたいな人ばかりではお話にもならない。牛耳ろうとするのではなく問題解決を自分がやる先頭に立て底辺を覚悟して実践すればよいだけ。偉そうなだけの政治家たちに価値はないどころか、社会問題の元凶そのもの。
2023年06月25日
私自身は地道に先代である自分の親がアホだっただけななく、金融行政や雇用行政も含めてアホすぎたから、日本の昔ながらの繊維業界が、素人的なものに置き換わってしまって、一番下の身分扱いなのが、残念過ぎて。それは行政レベルで、世間知らずの田舎者を騙して食いものにするようなあたり、国レベルではそういう問題に是正の動きがあるのも理解はできているけども、林与のようなオールイン全力でも、日本では難しいと金儲けするためには消費者騙しするしかないんじゃないか?国や行政レベルがらみだと消費者騙しで、さらに責任逃れがふつうなのが、国際的なクリーンディーゼル偽装。素人でもディーゼルの排ガス心配して遠慮しても、金儲けに問題解決したと世界シェアを奪って20年も排ガス垂れ流して、消費者を裏切ってつぶれることもないような国家レベルの偽装。その消費者騙しレベルに本気でやってる人が落ちてほしくない、国連や国際レベルもエコとかサステイナブルが現実的には推進している人たちが危ない商業的なレベルで、それを信じて買った騙された消費者が排ガスの問題を抱えて、1万キロごとに触媒を交換で何十万の世界、それが世界的な偽善エコビジネスの最先端が続いている。本当なら、エシカルな観点からすればすべての自動車をリコールしないといけないレベル、地球環境に役立ったどころか、買い替えさせて、意図的に地球環境を汚染をつづけさせたようなビジネスモデルそのもの。国の行政が普通に国民を騙してばかりいるようなことを、商売している人間がしてどうする?その国民や消費者騙して生きてゆくのが日本のレベルならやめた方がマシ。

世界的にみると戦争ビジネスとか政治ビジネスとか、何兆円もの話あるけど、それで救える人は地球規模。国連すらもがカネを集めるだけの組織になったときには、警告を鳴らすべきは、本気に思っている個人、国連の誰もがその覚悟もなく、聞く耳もなく、SDGs。

日本の繊維業界で私を知る人だと、分かることもあると思う。それは国連の温くカネを集めるだけのことやってると、地道な人がつぶされて、その流れが加速してゆくようなSDGs。日本のSDGsやエシカルなことを発信されている方でも、実際には繊維業界のことを専門的にしか知られない方が多すぎて、法律とかができると、林与のような世界的にも珍しい感覚でやってる企業が一番駄目な繊維企業扱い。それって、世界的なカネの話ばかりの薄い話のどうしようもない世界で、それが国連レベルのSDGsなのが残念に思える。どんどんと従来やっている人たちをつぶして、商業主義的な方向を主導しているのが今の国連のSDGsで、商社や金融機関はもうかるけども、実際に昔から繊維業界の価値観を守ろうと地道にやっている人たちが代わりに消されてゆくだけの今の世界的なSDGs.扇動家として金儲けしたい気分もないけど、地道に本気で繊維業界の現実を受け入れているものを追いつめるような営利主義的なSDGsでは駄目そのものと思う。

人々の地道な地球環境をモア盛ろうという意識を裏切るような行為で金儲けするようなSDGs企業が増えすぎたというか、それが一般的な企業や組織の営利ビジネス。それに従順な人たちが騙されてしまっているようなままでは駄目で、理想じゃなく、できる現実を伝えるのが大事で、それは日本の原発の5重の安全神話そのもので、まったく責任逃れするばかりが、独り歩きで問題が起こってもそれで食っていた人たちはさらに国民に負担させるだけのこと。詐欺と同じで地に落ちたビジネスモデルでそれが合法とかだと、だれひとり責任すらも感じてないどころか、電気代2倍になりますよとか言ってくる、私は天然志向で2倍になってもいいですからいい加減な気持ちで安全を謳ってやらないでくださいという。事故が起きても分かってない電力会社というのが、次の事故を当たり前に起こす。あのメルトダウンでも十分に防げたけども、メルトダウンしても石棺化が必要なかったのは、地下から海への汚染水の流出という想定外のことで、石棺化に必要な多くの人命が救われた。チェルノブイリでの石棺化での消防士たちの命を笑っていてはいけない話で、想定外の地下水からの放射能汚染水の流出がなければ、石棺化が必要だったという問題。それをやらなければ、福島原発一帯は、チェルノブイリだと何十年も近寄ることのできないような8000ベクレル越えの場所。日本がチェルノブイリ以下じゃないのかと感じたのは、汚染土を8000ベクレル以下だと全国にばらまくとか。
2023年06月24日
コロナで国連のWHOレベルですらも金儲け主義の組織で、マスク害悪論を流して、コロナに便乗してカネを集めるだけで、その存在が逆にコロナに対して正しく対応しようとする人々を苦しめた。まさに、マスク1枚で救える命があったのに、それをさせようとしなかったWHO。ボタンの掛け違えが広がりすぎて、マスク害悪論が独り歩きさせ過ぎた。空気感染はしないと、ソーシャルディスタンス論ばかり強調して、現実的には、コロナは空中を漂い、距離をとっていようが、空間を共有した人たちが感染した。

初動で、マスクを付けさせない様な誘導ばかりが目立ち、ソーシャルディスタンス論ばかりが独り歩きした。世界の人々の健康を守らないといけないはずのWHO自体がその代表例。結果としてコロナに対してはマスクの効果は絶大であったことが最後に証明され、WHOの事務局長も最後にはマスクを付けたが、専門家といわれる人たちほど違う方向に誘導をして、一般の人ほど普通にマスクをつけてコロナ感染の拡大を防いでいた。普通にGOTOなんかやったらコロナが広がるだけなのに、意図的にGOTOやってコロナ感染拡大をさせてしまって、あとで、GOTOでコロナが広がるなんて想定外だったとかいう日本政府。人々の冷静な対応とは逆に、その冷静な対応を崩そうと動く政治家たちの意図はというと金儲け。

国民が適切な判断をしてコロナを防ぐということは、為政者たちにとっては不愉快で、国民というのは愚であるというモデルに落とし込んで支配したいという気持ちが強い者たちが、為政者。愚なるは為政者で、愚なる為政者たちが適切に対応している国民を、命の危険にさらそうとする。自分たちのいうことを聞かせたいというだけの心理。そして初動の失敗すらもいつまでも省みずに正当化しようとボタンの掛け違えを続ける。

日本という国では国がいくらマスクは害だといっても、国民は自己判断でコロナ蔓延防止のためにマスクを付けた珍しい国で、他国のような爆発的な感染は起こらなかった。マスクがないときに布マスクを家族のためにお母さんたちが自作するというような国民性も世界的には珍しく、自己防衛本能があって自分たちの命は自分たちで守るというような国民性。

今は、またマスクが普通に安く手に入るような状況が戻ってきたけども、本来はこういう時に個人にしても行政にしても一人当たり何十枚分かは備蓄しておくようなことが大事なんだろうとは思う。マスク1枚で国民に身を守られては商売あがったりな人たちがいて、なぜ、あれほどまでにマスク有害論を垂れ流すような人たちが行政には多いのかというあたり。
2023年06月24日
日本の行政の人たちが、法の下の平等とかが世界レベルの人権意識ではまさに差別意識そのもので、そのような低いレベルの人権意識では、ボタンの掛け違えで差別を助長し、階級社会を助長する。法律がボタンの掛け違えを生み出し、謳いは美しくてもまともな人間ほどを苦しめているような、官僚主権的な感覚はもう戦前そのものが加速している。

自分の命を捨てる覚悟の国民を求めて、一方で勝手に死んだだけとかの、為政者たち。存在すらもが害悪なんだけども、日本の社会の本質そのもので、そういう輩がまともな人たちを食い物にして、そういうのにすがるような苦しい国政を生み出して、世界の中で日本はまともじゃないのになびかないと法律が干すような社会で落ちてしまっている。世界的にみれば中世以下の今の日本の現状。それで回って世界的に優位を満喫している国とか国民ならよいのかもしれないけども、逆にそういうのを国民に支えさえて国民の義務だと世界に良い顔して大盤振る舞いで好待遇の政治家や役人たちが日本国内で階級社会そのもので吸い上げてどうする。そして吸い上げている人たちが払えないと犯罪者扱い。それは、もう途上国以下のレベルで自分が国民を幸せにする覚悟もなく食い物にしたい人たちが牛耳っているだけの、世界の優位な先進国を支えるための裏社会が日本の政治、日本社会が世界のために自分も成り立たないほどに奴隷以下にが今の国民の姿を求めて、政治家や政党が中間搾取で蔓延っているような本当に身分制度もあった江戸時代を超えたような、現代の官僚的な感覚の身分制度的な階級社会そのもの。身分制度のあった江戸時代てもそこまではやらなかたようなことが法律としてやってしまっているのが、現代の日本で、なぜか地道な人たちを食いものにしている人たちほど国連レベルや日本行政レベルのSDGs。一番アカンのが日本の行政的な金儲け主義的なSDGsやで。

2023年06月24日
地域でも自分たちが持ち出しでやる草の根的な活動があったりする。手織りプロジェクトは林与個人が全国の人に初めての手織りを経験してもらって織物を織るということを経験してもらい、織物って織れるんだなあという楽しみを広めたい。だから、一番簡単に、経糸には太い綿の双糸、横糸にはかわいい匹揃えた糸やモール糸など、初めての人でもだれでもが簡単に最初から織れて、自分の手作業で織物が織れてゆくのを体験してもらえる。

林与の手織りプロジェクトの役割というのはそこまでのことで、それよりも先は、最初の経験をきっかけに織物教室に通ってもらうとか、自分で織機を探して織物を織ってもらうとか、伝統工芸レベルの体験教室を組合さんなどで体験してもらうとか。だから、林与の手織りプロジェクトでの手織りは一番簡単な手織りで、初めての人が誰でも楽しくわかりやすく織れることを目指している。本格的な手織りの手法では耳をきれいに織るために、途中、横糸の微調整が入ったりするけども、そういうのはまた他の場所で別の機会に学んでいただいたら良いと思っている。

林与自身はそれを営利目的にするつもりもなく、自費で準備して日本中に広げたい気持ちがあって、それが私が日本の繊維業界にいてできるようなことの一つだろうと思っている。先日の阪急のテキスタイルマルシェでも、売り場で無料手織り体験の機会をいただいて、手織り織機を置かせてもらって、5歳くらいのお子さまが椅子に座っても踏板に足も届かないから、誰でも簡単に織れると謳っているのにやばいなあとおもって、右側の踏板は私が踏んで、反対側はお母さまが踏んでくださって、上手に織ることができて、難しかったかなあと思ったけども、お母さまと一緒に売り場を離れられる時に、振り返って織機を見てもっとやりたいとお母さんと話されてるのみて、うれしくて。

他にも楽しかったので次の日にも朝から来てくださる小学生の方もいてくださって、なんか遊園地の乗り物とかじゃなくても、織物の世界で自然に楽しんでもらえるような世界があるのが、私自身織物をやってる立場からするとうれしくって。私自身が実はお金儲けのための仕事じゃなくてその感覚で織物をやっているようなところがあるのかもしれないなあと思う。自分の家族が着るものをつくるために家のものが手織りしていたのが戦前の日本で、戦後は企業は株式会社化、働く人はサラリーマン化で、何百年も続いていたことが崩れてゆく。

織物の世界にしても今の日本では3Kで実際に厳しい仕事だけども、昔の人たちにとっては生きてゆくのも難しい階級社会に縛られた農家の人たちにチャンスを与えた方法の一つ。野麦峠の話でも、3年で家が建てられるほどを目指せるくらいに、貧しい農家の娘さんの世話を大盤振る舞いしてやったのが繊維業界の親心での人たち。貧しい人たちが国からも吸い上げられ見放されているのに、値切ろうと思えば値切れただろうけども3年で家を建てられるような今でも夢のような待遇を用意したのが当時の繊維の世界の人たちではなかったのかなあと思う。

国というレベルは無常で、貧農からも吸い上げるばかりで、食べるものすらも吸い上げるようなことして見殺しが当り前の時代に、同様に貧農の足下をみれば国と同様に吸い上げることも可能だったろうけども、それをしないで3年で家が建てられるような待遇。すごいチャンスを提供したのだけども、それが一番悪いことのように、世界遺産の富岡製糸工場につながる。良家のご子息に好待遇でまともなものができるのかというと、貧農の娘さんの作るものの方が覚悟もあるので、当たり前に品質も高く、吸い上げたお金から偽善というのは、日本の政治の歴史そのもので、搾取そのもので、国際的なSDGsですらも、搾取の典型になってないのかと思ってしまうのが、末端で先進国日本で働いても、地元の金融機関に一番駄目な企業ですよとか、日本の行政の専門家派遣の専門家でも返してから文句言いなさいと、行政を含めたトリックで本気な人をカネを吸い上げたいだけの金融機関的なSDGsを経験しているのが林与。社交辞令の世界でやってるけども、世界的なSDGsがまったく本気な日本人ですらも一番駄目と烙印を押してくださる、数字だけしか見てませんな日本の金儲け主義的なSDGsで、金儲けに浮かれた人たちがSDGsで、それになびくだけの繊維業界の人たちを食い物にしてどうするの?世界の中で日本が一番くらいにやばい世界で、日本の金儲け主義な政治が牛耳る日本社会は国家として末路すぎる。一生懸命な日本人を利用して食い物にして謳いを謳って食いつぶしてるだけなら正直に金儲けがすべてというトランプさんの方が日本の環境ビジネスよりもマシ。
2023年06月24日
可能性が残っているときにはあきらめないで精一杯やってみることが大事だろうと思う。そんな局面を何十回も経験をしている。

ミラノウニカの展示会の朝も、1週間ほどの留守の間、他のものが仕事が出来るように準備をしてうまくいかず、電車を2本遅らせることに、その2本目の電車から関空特急はるかに京都で乗り換えないといけないのだけども、その距離が遠すぎて、荷物も多すぎたので、はるかがさようなら。これ、飛行機に乗り遅れると、空港で当日のチケットを購入しても最短でミラノ到着が展示会初日の昼頃。展示会の初日に穴を開けてしまうことになる。

京都駅で新幹線の窓口の駅員に新幹線で新大阪乗り換えなら間に合うか尋ねてみると無理といわれるが、それでも、やれるだけのことはやってみようと新幹線に乗って新大阪に向かう。そしたら新大阪についた新幹線から、なんとさっきのはるかが出発がやや遅れて止まっているのが見えて、新幹線をおりてはるかに乗れた。本当に奇跡的だったけども、関空でも猛ダッシュでチェックインがなんとかできて、予定していた飛行機に乗ることができた。その時は私一人だったからそういうのもできたけども、他従業員と一緒だったら逆に絶対にそこまでの無理はしなかったろうと思うが。

可能性に掛けるということは本当に大事だろうと思う。理論的には難しいとが現実的には難しいとかのことでも、奇跡的に成り立つようなことは多い、林与がシャトル織機を入れ戻したときにも、別の工場では高度な織物を織れていたシャトル織機だったのに、移設して経糸を繋いで織ろうとしても経糸が着れて切れて織れない。その時も2週間で60縦のストールサンプルを作る話で、普通だと絶対に無理なんだけども、その状態で、2週間ほとんど寝ずに仕事して、最後東京まで持ち込んでお客さんの展示会には間に合った。

で、サンプルはなんとか無理やり織ったけども本生産はどうする? シャトル織機の職人さんもいては下さったけども、原因は分からないということ。私が原因を見つけるしかないのである。自分自身が経験のなかったシャトル織機を寝ずに触って2週間。10台のうち1台だけ調子よく織れた織機があって、なぜその台は織れるのだろうかと考えることにした。そうしたらその織機にだけ、他の織機にない棒が一本ついている。そしてその棒の働きを考える、この棒が経糸のテンションを管理しているような気がして、職人さんに尋ねてみると関係ないという答え、でも、さらにありえない質問を聞いてみる他の織機に最初付いていなかったですかと?するとついていたと、必要ないから取ったと。その1台だけが固すぎて取れなかったということで、サンプルの60縦のうち半分の30縦はその1台でこなした、そして織れない原因も分かった。首の皮一枚で救われた世界。

未体験のことでもまったくわからなくても、やってみることは大事で、分からないことは尋ねてそれでも分からないといわれたら自分で考えて解決してゆくことが大事。似たようなことが別の場所でもあって、動かないシャトル織機を動くようにしたときも、その織機をいくら調整しても経糸の高さが織れる高さに落ち着かない。そこでおかしい、1台手つかずでリペイントされていなかった織機があったのでそれを見るとテンプルがついている。まさか、リペイントしたときにテンプルを外して、それをつけ忘れているのではないかと想像。するとやっぱりテンプルが出て来てそれを付けたら安定して織れるようになった。

私自身が仕事しているときに、問題の一番は作業している人が何をしたかが問題の原因であることが8割9割。目の前の織機の問題を解決しようとして目の前の織機をいくら調整しても動かないも普通にあって、そういうときに、可能性として、すごく失礼だけども、作業した人に原因があるのを疑ったりする。普通のサラリーマンの人は、他人は他人なのでそこまではしないのだけども、作業している人というのは分からないままに作業していることも多く、できないはできないで終わってしまうことが多い。

普通の織物を織っているときには問題にならないことが、切れやすい細番手の麻糸を織るときには問題になることが多く、それをクリアしないと、細番手の麻織物を織るのは難しいということになる。林与も私自身が自分で経験者の人たちの諦めることや解決できない問題を解決する立場でいつも仕事してきたから、私自身は麻織物全般に関する問題を解決するのが仕事で、他の人が出来る時には他の人に任せるが、他の人ができないとあきらめたことを出来るようにしたり。新しいものを生み出して行くときにはそういう力が必要だったりする。

同じことでも、やる人によってできるできないは変わって来る。Aという人がやればプラスでも、Bという人がやればマイナス。Aという人がなぜ仕事ができるのか、結果が出せるのかは、可能性があるときにとことんそれを追い求めるからというあたり、もちろん、可能性があっても出来ないこともあるけども、その可能性を追い求める努力というのは普段の仕事の深さにつながって来きて、なんでも理解してて上手にでき、一回勝負に強い。自分ができないことを他の人ができたりすると私はすごいなあと思う。超えている人というのは超えていたりするのが繊維の世界にもあって、そういう人の力の超えた要素がないと普通ではなかなか繊維の世界では難しいだろうと思う。

ある仕事で、何種類ものの布を合わせて作る製品があって、一番表の布に林与のリネンが使われた。洗うとそのリネンの表面に硬いしこりのような問題が起こるということで、その製品を送ってもらって洗うと確かにその問題が再現される。製品を作っておられる方は大騒ぎされるのだけども、林与は自分のつくる布には普通に見える布でも私自身が手掛ける布にはそれなりの自信があって、検査数値とかそういうのじゃなくて、それを上回る実用性の面で、日本の麻業界の定番的に何十年も愛されてきた布を生み出して作ってきたのが林与。良いモノづくりをしてきたとされる先代に対しても、すごく厳しい評価なのが私だったりして、金満に浮かれた世界が本当に嫌いで、ラベルとかじゃなくて本質が大事で、実際にものごとを他の人に解決してもらうじゃなくて自分自身が解決している人たちが報われないと、海外依存の今の自分たちがものをつくる覚悟もない日本のものづくりになってしまう。

ものづくりに研究家や専門家なんて本当に必要なくて、実際に自分が覚悟決めて仕事している人たちを評価しないと、日本のものづくりも、研究家や専門家レベルの浅さや薄さで、実際のものづくりも分からずに終わってしまって消えゆく流れ。日本のブランドや百貨店が、研究家や専門家を持ち上げてありえない話で消費者騙しになってしまうのは駄目なんじゃないのかと。近代麻布研究家が、明治以降の近代麻布の世界を作り上げてきた林与のことも知らないとか、その人の消費者騙しの大風呂敷に問題提起しているのに、初対面で、おたく誰ですかといわれた経験。もぐり研究家が日本の麻業界を仕切ろうとしても本当に何も生まれないどころか害になる。そういう人の人脈が怪しくて日本の大麻文化を謳いつつ、違法大麻栽培、大麻吸引の輩を持ち上げて島根県の問題。日本神道も絡む問題でしかも、昭和村も絡む問題で、人というのが見えず、浮かれてやると大麻の違法栽培家を持ち上げてしまうような、にわか麻研究家。

私がその方に麻の良いものは、こういうものですよと、日本の紡績会社の何十年か昔のラミーの自分の持っていたハンカチを1枚プレゼントした(林与の織ったものでもないけどそれは記念品用に特別に作られた業界の人にも認められる世界最高峰レベルのラミーの一品で、林与はそういうのと昔から接しているから最高峰クラスといわれる麻のものづくりが日本にあったのも分かる)。日本の近代麻布研究家を名乗る人でも日本の麻業界のレベルとも違いすぎて、スポンサーが降りたらやめるだけとかは、サラリーマンレベルの話に日本全国の麻愛好家が騙されてしまう話では、百貨店やブランドを信じた消費者もかわいそうすぎ。これ本当にある裏の話で、初対面で仕事に対する覚悟もない人が消費者の本気を支えようとする気持ちをスポンサーが降りたらやめるだけとか、林与にほざいたので、大きな謳いのことやりたいなら人生投げだす覚悟でやらんと駄目ですよというけど。自分は1000万は損したみたいな話でそれ以上は無理とかで、自分可愛さでは駄目じゃないのかなあと、私よりも20歳くらい上だろう人に、実際の経験もなくものごと分かっていない学生さんに麻布のことを説明すると同じような現実。日本の繊維業界が大事にしてきた価値感さえも失われたような部分がそういうところにある。徐福ってご存じですかと聞いても、文献や記録にないことをいっても無理だとか私に言われるが、それはほんと研究家としても難しい。
2023年06月22日
卑弥呼は神功皇后ではないかという説があるが、今は通説とはされていないが、多分、それが歴史的事実なんだろうなあと思う。江戸時代までは卑弥呼は神功皇后であったとされているが、国学者の本居宣長も卑弥呼は神功皇后であるとしていた。明治になって卑弥呼が別にいたほうがよいような事情が出て来たのだろうと思う。中国の魏志倭人伝で、卑弥呼というような蔑称で記録が残っているのも、日皇女というような記載だったら、別の存在は必要なかったかもしれない。文字を読めなかった江戸時代と、文字を読み書きできるようになった明治時代とでは、事情が異なってきたのかもしれない。

皇后が巫女としての役割を果たすというのも理に叶ったことで、弥呼(ミコ)というのは、巫女を指し、皇女もミコと読む。日皇女とは、日本の女王という意味になるのだろう。幡神として、知られている神功皇后ではあり、地元の豊満神社も幡神の言い伝えが残っている。本居宣長は、邪馬台国をヤマトコクと読んだということで、邪馬台国をヤマタイコクと読まないといけない事情も明治になって、同じような理由であったのだろう。国民に邪馬台国と呼ばれていたものが大和朝廷の歴史では示しがつかない。

魏志倭人伝のような文献に残ってしまっていて消し去ることもできないし、別物として存在させる方向で、日本の歴史とした可能性もある。幡神の旗は、秦、機、幡、畑など共通のものであり、秦の始皇帝の時代の渡来したものたちが秦氏を形成した。五穀と同様に織物の文化も、秦の時代の最先端の織物を徐福一行が持ち込んだと思われる。日本の古来のたたら製鉄の技術も、徐福一行の職工たちのうちに含まれていたであろうと。

アサの語源がヌサであるというのも、奴佐であろうとされるところも興味深いところで、中国への献上品を、中国が奴佐と読んだことで、その代表的なものだった麻の繊維がヌサと呼ばれるようになって、日本神道では、「幣」という漢字が当てられたのだろう。日本は本来、大麻の麻もオと呼んだのである。苧と同じ。神道の貢物が大麻だったので、大麻はアサ、ヌサと呼ばれる。幣にするには大麻がいい太さだろう。アラタエ、ニギタエも本来は、妙で、織物ではなかったであろう。打綿して妙状にしたものを指したであろう。それには絹や大麻が適切である。逆に苧麻は繊維がしっかりとしているので、打面してもフェルト化はしにくい。のちに織物になってからは、アラタエには大麻だけでなく苧麻も使われたであろうと思う。打綿したものは妙、織ったものは布という。ヌノというのは、縫うというのとオを掛け合わせたもので、ヌウオが布であるという説がある。もともと地機というのは、腰機のことではなくて、地面に縦糸であるオを水平に張って、それを横糸のオで縫うようにして織ったものが織物の始まりであろう。アンギンという経糸を掛けるようにして横糸を縫って作る方法も古代の織物の技法のひとつだが、垂直に経糸を張るのと水平に糸を張るのとの違いがある。昭和の時代までは、稲の藁ですらもが繊維として大活躍していた。藁を編んで草履をつくったり、傘や蓑をつくったり、傘子地蔵の世界からすれば、繊維というものは人の手作業から生まれるもの。

アラタエの鹿服みたいに書いて、アラタエと読むのがあるけども、あれは、木を三つ並べて森という字のように、鹿を3つ使って粗いという意味の漢字から来ている。粗という字の美称が、鹿が散らばっている様を表す、アラタエなのである。アラタエが本来は、鹿の皮だったという説には疑問を感じる。

なぜ、日本の神道で大麻を供えるのだろうか、そこに徐福の存在を感じるのである。徐福は7年間インドに留学して、ガンジス川などにももちろん行って、ヒンズー教では神の草と呼ばれる大麻文化に触れただろう。またアショカ王の仏教にも触れただろう。持ち込んだ五穀の一つが大麻だった可能性も高い。というのも、中国の大麻もかなり無毒化された大麻で、日本の大麻も中国から持ち込まれた可能性が高いのである。それでも多少の毒性は残っており、神事などの占いで、燃やした煙を吸うことで麻酔し、巫女が陶酔したような状態で口からこぼれる言葉が占いとなったのであろう。また、インドの寺院の鳥居なども、日本神道の鳥居の起源ではないかと思われるのである。
2023年06月21日
国連のSDGSの動きにしても、善意を利用して金集めに思えるのが残念で、繊維の底辺の覚悟もない環境家とかもトランプさんと同じ儲けレベルにしか思えない。地球を救うためにとか自分が何をやっているのかというのが大事で、扇動家よりも、実際に地道に底辺を覚悟で働いている人のほうが地球環境に役立つのは当たり前。

ある会合で、心配されていたのがドレスコード、林与を誘った人が林与がドレスコードを守るかどうか、別にドレスコードなんて大事じゃないんですというおのが林与の考え方で、ドレスコードにこだわっている時点で、人間としては浅い。服飾の世界にいながらも服飾の世界を支えるためにはドレスコードなんてこだわってたら、江戸時代レベル。

ドレスコードに自分自身がまったくこだわらない林与が、麻織物の世界の最高峰を生み出したいと思っているのが現実で、そういうのが超えた世界だと思う。ほんと人という要素が一番大事で、人という要素を無視して華やかなだけの世界というのはラベルだけで憧れるだけの世界。私自身は、本質志向で、表面的なものには憧れは感じなく、人の内面的なものに魅力を感じ、それがアーティスト感覚だろうし超えたような世界に通じる。人生観や物事に対する価値観が異なれば混じらないほうが良いことも多く混じって薄まってしまうようなことになると面白くないだろうと思える。

普段のビジネス感覚とはまったく違う感覚があるから、特別なものが作れるというのもあったりして、それがなかなか難しくなっているのも今時の話だけども、普通のビジネス感覚に陥りがち。星野新一という作家がいて、恐竜の話が合って、子供たちが恐竜に憧れて近寄るも恐竜は恐竜で子供たちを襲う話。林与が麻織物の専門家たちをそれ本当なのと襲うことも多い。オーガニックやエシカルな人を襲うことも多い。違いは私が本当に作業もしていて限界にしてもすべてわかっているから見たいなところ。オーガニックやエシカル思想っが、階級社会的になるとそれはミイラ取りがミイラになったような状態で、人々の面倒を見たくもない人たちが実際に地道な作業している人たちを仕切ろうとしてボタンの掛け違えが始まる。さらなる重荷が現場には増えて、コットンにポリエステル混ぜたものをオーガニックとか謳い始めたらもう繊維の基本の価値感すらも壊してしまって、どこがサステイナブルなんだろう。

20代の仕事経験1年2年で織物のアドバイザーの人にであったけども、j実際に仕事しているから、その方よりも当たり前に織物の知識があったりもして、その人ができないことでも難しいことでも私が普通に実践して麻布の特別な世界をつくりあげていたというだけのこと。織物アドバイザーとか専門家のレベルでは普通に仕事もまったく難しい話が、日本の繊維業界の難しさにもつながる。

何よりも地力みたいなものが必要で、ひと世代前の昭和の時代の人でも今の時代に繊維の業界は難しい、今の人が日本の繊維業界で動いていこうとすれば、その時代の人を超えた力がないと難しいだろう。サステイナブルの世界にしても、本質的なものを失って右往左往しているような状態で、今ではデニムが水を使うということで駄目なもののように言われるけどもまだ自然に返るだけましだろうと思う。サステイナブルの扇動家たちは結論として、再生ポリエステルは再生ポリエステルとして服を作ればよいだろうと思う。綿100%なら産業廃棄もまだ簡単だが、再生ポリエステルを綿に混ぜた糸を作るだけで、それはもうややこしい産業廃棄物扱いになる。服にしても同じことなのである。

TCと呼ばれるコットンポリエステルは、機能的には悪くない。でもオーガニックだと謳いたいような人がいるというのが不思議で、オーガニックを謳い始めた最初の考え方すらも商業主義にながされて消えてしまっているのが今のオーガニックの専門家たちの世界だったりして、ポリエステルの相手のオーガニックコットンもどこまでオーガニックなのかも今は努力目標的で実際は敵対している遺伝子組み換えコットンである可能性も高くなってしまっている。ラベルが独り歩きし始めているようなビジネスとなって、オーガニックの中での価格競争とか、オーガニックの実態もだんだんと熊本のあさりに近づいてきてしまっている。オーガニックの理想を求める消費者が、オーガニックの謳いの嘘に騙されないことも大事な局面になってくると、オーガニックよりも普通のコットンやたとえ遺伝子組み換えであろうが正直で、オーガニックやエシカルや既存の繊維業界の概念に則しているのではないかと思えたりもする。ドイツであったクリーンディーゼル偽装とオーガニックの行く末が被るようなところがある。オーガニックコットンでは、敵対していたモサント社も、今はバイエルン傘下、オーガニックの世界もあれほど遺伝子組み換えにはNOだったのに、もうNOとは言えなくなってしまうんではないだろうか。

オーガニックにしても自然農法に近い概念だったはずが、もはや自然農法とはかけ離れて、有機肥料使用でとか、殺虫剤不使用、枯葉剤不使用とか、レギュレーションに縛られて、虫のいるような地域ではオーガニックが難しくなり、砂漠地でスプリンクラーや点滴給水とか、栽培そのものの環境すら虫のいないような環境に持ち込まれて、別の無理やりな技術で、資本主義そのものだが、そういうものが自然農法的な小規模のハンドピックされる本来のオーガニックコットンを淘汰してゆくことになる。

まだ、ハンドピックしていた人たちが、トラクターに乗って産業が近代化するみたいなモデルだとまだサステイナブル的で良いのかもしれないが、別の地域で新しい産業としてお金のある人たちが金儲けのためのビジネスとしてそういうレギュレーションだよりにやってしまうと、カネのある人たちのためのオーガニックビジネスと成り果てる。アイロニーちっくな話だが、地球温暖化で地球全体が砂漠化すれば、雨も降らず、虫もいなく、水を止めれば枯れてしまうから、全世界でコットンのオーガニック栽培がしやすくなるのかもしれない。旧来の人たちの生業を守ることこそが大事だったはずなのに、なぜかオーガニックやエシカルを謳いながら、過当競争まで引き起こして自分たちは立ち上がりますと謳いながら販売をしていても、問題が起こればリソーサーから仕入れいているだけとかが販売している人の現実話で、衣料販売が不振になれば商品企画チームの3分の2を入れ替えとか、どこがエシカル?サステイナブルの考えがあるのか?大企業にありがちなカネ至上主義でオーガニックやエシカル、サステイナブルは語ってほしくないが、そういうのがこの10年ほど日本で流れるオーガニック製品のシェアの多くを占めて来た。

一方、オーガニックやっておられる方で、オーガニックは過酷だというのを認識されている方がおられる。ほんとそういう人というのは末端の人の気持ち分かって無理しないとオーガニックの概念は支えられないということを知っておられる。繊維の普通の仕事も同じことで、それを手を抜いて楽にしていこうとすると、もう繊維の仕事自体を続けていくこと自体が難しい話になる。
2023年06月21日
仕事の考え方というのが異なれば、扱うものも変わって来るし、扱うものに対する感覚も変わって来る。また、企画に対しても企画方法や企画の目的も変わって来る。また、物事に通じていないと仕事というものがお金だけのところに終わってしまって儲からないからやらないみたいな話ではなくて、価値のあることならやってみてやっただけの価値を自分で生み出して行くというのが大事だろうと思うのが林与の考え方。

価値のあることだと思ってやってみても、うまく行かないこともあるだろうけども、やってみたいと思うことがあるならやってみて失敗してみるのも大事な経験だったりもする。あるプロジェクトがあって、協力を求めていただいたのだけども、物事というのはそれが深いことなら、広げすぎては駄目で、覚悟している人たちだけが、覚悟決めて突き進んだ方が良いように思うことは多い。

物事は深く追求すればするほどついてくることは難しくなって、麻織物や麻の世界も深さのレベルで、関われる人の度合いが変わってきてしまう。昨日、富士吉田で活躍中の流しの洋裁人原田陽子さんからお電話いただいた。徐福の話をしたら、陽子さんも知ってられて、さすがやなあ。近代麻布研究家の方に徐福といってもまったく話が通じないのと比べると、すこし織物の歴史をしれば徐福のことは当たり前につきあたり、それが日本の弥生時代以降の歴史につながって来る。服飾の歴史の先生だった方も徐福の話をするとそれなりに知っておられた。なぜ、近代麻布研究家の方が徐福をご存じなかったのかが本当に不思議なところ。文献が大事だとか私に言われたけども、徐福というのは日本では知られていないかもしれないが実在した人物で中国のいくつもの文献に登場する人物。実在の天皇といわれる神武天皇である可能性も高く、林与はそうだろうと思っている。それが邪馬台国や卑弥呼の謎を解くカギにもつながる。
2023年06月17日
昨日は、金曜日で夕方、手織り小学生くらいの子供さんが体験してくださった。すごく興味を持ってもらえて、すぐに上手に一人で織れるように、手織り体験を担当したものがまた明日織りに来ますみたいことを言ってもらえたそう。織機というものを稀にみることはあっても、手織りを体験したくてもなかなか体験できないシチュエーションってあるかと思う。ときめくようなものを織物に感じてもらえるというのはすごくうれしい。手織りを経験したことのない人が、織機をみているともやもやとしたものがあると思う、でも実際に織ってみるとどうやって織るのかが分かる、自転車に乗るよりも簡単に、そのもやもやや苦手意識みたいなものが消える。

手織り体験は、誰でも楽しめると思うし、やってみると想像以上に簡単で初めてでも最初からきれいに織れる。耳を手で揃えておるような本格的な織り方というのはまた別にあるとは思うけども、そういう主旨ではなくて、手織りを体験して実際に織物を織ってもらうというのが主旨。楽器を演奏するよりも何倍も簡単で、その場で最初から織物が織れたということを実感してもらえる。

こういうのをひとつのきっかけに織物に興味を持ってもらって、織物を楽しむ人が増えて織物を織る人が増えたらなあと思う。私自身は織物に親しんでもらうことを広めたいなあと考えている。織物をはじめて織るきっかけを多くの方に提供できればと思っていて、興味のあられる方は自分で織機を手に入れて家で織ってもらったらよいだろうし、見つけることは難しいかもしれないけども織物教室に通われるも良いだろうと思う。ミシンよりも簡単だろうと思う。

テキスタイルマルシェで織物を探してくださる方は多いけども実際に織物を織るということも経験してもらいたいなあと思って、今回、無料手織り織物体験コーナーを実現させてもらった。8月には米原の長栄座のイベントでの手織り体験コーナー、9月にはおおさかてづくりフェスタでの手織り体験コーナー。多くの方に織物を織るを体験してもらい、布をつくるを身近に感じてもらいたい。
2023年06月10日
自分が経験を積むためには行動力というのは非常に大事で、行動力というのが他の人にものごとをしてもらうを求めるでなく、自分が背負って物事を回していくような覚悟みたいなもの。ものづくりするときに誰が覚悟して在庫を積んだりお金を使ったりするのかが大事で、そういう覚悟のあるお客さんとは仕事は精神面では同じような気持ちで仕事しているのでありがたくやりやすい。

今、商社や問屋さん関係の仕事はほとんど受けることなく、自分自身が生地を買って在庫を持てるようなお客さんとの仕事の話が多い。間に入られる方が、動ける方なら間に入ってもらって問題がないけども、動かそうとするような方が間に入られると入っていただく意味もなかったりする。

今も不思議に思うのが、数年前に刺繍の案件で、あるコンバーター業をしたい方から相談があって、林与が取り引きしているさきから仕事をもらったのだけど、自分が経験がないので教えてほしいといわれるけども、教えても動こうともされず、サンプル作るのにも刺繍屋さんにお金を払うつもりもなく、自分が間に入るだけで企画を引き受けて、自分が食べていこうとされている。でも、なぜメーカーもそんな覚悟もない方たちに自分たちの大事な仕事の企画を宿題を与えるのかという問題。その素人のような人が実際にお金を使って試作など動いた時にはその人の月給くらいは普通に消えるだろうけど、1度で満足のいくものになる確率も低い。出し惜しみしてたら2度3度叩いてみるは無理だろう。

覚悟のないものが軽い気持ちで企画してもまともなものづくりにはつながらず、覚悟した人たちだけが集まってものづくりを進めていくべきで、たとえばそういう繊維業界の現場の意味すら分かっていない問屋さんの人に、現場の経験をしてみられたらどうですかというのが林与。その気持ちもなく自分が仕事を企画しようとかは本当に難しい話。そういうときに本当によいのですかと数日とことんの自分のために経験をしてみるような方なら本物。それが続いたらプロとして残れるということ。

一度のチャンスを生かすかどうかで適正なアドバイスをしても一向に動かれない、それで、もっと教えてとか自分が動かないと駄目なのにダメもとでも刺繍工場に自分がアプローチして試作をお願いしたらどうなのかと思うけど、それ自体が難しい状況で自分の宿題を他の方に解決してもらおうとされていたり、自分の宿題を他の人に頼むときには、他の人というのは普通に覚悟してお金も使って仕事の答えを導き出している。そういうのから今の問屋業の方のには期待できなくなった。

刺繍工場に迷惑を掛けてしまうだけなので刺繍工場を紹介することすらもできないような話だし、たぶん、宿題を出されたメーカーもその問屋さんにお金を払うつもりもないだろうし、その問屋さんもお金を使って試作をする気もないだろう、試作するお金の話すら一切ないのがメーカーと問屋さんの企画話で、誰の責任の企画なのかすらも分からないような状態。そういう感じの企画というのは、いい感じのものが出来たとしても、コストが合わないとかで流れることも多く、一番動いてもらう刺繍工場にも大きな迷惑を掛けることになる。
2023年06月10日
今、リニアモーターカーの開通に向けて工事が行われているが、リニアモーターカーが開通したときには東海道新幹線はどうなるのだろう。東京大阪間の利用客が半減するような可能性すらある。というのも半減するくらいでないとリニアモーターカーも成り立たないであろうから。新幹線も利用客が減ったときには、本数を半減するような形になってくるであろう。利用客が少なくなると成り立たなくなるので新幹線は値上げされ、さらに利用客は減って、新幹線は将来的には消えて行くような運命なんだろうか。リニアの料金も東京大阪で1000円程度高くなるくらいが想定のようである。

リニアというのは原子力発電所が2つ分の電力を使うということで、新規に原子力発電所をつくる必要も出てくるだろう。500kmで走る想定のリニアというのは、300km想定の新幹線の4倍くらいの一人1kmあたりの消費電力のようで、今のように夏場に電力不足が懸念されることが多くなった状況では、新たに1基から2基の原子力発電所の建設が必要になってくるだろう。

リニアモーターカーの話は、私が小学生のころから未来の技術として、もう50年以上は開発が行われてきた。当時の日本というのは土地神話みたいなものがあって高度成長が続いていて、そういうなかでリニアモーターカーも近い将来の技術として始められた経緯がある。少子化の財政負担も難しくなった今の日本、取り巻く環境は変わってしまったが、計画は7年とか8年後の実現に向けて動いている。

リニアの開通が終わったら新幹線を廃止するみたいなことが簡単なら問題も少ないのだろうけども、リニアと新幹線を共存させてとかはJRにとっても負担でしかないだろうと思う。今、コロナで在宅ワークなど増えて、東京に本社ビルなども必要がなくなった企業なども多く、50年前よりは、商談にしても顔を合わせて行う必要も少なくなった。スマフォでビデオ通話ができたり会議ができたりと、ビジネスでの出張というものも絶対に必要なものでもなくなってしまった。

中国の上海では2003年あたりからリニアモーターカーが時速400kmで商業運転されていて、それが中国全土に広がるのかと思えば、日本の新幹線が技術提供され中国で走っているような状況。中国はリニアモーターカーから新幹線へ。日本は新幹線からリニアモーターカーへ。
2023年06月09日
テキスタイルマルシェというグループで百貨店でのイベントなどに出展させていただいているのだけども、このテキスタイルマルシェという活動は、行動派そのものな人たちの集まりで、その場でどうやったら自分たちの作ったものが売れるだろうかとか、売るため努力に対しても自由度が高い。

林与が、阪急梅田本店でのテキスタイルマルシェに参加したときに、生地を売るだけでなく、リネンのはぎれキッチンクロスをワゴンで売ろうと思いたった。林与の一般のお客様のイメージがリネンキッチンクロスだったりするのもそういう機会をいただけたりするからのところもある。林与の正規のキッチンクロスというのは大きさも決めていて私なりに難のない一級品で、その一方では、糸ムラや生成りの色ムラなどをはじくとはぎれがたくさんできるけども、それを自分自身でどう活用するか、しかも、それは自分の参加するイベントが盛り上がるような楽しみ。

イベントに参加するときに自分自身が考えていることをできるかぎりやってみようと思う人でないとイベントへの参加も業務的に終わってしまう。それが本当に残念なことで、業務的な感覚というのを超えたあたりにお客様の評価があったりもするから、私が思うに、商業的な日本の繊維業界よりも、日本の繊維業界を盛り上げるためのイベントとして、普通では手に入らないレベルの高い物や面白いものを自分たちで提案してゆくというのが、自分が日本でモノづくりしている意義ではないのかと思う。

損得ベースで良ければ、より安くつくれるところを探してそれを仕入れて売るとか、でも、そればかりじゃないのを経験したのが、ストールの件で、海外だと1枚200円でリネンのストールが手に入ったときに、それはたしかにリネン100%のストールだけども、そのストールを見ても、リネン100%のストールという世界。

私自身はリネンストールについて考えてみたい所から始まる。リネンストールとはどんなものが求められるのか理想なのか、私自身、何千メートル以上の生地を自分で加工してみて、たどり着いたのが柔らかリネンストール。それは、海外のリネンストールがすごいということでリネンじゃなく、たぶんポリエステルなストールを見せてもらったことに始まる。リネン100%のタグが付いていても、これは明らかにリネンじゃないと糸ムラすらもないこと、糸をほぐすとふわっと綺麗に繊維が分解、普通考えたらポリエステルなんじゃないですかみたいな。でも、そこでとまらずにリネン100%でそれ以上に柔らかで高級感のある実際にお金の掛かった正直な日本のものづくりでリネン100%のストールを作ろうと動いて、林与のリネンストールというのは一つの世界レベル的なくらいに海外でも評価が高かった。

展示会に出展されている海外の繊維業界の方が展示会のお土産に林与のリネンストールを自分や自分のお土産に買ってくださる。林与のブースに来られた海外のデザイナーの方も、ドキッと驚かれるのがその世界で、日本の繊維業界が繊維の世界で一番っぽいものを作っていないと、繊維業界が成熟した日本市場では成り立ちえない。一般的な商業感覚になればつくるものががらりと変わって普通を追って終わるだけの話。

近代麻布研究家の方も、スポンサーが降りたら、大麻の企画も辞めるだけとか私にいわれるけど、もっと覚悟決めて気持ちもってやらないと麻織物の世界というのは世代を超えた、人々の生活を支えるようなところから来ていて、地道な作業で生み出してきたようなものごと。実際に自分でやっているとものごとが見えてくることが多く、普通のものと良いものの差もものをみる目という要素。

国産の麻織物の200番手を超えるといわれるラミハラのハンカチ1枚をその専門家の方にもプレゼントしたけど、60番手くらいの大麻織物が最高級といわれているのが日本の麻織物の専門家のかた、でも本当に難しい話。それは本当に今の商業的な100番クラスの麻織物のほうが高級な世界。麻織物に対する覚悟の違いで、麻織物というのは世界的には、100番超えていたのが手織りの世界で200番超えすらもあったのが事実。

なぜ麻織物の歴史的な解釈をゆがめるのかすらも疑問すぎるようなところ。なんで60番手クラスの今の時代にどこでもつくれるようなものが江戸時代の最高級の麻織物なのだろうか。昔、地元の組合に展示されていた商家の帷子のほうが、濃紺で絣におられ見た瞬間に超えたクラスの物と分かるものだった。昔の良い麻という感覚は柔らかいとかじゃなくて、最後糊をうってパリっと仕上げるのが大事だったりした。今の時代の感覚で、柔らかい麻が心地よいというのはすごく現代的な解釈で、着物の世界の寸胴的な美をつくるためには硬さやハリが大事だったのである。帷子にしても100年以上の時代を超えて芯のあるようなしっかりとした繊維というのが大事な要素で、それが代々伝わるような布。今の時代だと制服なんかにも昔の人の感覚の名残があって、学生服が軍服的で首の部分にカラーという部分があったりとか。明治の軍人的な流れの名残なのだろう。

昔、麻に求められたのはハリ感やシャリ感だったりして、綿ライクなやわらかいものというのは安物という今の時代の感覚とは逆だったりした。その背景には、普段身に着けるものが藁草履とか、蓑とか、もう、藁ですらも衣類な世界。昔の人というのは肌の強さとかがまったく違った。麻のものが洗濯やくたびれて柔らかくなってきたときには、仕上げ糊を打ってしっかりとさせるのが昔の上等の感覚。

2023年06月09日
仕事で突然わいたような良い話に協力してほしいとかいうことがあって、新規にお店を出店するとか、新しい商品があと1か月で必要みたいな、そういうのに関わるとダメージが大きいことが多い。まったく準備ができていないのを生地だけでなく、オリジナル商品開発まで林与がするみたいな。関わるとコスト的に無理納期的に無理な話が独り歩きし始める。

これと似たようなのがこれからブランドを立ち上げたい人が、事業をはじめようとするとき、ブランドを立ち上げようとするとイメージだけであとは頼めばものができあがると思っておられる方が多く、開発する商品それぞれに対するものづくりの基本や知識みたいなことをデザイナーの人が持って、資金も用意しておかないとならないのだけども、こんなことをしたいという夢だけでいろんなところを回られていても頼み込んで一つのものをつくることができたとしても、それを小ロットで生産するのはマイナスでしかないし、ブランドの一番大変なところを縫製工場や素材メーカーに代わりに持ってもらおうと思っておられるあたりが、仕事感覚が全然違ったりする。

ブランドを立ち上げる方々にしても素材に対する知識というものは必要で、お客さんに商品説明をするときや洗濯方法など、縫製工場や織物工場が責任を持つ話でもないのである。商品開発の商品企画という部分に含まれる企画要素で、商品開発の際には十分な商品テストも必要で、いろんなテストをやっていないと大きな問題が起こることになりかねない。あまりにも、製品に関しての知識がないと思う時には、普通の市販生地を使われた方が無難ですよと助言することもある。

間に問屋さんのような業者が入られるともっとややこしいことになりがちで、そんなの当たり前のことやんと思うことを、クレームとして解決してほしいと連絡があったりする。たとえば、手もみの生地をクリーニング屋さんがアイロンがけでシワを伸ばしてしまったとか、洗えば少しはもとにしわが戻るだろうけども、一旦蒸気できれいにシボを伸ばしてしまうと、水洗いして干しても手もみのシボが元と同じくらいに回復することはない。そういうのを情けででも引き受けたりすると、今度は鬼の首を取ったかのように、何度ももうちょっと直してほしいとか、となる。

商品開発をする人には、自分で作ってみて使ってみて、よく自分のつくったものを理解してから販売してもらうことが大事で、それをやっていないと大きな見落としが普通にあったりすることも多い。自分自身で縫製などをされているデザイナーの方というのは、いろんな問題を理解されていることも多く、そういう問題を商品開発の時に検討の上でものごとが進む。

問題がありそうになるとドライ指定にして解決されようとするところがある。ドライ指定にしてもクリーニング業者が失敗しない様な誘導をしないと、クリーニング業者で働いている人にしてもアルバイトやパートの人が多く、クリーニングの投入前の状態を知らない人たちが仕上げするのである。問題が起きないことのほうがおかしい想定だけども、それだと保険や補償が降りたりして、お客さんとクリーニング屋さんとの間の問題として解決してくださいみたいなことになるのだろう。いわゆるデメリット表示でどこまで逃げるのかみたいな、そういうのからしても、3cm角もないラベルに、読むこともできないような小さな文字で何行にもわたる注意書き。ISO式の絵表示の変更で余計にトラブルは多くなっただろうと思われる。

そういう想定からして、タンブラー乾燥するのかしないのかで大きく絵表示を付けている意味すらも変わって来る。家に洗濯機がなくとか干す想定が無い人は、タンブラー乾燥不可の洋服を買うことが難しくなるのである。平成28年の改定で、タンブラー乾燥が加わって、そういう洗い方を普通にコインランドリーでするのは分かるけども、水洗いで釣り干し想定の製品はどうするんだろうと思う。あまりにも、ケアが異なりすぎて一つの家の家庭洗濯が二通りに分かれて難しい話。
2023年06月09日
時代は繰り返されるようなところがあって、今またバブルを感じるのは金儲け話で人間関係をつくりたい人たちが増えているということ。YOUTUBEで、お金儲けのヒントの本を無料で進呈するようなことをすごいことのように謳うのあったりするけども、お金儲けがすごく上手なひとならその2冊の本が2000円だとしてもそれはすごいとは思えない話だろう。

インフルエンサーになりたいがためのマインドコントロールっぽい、昔マルチビジネスによくあった階層つくりのための手段なんだろうと思う。階層がなければそういうお金儲けのシステムは構築が難しい、自分より下の階層に入ってくれる人たちが増えればそれで自分は安泰になるというメカニズム。それ以上それ未満でもないから、海外の何億もの遺産の権利をあなたに譲るが手続き費用に数千万掛かるというのと同じような話で、すごく、お金を儲けたい人のどうしようもない欲で儲けようとしている人がいたりする。

吸い上げて儲けているのだけども、吸い上げられる人たちというのは自分たちが吸い上げる立場になりたく、関わって吸い上げられるままというのが多い。実はやっかいなのが、自分の欲に打ち勝てなくて吸い上げられる人たち。一旦関わってしまうと本当にやっかいで、それは自分がじゃなくても親がそういうタイプの人だと、親が欲で吸い上げられてそれを子供が背負ってしまうようなことも多い。

日本社会の構造もそれと似たようなところもあって、政治なんかは特にだらしない層にお金をバラまいて、法律を作り上げて、次の世代に負担させるような構造が非常に似ている。ボタンの掛け違えのような法律だけども、その法律に疑問を感じる次の世代がいるうちはまだましだろうけども、へんな法律のせいで、他を食うのに目を光らせているような人が若い人たちに増えてきているように思える。国外から指摘がはいると是正されるようなところなのだけども、国内というのはモラルが働きにくい構造になりつつあって、前の世代が自分たちを背負わせるために次の世代を毒しているような感がある。そういう偏狭な狭い社会にはこだわらず、広い社会で育つべきだろう。
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