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リネンや麻を織る日々をつづっています。
ホームリネン日記2025年7月
2025年7月
リネン日記:5
2025年07月31日
戦時夜中までぶっ通しで作業をしていて、へとへとのヘトヘトで、重い糸を巻いたビームを運んだら倒れてしまって、大きなケガではなかったんだけども、体力の限界まで来ているときに倒れたので、すごく力を使ったようで、太ももがひどい筋肉痛。

横に寝て、起き上がるのも難しいほどに脚の筋肉痛がひどくて、仕事もしないといけないのに、困った状況。立ち仕事が続いているけども、かがんだりすると体を支えられないほどに両太ももが痛む、かがんだりした後に立ち上がることがすごく難しい。

1週間くらいは、この状況が続くだろう。暑さも究極で、体がオーバーヒートしているような感じで、体を冷やすために冷たいお茶や、スポーツドリンクを飲むのだけども、すぐにまた水分が欲しくなる。

昨日は、全国で最高気温を更新した場所が多いらしく、日本の過去最高気温も塗り替えられたそうである。地球温暖化は、多分、地上に日影が亡くなってしまっているからだろうと思う。木々を伐採して、新しい住宅地をつくったり、また、道路を作ったりして、そこに車が走ったりして、車も走るだけでなく、冷房も必要で、エネルギーを放出しまくる。

CO2だけが悪者に言われがちだけども、冷房も地球温暖化には貢献してしまっているだろうし、暑いと冷房を使うことになり、それは悪循環につながる。でも、人類は昔には戻れないだろう、子供の頃から冷房が当り前だと、体が気温に適応が出来なくなる。

普段、冷房に慣れておられるお客さんが林与に来られると、今は事務所の冷房も壊れているので、窓を開けるだけ、部屋で座っているだけでも耐えられないほど暑いと思う。林与の場合、仕事をしていると暑さ寒さを忘れるほどに作業に集中するタイプなので、作業している間というのは作業し続けることができるが、体力は相当消耗してしまっている。
2025年07月11日
京都駅近くの早朝6時に、学生時代によく食べた第一旭のラーメンを食べに入った。昔みたいに年配の人ばかりが働いている店内ではない。学生だった当時は、昭和の中頃の雰囲気を残して気合の入った感じのつくってるおっさんたちというのは、怖い感じもしたものだ。今は、一人は年配で他の人たちは若い店員が5人くらいいる。アルバイトの店員だろうか、昔とはちょっと違うなあと思いながらも、とりあえず、チャーシュー麺の食券を買って、大が食べたかったが大がないみたいで。

本店ってやっぱりチェーン店とは違って、スープは昔からのままちゃんとつくってるのか、肉からでたようなアクっぽい臭みがあって、そういうのがおいしい。壁を見ていると特製ラーメンというのが1080円であるけども、チャーシュー麺と同じやろか。券売機にはチャーシュー麺しかなく、特製ラーメンはなかった。

学生の頃に食べたものを今もおいしいと思えるのっていうのは、幸せなことで。当時はチャーシュー麺は750円くらいやったと思うが、今は1080円。消費税も入って1080円やから、980円くらいで、そんなに値上がりしていない。すごく有名なお店なのに、狭いままで、ああいう食堂っぽいたたずまいを残して俗化していないのがよい。

麺をゆで上げるのは年配の方と一人の若手の方がやっておられて、その若手の方は名店の味を守るのを許可されている重荷みたいなのも分かっている感じ。気軽な気分ではやってないのが伝わって来る、というのも、その70くらいの年配の方が、一番働いていて任せられそうなこともいっぱいあるのに任せないで、一番大事な部分を背負ってられる。任せにくいのだろうし、任せてしまったら終わってしまうのだろう。

隣には新福もあって、新福もこじんまりとしたまま、お店を守っておられる。昔から第一旭も新福も京都では天一の本店と並んで有名なラーメン店だったけども、チェーン展開して日本中に有名になった今も30年以上前のままのたたずまいであることがうれしい。昔からそんな感じで、金儲けとかそんなんじゃなく、ラーメンをつくることに本気な人が守っている。京都のラーメンの老舗の御三家的な本家が質素すぎる家内ビジネス的な佇まい。

メディアは騒いでもそれはうわべだけのことで自分たちは本店であることの自覚みたいな、駐車場もない本店たちが、お客様に早朝営業や深夜営業やサービス精神を貫いて、京都のラーメン業界の御三家で、生きる厳しさみたいなもので本店が成り立っているというのは、学生だったころにもこれで儲かるの大丈夫なのという思い、フランチャイズが朝5じとか6時とからやってますか?そういうんがフランチャイズと本店との違いで、朝の5時からやろうとすれば閉店後の夜中に次の日の分を仕込んでが当り前、名店の本店でもそういうんを背負える人は一人の人しかそういうのは背負えないだろうと思うし、働き始めた日からすべてを背負う覚悟の人たちがやってるだけのことだと思う。
2025年07月03日
和装用の小幅織物の案件で、他の機屋さんが織っておられて高齢になられて、細い麻糸は難しいということで、お話をいただくも、林与もキャパがないので、年内はもちろん。半年から1年くらいは絶対に取り掛かることができないという状況。新規のお仕事のお客さんは基本今はお受けできない状況。

仕事があっても仕事を成り立たせていくということの難しさみたいな部分があって、やってられた機屋さんとお話をさせていただいても、同じような話で、今まで続けていたことでも年々、糸は弱くなっていくし、価格も上がってゆくし、また、織りあがったものの問題などの対応も大変になって行くというあたりの話をされている。

小幅織機を専用にして織られていたものを林与の織機で織るにしても、糸番手や密度に応じて、開口の高さや広さや、打ち出すタイミングや打ち出す強さなどを最適化しないとならないし、小幅織物というのは、着物向けないので10m以上、無傷が基本。糸自体が汚れていたり節があったり、糸切れ一つで10mの反物がB品、C品となる可能性も高く、織だけでなく、糊付けや加工などでも問題が起こることがある。

産地でおられてきた麻織物なので、この産地で麻織物を織るということには特別の意味があると林与自身も感じてはいる。麻の産地の麻織物みたいなのに意味を感じてくださるお客様も多いし、バルク生産の麻織物の話をするときでも一定以上の水準からの話になり、麻織物であれば、どんな糸でもよいとか糊付けでもよいとか染色でもよいとか加工でもよいとかじゃない。裏付けされた経験と実績で産地の麻織物というだけでなく日本の麻織物の水準的なものを形成していると思う。

大阪とか東京にいくと、海外の麻生地が手ごろに普通に流れていてそれが商業的な普通の繊維業界のバルクで動く話。繊維の業界というのも昔から品質偽装と産地偽装というのが、一番くらいに行われてきた業界で、江戸時代に近江商人が行商で近江の麻生地を自分の足で全国津々浦々に運んで、それを売って得たお金で全国津々浦々の特産品を買って滋賀県に戻る前に京の都で現金化してまた次の麻織物をつくる人々を支える形となった。

今回のご縁にしても、地元のある方が後ろで動いてできなくなる話を続けようとされるのを、できるんじゃないのかと織て買い手作りても含む3社とかが、関わっていない林与に託してくださっての案件なので、何十年も地道に続けてやってこられたことを終わらせることなく引き継げたらなあと思う思いはある。

織ってやってこられた方が、お客さんに迷惑になるといけないのでまえまえから将来的にはできなくなるからということをお客さんにも伝えられてできる所までやってこられたというのがそれがほんとすごいことで、そういうのを担うというのは、当たり前に京都の和装業界で通用する一級品の麻布を担った時点から作らないといけないということで、林与も若いころから小幅織物もつくってきた経験はあるし、それでも厳しいなあと思いながら和装の業界は和装の方に任せておいた方が、そういう業界も守られて存続しやすいのではないかと考えて、自社で小幅織物を林与自身が販売するために織ることはあるけども、頼まれて5年ごとくらいごとに受けてやってきた程度。

ひと世代後の林与というのは産地でも若手の一人、55歳で若手なのだから、でも、一回の仕事の重荷というのは今の若い人だと背負うことは何十万円も失敗したら相手にご迷惑かけたり、自分が仕事して背負わないといけない話で、もう一回何十万も使って形にできるかどうかわからないとやらないのにやらないといけない。そういうの若い人ができるだろうか、林与は若い時からそういうのが当たり前であったからできたけども、他の人のために布をつくるために時間とお金を使ってリスクを背負えるような人って少ないだろうと思うし、そういうのを知識も経験も実績もなくても受けて、結果を出せるというのが、経験と実績を積み、知識も経験のなかから育まれてゆく、順番が違う、やり方を教えて教え方が分かりにくいとか、説明がどうとかからはじまる現場だと、高度なものづくりなんて無理で、自分がやってこられた方に敬意を払って教えてもらえるか確認して教えてもらえるなら感謝しないといけない。教えてもらえなければ自分が試行錯誤して最善を積み重ねて、お客さんの求めるものに近づけないといけないし、和装ものも最後は化粧して販売されるのが普通なので文庫に綺麗に収まって、実績を積まれて来たものと同等のものでないと、駄目だろうと思うし、そういうのが高品質を維持して産地のものづくりを続けていくということにもつながる。そういうのかんがえなければ我流で、これしかできませんみたいな、素人に近い、今までやってこられたものとはまったくちがう世界になってしまう。

匙加減、味加減というのはつくる林与ができたりはするけども、小幅織機で織ってこられたものを広幅織機で幅を狭く織るというのは林与的には実績もあるけども、小幅織機の3倍のスピードでシャトルが動かないといけないという問題が付きまとう。そういうのも分かる人にはわかる話だと思うし、林与も50年前の小幅織機を10台以上寝かせてはあるので、そういうのを立ち上げるも、できないことはないけども、なんせ、そういうのをできるのも林与が動けるかどうかの話につながる。そして結果が出せないとぜんぶ背負う話で、他の人に任せるというのも難しい話。

こういうの背負うというのが仕事をこなしていくという当たり前の話だろうけども、そういうの背負ってやっていける人というのがいるのかどうか、最初から本番の一級品をつくるのが当り前の今の日本の繊維業界のレベルの高さ。趣味とか好き嫌いとか、気分とかのもんだいじゃなくて、責任感持って業務をこなして結果を出せるかどうかという仕事の感覚。時間から時間の仕事感覚じゃなくて、結果が出せるかどうかで出せなければマイナスという仕事としての現実的な話というのは、今の時代の繊維業界に関わりたい人が受け入れることはまったく難しいと思うし、関わらないほうが良いだろうと思う。今までやってこられた方々の仕事意識の高さというのは、今の日本の仕事感覚ではまったく理解もできないだろうけども、そういうのが日本の繊維業界が世界でも一番すごいみたいなのとつながっていて、今はそういう日本の凄いのイメージを取りたい人は多くても、自分自身が働いて生み出して行かないとなると難しいだろうと思う。



2025年07月03日
とうとう7月2日に念願の鬼ヶ島といわれる女木島を訪れることができた。岡山の納品のあと、1日ぶりくらいの食事をすき家でとった。いつもは、ヘトヘトでペコペコのときは、キングカレーなのだけども、今回は、キングカレーが甘口になってしまっていて激辛ソースを自分で使って辛くするみたいな感じで以前のような、食べると辛さで体がリセットされるようなスパイシーなものではなくなってしまっているので、今回は10年ぶりくらいにキング牛丼を注文。

2時間以上かけて休息も金ながら食べて、車の中で休んでからと思いながらも、納品に来るときに降った小雨も落ち着いたようで、疲れているはずなのに食べた後なのに眠くなく、夜のうちに香川県に移動できるだけ移動しようと思って、瀬戸大橋を渡って下りたインターの出口のコンビニの駐車場でコービー休憩で朝を待つことに、朝は5時くらいから動き出して、高松港周辺の駐車場と乗り場の確認など行って、高松港周辺の雰囲気もうろうろとしながら習得。高松も都会やなあと思えるほどに高松港周辺は発達していて、瀬戸内海の海運の1大の拠点みたいにもなっている。

駐車場も6時間止めたら、上限なしで3000円とか4000円するところから、10分ほど歩けば1日300円のところまであって、12時間450円のところに決めてとめて、簡単な朝食をとってから、8時の女木島行きのフェリーに乗った。朝食を取りながら決めていたことが、レンタサイクルをすることで、電動自転車が1日2000円で借りられるというのを知って、1000円ならまだしも2000円は、ちょっと高いかなあと思いながらも、洞窟までの往復バスが往復で800円だから、1200円で女木島での自由な移動手段を確保できるとするならよしと思って、島についてまず、電動自転車のレンタサイクルした。

他にも観光客はそれなりにおられたけども電動自転車を借りているのは林与だけで、鬼の島洞窟へは他の方はバスで行かれるのだろう。電動自転車を借りる時に、借りる場所のおばちゃんが、電動自転車の乗り方と、島を一周したいというと、丁寧過ぎるくらいに10分以上ルートを説明してくれた。これが本当にありがたい結果となって、鬼の洞窟を1番に目指すではなく、南の下のほうから海岸線に沿って下って、山の中腹を登って鬼の洞窟を目指すルート。電動自転車のバッテリーは絶対に1日くらいは持つからという話で、下から攻めていくことに、お天気がよくて、海岸線近くを辿りながらも海岸か山道かの選択で、ほとんど走っているのは山の上りの斜面という状態が鬼の洞窟まで続く。

これ、歩きだと絶対に無理だろうし、フェリーにハイエースで島を散策も考えたけども、そういうのも自動車では通れないような舗装はしてあるが車道幅もない山道が続いているだけ、まさに電動自転車が神さまの乗り物のようで、林与一人が島を縦横無尽に動き回っているようなモード、島の住人らしい方ともほとんどすれ違いなどもなく、漁業と観光の2本柱で、日常生活も急斜面が多すぎて車もバイクも自転車も使わない徒歩で移動する程度の田舎の集落の中の生活みたいなもので、1時間くらい掛けて山道を走って鬼の洞窟までにすれ違った人というのは、徒歩でハイキングする感じの2人の女性だけ。

林与が興味があったのは転がっている山道の石で、緑色をしていて尖った形状で、ほとんどが瓦を割ったような石なのである。こういうのは、いわゆる火山性の岩石が川を流れて丸くなったような形状ではなく、出来上がって割れているだけの状態のものがゴロゴロとしている。オリーブ柱状玄武岩質的なものということらしく、山道においてもその石の性質を確認しながら撮影しながら鬼の洞窟へと向かう。

バス停付近の鬼の洞窟の登り石段の入り口につくと、まず、山の頂上の展望台に登って、日向ぼっこしながら、ここで1日過ごしても良いくらいの眺めというよりも、バス停から展望台に登るだけでも、きつく疲れるほどで、いやほんと、昔の鬼も、こんな頂上付近に住むなんて大変だったろうなあと実感。

なぜ、山頂に住むのかというと天守閣的な意味合いがあったのではなかろうかと、下から登ってこないと駄目な場所だと、上にいるものが絶対に有利で、しかも石を投げたり岩を上から転がすだけで武器になる。洞窟の中も、今は照明で照らされているけども真っ暗にすると初めて攻め入ったものは圧倒的に不利。

なかに大広間の部分に大黒柱といわれるものが2つあるけども、その下が削られていることを考えると、まだ大広間の大ホール制作途中で放置されたものと思われる。なにがあったのか、多分、コロナみたいな肺炎的な疫病が起って洞窟の中での暮らしが難しくなったのだろうと思う。そとが30度を超えていても中は15〜18度という、ミストが漂う、天然のエアコンが効いた状態で、中で疫病が蔓延すれば、洞窟自体が亡ぶ。

なぜ、このような巨大洞窟が人の手で掘ることが可能だったかに関しても、玄武岩が衝撃にもろく割れやすいというような性質で、洞窟の上には、県の天然記念物の石柱がある。叩くだけで割れて落ちるという性質を利用して、洞窟が人の手で簡単に掘られたのだろうと思う。ここは、昔の横穴式住居と呼ばれるものと似ていて、体積した粘土質や砂質ではないけども、粘土質の層と似たような感じで掘り進めることができそうな岩質である。洞窟の中の壁の岩もほとんどの岩がひびが入って割れていて、もともと、硬いながらお割れやすい岩でできた火山性の山なのである。だから、やまの上は雨風で風化もせずに山らしく尖がっていて、マントルから火山の溶岩が噴き出す山頂までの溶岩の通り道に溶岩が固まって、その溶岩を崩して洞窟が掘られているという感じなのだろうと思う。海底火山だったものかあるいは噴火した後にも溶岩が流れ出て海中で急激に溶岩が冷やされて、山が形成されたようなかたちだろう。硬いけども衝撃には弱く叩けばはがれるように崩れる岩。高温の溶岩は密度が薄いので固まることで密度があがり、岩を形成しながらも割れが生じて行ったものと思われたりもする。

徐福に関することは一切辿れなかったが、なぜ、このような巨大洞窟が紀元前100年頃に掘られたのかということも、孫悟空の話と同じで、また、アマテラスの話とかも織んなじで、火山性の山に洞窟があってというのと通じている。興味深いのは、農地らしい農地がないことで、狩猟生活的で、海での漁をするか、動物を捕って食べるというのが基本だったのだろう。

島の北の方を回ると、畜産場のようなものもいくつか見受けられ、島で暮らしていくためには自給自足的なことが、島民の暮らしの基本だったと思える。女木島で一つどうなんだろうと思ったのが、飲み水の確保、川が基本ないのであって、雨水を貯めるしかない。洞窟には水源があるが、その水源は洞窟内のミストが天井で冷やされて滴り落ちて、飲み水を確保できる形。野生動物にしても、巨大なワシのような鳥は何匹も見かけたけども、なかなか水を確保するというのは動物にとっても難しいだろうなあと思える。

電動自転車をフル活用して、島を1周できたことで、何倍も時間を有効活用できて、8時半くらいに上陸してから、午後1時20分の船で高松港に戻った。今の女木島の人々の暮らしも大変だなあと思う。漁業もおこなわれているようだけども、漁船が行き来しているような感じもあまりしないし、観光業が主体になっているのだろうと思う。砂浜もすごくいい感じだけども、7月なのに平日だからか誰一人泳いでいる観光客はいない感じで、観光として活性化の努力みたいなものが、新しいプロジェクトなのだろうと思える。

林与は新しい観光地化プロジェクトには興味がなかったので、洞窟のことと村の人々の暮らしみたいなところに興味があったりしたが、島の村の中も若い人を見かけることはほとんどなく、年配の方たちがほとんどで、小学校もあったけども生徒さんもたぶん少ないだろうなあと思えた。これから夏休みになると1日に何十倍の人が訪れることになるのだろうけども、本当にそういうのは一瞬のことなのだろうと思える。

林与は一人レンタサイクルで、自分一人好き勝手に動き回ることができて、いろんな場所で誰一人いない綺麗な浜辺も、山道も堪能ができて、洞窟の中も2時間くらい堪能して、岩質や、岩の割れ方などを観察しながら、洞窟のなかが一番居心地が良い場所。晴れた一日で、瀬戸内海の夏の1日を満喫。そのあと、島を離れて高松に戻って、高松港近くの春日の湯というスーパー銭湯に行って、汗と疲れを洗い流して、讃岐うどんを食べていかないといけないと思って、香川のうどん店は店じまいが早く、午後4時で閉店なので、国道沿いのうどん屋に20分前に駆け込んで、かけうどん大を頼むと、普通で3玉分の大で500円でこの量は食べるのは難しいくらい。たぶん、今日の最後のお客だったので余分の大盛サービスもあったとは思う。

そのあと、淡路島経由で東大阪に向かって、夜の8時に手織り織機の受け渡し。1日には思えないてんこ盛りの1日だった。何年ぶりだろうか、自分が自由にまる1日旅行に時間を費やしたのは、旅行して思ったのが、自分の体力がそれなりに衰えて来ていることで、次の目標の東京の青島にも、動けるうちの今のうちに、できれば、今年か来年の夏に行ければ行っておきたいと思う。ほんと充実した1日で、自分の思い通りに動けた1日でリフレッシュ。
2025年07月03日
とうとう念願の鬼ヶ島といわれる女木島を訪れることができた。岡山の納品のあと、1日ぶりくらいの食事をすき家でった。いつもは、ヘトヘトでペコペコのときは、キングカレーなのだけども、今回は、キングカレーが甘口になってしまっていて激辛ソースを自分で使って辛くするみたいな感じで以前のような、食べると辛さで体がリセットされるようなスパイシーなものではなくなってしまっているので、今回は10年ぶりくらいにキング牛丼を注文。

2時間以上かけて休息も金ながら食べて、車の中で休んでからと思いながらも、納品に来るときに降った小雨も落ち着いたようで、疲れているはずなのに食べた後なのに眠くなく、夜のうちに香川県に移動できるだけ移動しようと思って、瀬戸大橋を渡って下りたインターの出口のコンビニの駐車場でコービー休憩で朝を待つことに、朝は5時くらいから動き出して、高松港周辺の駐車場と乗り場の確認など行って、高松港周辺の雰囲気もうろうろとしながら習得。高松も都会やなあと思えるほどに高松港周辺は発達していて、瀬戸内海の海運の1大の拠点みたいにもなっている。

駐車場も6時間止めたら、上限なしで3000円とか4000円するところから、10分ほど歩けば1日300円のところまであって、12時間450円のところに決めてとめて、簡単な朝食をとってから、8時の女木島行きのフェリーに乗った。朝食を取りながら決めていたことが、レンタサイクルをすることで、電動自転車が1日2000円で借りられるというのを知って、ちょっと高いかなあと思いながらも、洞窟までの往復バスが往復で800円だから、1200円で女木島での移動手段を確保できるとするならよしと思って、島についてまず、電動自転車のレンタサイクルした。

他にも観光客はそれなりにおられたけども電動自転車を借りているのは林与だけで、鬼の島洞窟へは他の方はバスで行かれるのだろう。電動自転車を借りる時に、借りる場所のおばちゃんが、電動自転車の乗り方と、島を一周したいというと、丁寧過ぎるくらいに10分以上ルートを説明してくれた。これが本当にありがたい結果となって、鬼の洞窟を1番に目指すではなく、南の下のほうから海岸線に沿って下って、山の中腹を登って鬼の洞窟を目指すルート。電動自転車のバッテリーは絶対に1日くらいは持つからという話で、下から攻めていくことに、お天気がよくて、海岸線近くを辿りながらも海岸か山道かの選択で、ほとんど走っているのは山の上りの斜面という状態が鬼の洞窟まで続く。

これ、歩きだと絶対に無理だろうし、フェリーにハイエースで島を散策も考えたけども、そういうのも自動車では通れないような舗装はしてあるが車道幅もない山道が続いているだけ、まさに電動自転車が神さまの乗り物のようで、林与一人が島を縦横無尽に動き回っているようなモード、島の住人らしい方ともほとんどすれ違いなどもなく、漁業と観光の2本柱で、日常生活も急斜面が多すぎて車もバイクも自転車も使わない徒歩で移動する程度の田舎の集落の中の生活みたいなもので、1時間くらい掛けて山道を走って鬼の洞窟までにすれ違った人というのは、徒歩でハイキングする感じの2人の女性だけ。

林与が興味があったのは転がっている山道の石で、緑色をしていて尖った形状で、ほとんどが瓦を割ったような石なのである。こういうのは、いわゆる火山性の岩石が川を流れて丸くなったような形状ではなく、出来上がって割れているだけの状態のものがゴロゴロとしている。オリーブ柱状玄武岩質的なものということらしく、山道においてもその石の性質を確認しながら撮影しながら鬼の洞窟へと向かう。

バス停付近の鬼の洞窟の登り石段の入り口につくと、まず、山の頂上の展望台に登って、日向ぼっこしながら、ここで1日過ごしても良いくらいの眺めというよりも、バス停から展望台に登るだけでも、きつく疲れるほどで、いやほんと、昔の鬼も、こんな頂上付近に住むなんて大変だったろうなあと実感。

なぜ、山頂に住むのかというと天守閣的な意味合いがあったのではなかろうかと、下から登ってこないと駄目な場所だと、上にいるものが絶対に有利で、しかも石を投げたり岩を上から転がすだけで武器になる。洞窟の中も、今は照明で照らされているけども真っ暗にすると初めて攻め入ったものは圧倒的に不利。

なかに大広間の部分に大黒柱といわれるものが2つあるけども、その下が削られていることを考えると、まだ途中で放置されたものと思われる。なにがあったのか、多分、コロナみたいな肺炎的な疫病が起って洞窟の中での暮らしが難しくなったのだろうと思う。そとが30度を超えていても中は15〜18度という、ミストが漂う、天然のエアコンが効いた状態で、中で疫病が蔓延すれば、洞窟自体が亡ぶ。

なぜ、このような巨大洞窟が人の手で掘ることが可能だったかに関しても、玄武岩が衝撃にもろく割れやすいというような性質で、洞窟の上には、県の天然記念物の石柱がある。叩くだけで割れて落ちるという性質を利用して、洞窟が人の手で簡単に掘られたのだろうと思う。ここは、昔の横穴式住居と呼ばれるものと似ていて、体積した粘土質や砂質ではないけども、粘土質の層と似たような感じで掘り進めることができそうな岩質である。洞窟の中の壁の岩もほとんどの岩がひびが入って割れていて、もともと、硬いながらお割れやすい岩でできた火山性の山なのである。だから、やまの上は雨風で風化もせずに山らしく尖がっていて、マントルから火山の溶岩が噴き出す山頂までの溶岩の通り道に溶岩が固まって、その溶岩を崩して洞窟が掘られているという感じなのだろうと思う。海底火山だったものかあるいは噴火した後にも溶岩が流れ出て海中で急激に溶岩が冷やされて、山が形成されたようなかたちだろう。硬いけども衝撃には弱く叩けばはがれるように崩れる岩。高温の溶岩は密度が薄いので固まることで密度があがり、岩を形成しながらも割れが生じて行ったものと思われたりもする。

徐福に関することは一切辿れなかったが、なぜ、このような巨大洞窟が紀元前100年頃に掘られたのかということも、孫悟空の話と同じで、また、アマテラスの話とかも織んなじで、火山性の山に洞窟があってというのと通じている。興味深いのは、農地らしい農地がないことで、狩猟生活的で、海での漁をするか、動物を捕って食べるというのが基本だったのだろう。

島の北の方を回ると、畜産場のようなものもいくつか見受けられ、島で暮らしていくためには自給自足的なことが、島民の暮らしの基本だったと思える。女木島で一つどうなんだろうと思ったのが、飲み水の確保、川が基本ないのであって、雨水を貯めるしかない。洞窟には水源があるが、その水源は洞窟内のミストが天井で冷やされて滴り落ちて、飲み水を確保できる形。野生動物にしても、巨大なワシのような鳥は何匹も見かけたけども、なかなか水を確保するというのは動物にとっても難しいだろうなあと思える。

電動自転車をフル活用して、島を1周できたことで、何倍も時間を有効活用できて、8時半くらいに上陸してから、午後1時20分の船で高松港に戻った。今の女木島の人々の暮らしも大変だなあと思う。漁業もおこなわれているようだけども、漁船が行き来しているような感じもあまりしないし、観光業が主体になっているのだろうと思う。砂浜もすごくいい感じだけども、7月なのに平日だからか誰一人泳いでいる観光客はいない感じで、観光として活性化の努力みたいなものが、新しいプロジェクトなのだろうと思える。

林与は新しい観光地化プロジェクトには興味がなかったので、洞窟のことと村の人々の暮らしみたいなところに興味があったりしたが、島の村の中も若い人を見かけることはほとんどなく、年配の方たちがほとんどで、小学校もあったけども生徒さんもたぶん少ないだろうなあと思えた。これから夏休みになると1日に何十倍の人が訪れることになるのだろうけども、本当にそういうのは一瞬のことなのだろうと思える。

林与は一人レンタサイクルで、自分一人好き勝手に動き回ることができて、いろんな場所で誰一人いない綺麗な浜辺も、山道も堪能ができて、洞窟の中も2時間くらい堪能して、晴れた一日で、満喫。そのあと、春日の湯というスーパー銭湯に行って、汗を洗い流して、讃岐うどんを食べていかないといけないと思って、香川のうどん店は店じまいが早く、午後4時で閉店なので、20分前に駆け込んで、かけうどん大を頼むと、普通で3玉分の大で500円でこの量は食べるのは難しいくらい。たぶん、今日の最後のお客だったので余分の大盛サービスもあったとは思う。

そのあと、淡路島経由で東大阪に向かって、夜の8時に手織り織機の受け渡し。1日には思えないてんこ盛りの1日だった。何年ぶりだろうか、自分が自由にまる1日旅行に時間を費やしたのは、旅行して思ったのが、自分の体力がそれなりに衰えて来ていることで、次の目標の東京の青島にも、動けるうちの今のうちに、できれば、今年か来年の夏に行ければ行っておきたいと思う。