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リネンや麻を織る日々をつづっています。
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2019年6月
リネン日記:5
2019年06月29日
朝6時に起きて夏祭り関係の書類の作成を始め、午後1時くらいまで掛かって重要な部分が完成、で、お墓の草むしり、そして堤防の除草作業の前準備、戻ってまた会議資料の作成の続き、夕方6時から役を当たっているもう一人の方が資料を綴じるのを手伝いに来てくれて、夜の7時半から会議、9時半の終了。

1回の全体会議で夏祭りの当日準備に向かう形なので、資料に関係者全員の作業の全部詰め込んでおく事が大事だろうと入念に資料作成。私以上に夏祭りに関して詳しい方が多いので教えてもらうことも多い。

全体会議も凝縮したが、夏祭りでは盆踊りとバザーをするのだが音頭櫓などを当日の朝から作り始めてなど例年よりも凝縮した準備方法。昔のように高校を卒業した後の夏から2年間若者が中心になって準備して盆踊りを行うのは若い人も少なくもう無理な状態で、父兄や役員がほとんどの準備を行う夏祭り。

バザーで販売する、やきそば、フランクフルト、やきとり、カキ氷が100円で、子供たちは無料で好きなだけ食べられる。子供を中心に楽しみにしてくれている人も多いし、夏祭りをやめようという意見も多いがなんだかんだ言いながらもやるとなるとみんな協力的でありがたい。

批判も多いかもしれないが、若い頃の夏祭りの準備というのは村の家や企業を回って寄付金を集めて費用を捻出。若い者がある程度自由度をもってファミリーレストランなどで好きなものを食べながら同世代のものが集える貴重な時間。大学や就職で田舎を離れても戻ってきて遊ぶ、たぶん最後くらいの機会。逆に今のように大人がすべてやってしまうと、そういう若者の楽しみが無く、かわいそうにも思う。夏祭りを目的に集まるが、せっかく集まるんだし、夏祭り以外の自由な部分での楽しみもあってよいだろう。

昔の夏祭りにはメモノートはあったけども、会議もほとんど無かったように思う。必要な準備作業を毎晩ほど集まってしてゆくだけ、30年ほど前のことだが、奨学生の地蔵盆と並んで、20前の若者が自主的に行事を進めることができるよい機会ではある。
2019年06月17日
今日は、芦屋から昔リネンを染めていただいていた社長ご夫妻が林与の先代の供養を兼ねてお越しくださった。麻を染めるのに命を掛けていたといわれるだけに、その当時に染めていただいていたリネンというのは光沢感からして違う。糸も当時の糸は今の糸と違う。

その技術は譲れるものでないというのも自分が本気でやっているものなら分かるけど、そこまでいかないものだと、どうせ死ぬんだから引き継いだほうがいいんじゃないのかというレベル。日本のそういう技術が担い手がなく消えていくのは正しいことのように思う。技術を教えて担ったとしても覚悟自体が引き継げなければ、意味が無いというのを分からないと難しいから、覚悟を決めたもの意外は逆に手を出さないほうがよいだろうと思う。

やればやるほど深みにはまるのが覚悟を決めた世界なので、業としてやっても儲かる世界ではないあたり、他と違うリネンの染のクオリティを生み出すために、特別のことをしておられた。それはほかのものが自分自身の苦労で、たどり着こうとしてたどりつかないと意味のない世界だろう。

長浜のDENさんに行かれたそうで、狭い世界でDENさんは、林与の麻生地を多く使ってくださっていて、話が弾んだそうで共通の価値観の世界。
2019年06月08日
ミナミヌマエビを数日飼ってみて思うのが、人の手間が要らないこと。その中でたくましく生きていて、また、1年くらいしか生きないので、100匹以上飼っていると、2日に1匹くらい大きめのが死んだりする。一方で、小さな小さなエビが何匹か毎日くらい生まれて、人間の100倍のスピードの生命がある。

人間社会というのはそういうのを忘れたところにあったりするもので、人の人生においても、そういう諸行無常を受け入れるというのも大事なんだろうと思う。ミナミヌマエビももっと自由にしてあげたいが、たらいの中で飼ってあげるくらいが一番安全だったりする。

水は工場の横の農業用水路から取るが、その用水路にも生命は存在するが、その用水路の水は人の手にゆだねられ、人間社会の加減で増えたり無くなったりで、その水路の生物たちが普通には生きてゆけないのも気の毒な話だなあと思う。飼われている動物以外に生きることが難しいのはかわいそうな話ではある。

自然界で増えることができるなら自然が残っているとうことであるがそうはいかない。その理由が他の自然の天敵ではなく、人間社会の都合だったりする。ミナミヌマエビは人間にとっては害虫でもないから、人が駆除しようともしていないが、それでもダムなんかができると今の自然界では生きてゆくのは難しい。

一方で、ジャンボタニシという稲を食う厳密にはタニシではないタニシに見える害虫がいる。工場の横の農業用水路にも、なぜか、大きなたぶんジャンボタニシが10匹くらい見えるだけでもいる。これも、人間の都合で1980年代に食用に全国の都道府県で養殖を始めて収益性が乏しいから、見捨てて自然の中で繁殖して、絶滅をさせるのが難しいやっかいな外来種となった。私もはじめみたときは、タニシでも大きく育って元気にしているんだなあと、自然に思える大きなタニシの裏に人間たちの浅はかな損得勘定があって金にならないと放置されて今度は害虫扱い。ジャンボタニシに罪はない。

別の目線から見れば今の日本の環境でも生きて繁殖できるジャンボタニシはサステイナビリティのある生き物。そういう人間が手を焼くような生き物しか田舎であっても自然の中では生きて繁殖してゆけないというのもなあ。
2019年06月04日
今年、評議員で、字の池の世話をする話で、池は何度か確認して池の水があまり綺麗でない理由の結論が、田んぼが農業用水を使うと泥を含んだ水が池に入る。するとその泥は池にたまり続けることになる。上澄みのきれいな水だけが下流へと流れていく。

結論からすると、鯉が動く度に下の泥が舞い上がるので水が濁ってみえてしまう。池の水を循環濾過するか、濃い泥を水と一緒にポンプで汲み出し新しい川の水を入れるか。新しいポンプつけて綺麗な地下水を池に入れると水は流れを持ち澄むが新らしいポンプを付ける
費用や電気代修理などの維持費の問題が生まれる。

もう一つ感じたのは黒い鯉がほとんどで一匹の赤っぽい鯉を除くとすべてが黒い魚で泥底をバックには魚が見えにくい。自然の川の魚と同じであるならその面倒をみるというのももうちっと魅力がないと業務的なところ。

こんなことを考え始めると本当のミスマッチの問題にたどり着く。周りにいっぱい自然やゃ緑が残っているのに人造の自然とふれあう公園というのはそもそも自然を求めているのではなく、都会的な公園を求めているんだろうなあというあたり。

本来だと田んぼの水を利用するより川に魚がいてそれとふれあうべきなのだろうが4m程も下にある川に子供が下りるも危険すぎるから、田舎でも自然にふれる機会は少ないのがもんだいなんだろう。

子供の頃に狐をみることはほとんどなかったが、狐が人の住むところまで降りてきている。山に食べ物がないんだろう。
2019年06月01日
地元に鯉の池があって、その水が濁っていて鯉にはよいのかもしれないが素敵には見えない。10年ほど前に補助金でできてそれを維持していくことの問題。村にしても若い人というか、50代でも、少ないし非常に忙しく、引退世代の人たちが、一日中畑の世話で余裕をもって時間が過ぎてゆくのとは、同じ村に住んでいてもまったく異なる。

はじめるのは簡単でも続けてゆくのは難しいという問題があるから、田舎にありがちな、強制的に無理やり続けるんじゃなくて、自然に続いてゆくような方法を考えてゆくべきだろう。最初、鯉の池の話を聞いても分からんことだらけ、水の問題があって、川の水を活用するプロジェクトながら、農業との水が自由に使えないみたいなところがある。

田んぼをするときには水が土で濁ってその水が池に入ると水も汚いという問題、地下水をくみ上げるポンプがあるけど、そのポンプは田んぼやってられる方が水利の組合を作ってポンプを管理されているので、村が池のために使うのは本筋ではないとか、最初は、よく分からなかったことがいろいろと見えてきた。

そういうポンプをうまく使えるようにもっていけないだろうか、別に地下水をくみ上げるポンプを池用につくるとかもあろうけど、そのポンプの維持というのは故障することなども想定すると結構お金が掛かる。池の問題は新たに生まれてきたことで、他の行事などもなかなか参加するものが少なくなっているのに、新しいものが増えてとなると次の世代は昔以上に大変。昭和の中ごろの高度成長期に始まった行事が今も続いているが、そろそろ限界にも来ていて、行事をすることでみんなが楽しめて良い思い出となればよいけども、無理やりとかだと悪い思い出となることもあるだろう。

私も農業よりも昔っぽい織物の仕事だが、やらんものが集まってても何も生まれてこないし、やる気があって実際するものがやっていく以外に成功する方法はないだろうと思う。やらされてやっているという程度ではうまく続けていくことは難しいだろう。