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リネンや麻を織る日々をつづっています。
ホームリネン日記2016年4月
2016年4月
リネン日記:17
2016年04月30日
需要と供給曲線というものを経済学では勉強するが、それが資材の世界の経済論理で、アメリカンビジネスっぽいものである。日本の市場がいつのまにかアメリカンビジネスっぽくなって、食品なんかも全国チェーンレストラン&ファストフード、繊維にしても同じくファストブランドが強い流れ。

ファストブランドが既存の百貨店ブランドを淘汰していった感があるが、ファストブランドvsファストブランド。自分たちの販売しているものの価値をゼロにすればするほど勝ち残りやすい。店内にお客さんが溢れているような状況をつくって成り立つビジネスモデル。

量を流すことで成り立たせるビジネスモデルなので、店舗数の拡大なども重要な要素。広がり続けることが成功のようにみえるが、いつまでも広がり続けることなんてないのである。最初はベンチャーでアルバイトでなりたっていても、成功して正社員雇用となると、毎年、会社が年を取り始め毎年業績というものは悪化していくのが普通である。大きければ大きいほど後戻りができなく、大手アパレルのリストラなどにみられる一般的な路線が待っている。

アメリカンビジネスモデルで、拡大路線はバラの道で、縮小路線というのはイバラの道である。今まで成り立っていたコストが縮小にともないどんどんと成り立たなくなってくる。路線変更というのが必然で、利益を確保するために値上げに転じるのだが、’一番安い’という無料の宣伝効果を放棄したことになるので、話題にも上りにくくなくなり、ブランドイメージがファッションから、アウトオブファッションに変わってしまうという致命的な問題を抱える可能性がある。

シャープなんかも昔は家電メーカーとしては二流企業のイメージだったが、一流企業になって中身が空洞化してしまったように思える。これは企業の責任というよりも、国の雇用行政や雇用に関する法律が企業を破綻に追い込んでしまうことが多い。日本の国には100年企業が世界一たくさんあるけど、戦後の画一化の流れの中で、そのほとんどが消えていくことになる。
2016年04月29日
昨日、朝郵便局振込みに行ったら、地元の火事にあわれた加工工場の奥さんが時間外窓口の列に並んでおられて、火事見舞いのお礼のお言葉をいただき、ショートループという機械の1台が駄目になってしまったということ。一番に気にしておられるのがお客さんの仕事が止まること。まさにできた商売の人の考え。

先日は、染工場の専務さんが糸の納品にこられて、加工工場さんが全部止まってしまうような結果でなくてよかったとほっとしておられた。織物の中で織物加工という工程は、大手の生地商社におられる方でもどうでもよいようななんとでもなるようなどこでもできるような考えでおられるが、決してそうではない。

同じものをつくろうとすると同じ会社の同じ工程を経ないと、基本同じには仕上がらないものである。織にしても同じで、機屋によって規格や糸使い、染め手法など違うので、どこと取り組むかで、出来上がる生地に特色が出る。

林与の糸使いの糸は、同一銘柄のハイグレードなものに固定していて、染色方法も固定、加工方法も基本固定する。織りも織も固定するので、ものづくりが基本ぶれない。国内でも海外でも、仕事の人によくいわれるのが、林与の生地はなぜこんなに高いのですかという質問があるけど、安く作る方法を考えるとキリもなく、それのほうが楽な方法だが、自分が一つ一つの作業をみているだけにそういう方法は自分のものづくりとしては無意味なのである。

出来上がるものだけを求めているのではなく、麻のものづくりの基本的な形も守っておきたい。麻のプロフェッショナルが生み出すみたいな世界。驕りの世界に思われるかもしれないけども、微妙な風合いの差みたいなもの大事にしたいのである。お客様のご要望だけに引きずられると、ものづくりの形が崩れて、その場しのぎに安いものはできるのだろうが、それが重なると商売の意味やのづくりの感性がぶれる。

以前、問屋さんのお若い方で、話があるかないかわからないのに糸の加工工程を自分が謳うみたいなこといわれて来たが、あなたが守っているものでもなく、問屋なら覚悟を決めて、せめて何百キロかの糸加工の注文を約束してそれをやるならよいけども、軽い気持ちで居られたようで、それがその会社の商売スタイルになってしまっているのは問屋業として危うい。問題は、自分がPRするという人が一番理解ができていない典型だったりしてそういう人に利用されるのはその糸加工会社さんも嫌がられるだろう。
2016年04月28日
昨晩出荷のときに、地元の縫製関係の社長さんと会って、ふだんお世話になっている加工工場さんが火災に見舞われたそうで、4月末までは納期の案件で忙しいといわれていたので、忙しいときに想定外のことが起こり気の毒なお話だなあと思う。

その社長さんとお話していても、縫製もとくに小ロットの案件をできるところが少なくなってしまっていて、いろいろな話が入ってくるけれども、キャパ自体が限られているのでできる量も限られている。林与も同じで、仕事はあってもそれをこなせる人手が足りない状況。

先進国だと、新興国よりも楽な仕事で食べていけるというのは妄想ではないのか。先進国のほうが仕事内容は新興国よりも高度でなければならないのにと思うが、先進国のほうが教育を受けているのだが、教育というものが仕事にとってはマイナスなことも多く、働く能力のある人をみつけることが難しかったりする。集団意識が強いとものづくりは強く、個人主義の人が集まってもものづくりは難しい。組み立てやセールスなんかは、独立採算性みたいなものが成り立つが、織物なんかでは、前後の影響を受けてのトラブルが多いので企業外も集団意識が働いていないとうまく回すことは難しいだろう。業界にも、明らかな失敗しても働いたのだからお金は必要というサラリーマンタイプの業者さんも多い。熟練の機屋さんにあまり仕事がないのも

教育というものは実践的でないとならないのかなあと思える。実際、学生よりも社会人のほうが能力が劣るということも多くあって、一番よい例が、小学生が始めてミシンを使うと1時間でクラス全員のカバンを綺麗に仕上げるけど、大人だとミシンと材料が目の前にあって、かばん作りましょうといっても私はミシンはできないで終わることが多いだろう。大人というのは子供以上に、好き嫌いが激しく自分勝手が許される。

昔、ある小学校での経験なのだが、女の子が準備をして準備をした途端、それを遊んでいた男の子が横取りする。その男の子の問題というよりも、日本社会の縮図だなあと思える。チャイムが鳴って、時間が来たのもわかっていたが、一番最後にその準備していた女の子が縫製の番になって、仕上がるように5分ほど付き合っていると、あとで校長室で、校長先生からは時間は守ってほしいと注意された。父母から子供たちがお腹がすいて苦情が来たらどうするのだと言われる。

人それぞれ、生き方や視点が違うので、謝罪をして反論はしなかったが、大人が子供未満の時代。私よりもその女の子のほうが気の毒で、このくらいは女の子でも我慢しているのだからこの学校では我慢なんだろう。校長先生に注意されても女の子のかばんが出来上がるほうが大事で、真面目にやっている女の子をチャイムが鳴ったからといって見捨てることはできない。小学校としては特別なケースなのかもしれないが、日本の行政にも、この校長先生みたいなタイプが多く、そういう人が窓口になっているとややこしい。
2016年04月27日
年金の運用を株式投資に回すというのは大反対である。結局、株式市場自体が、胴元が儲かるシステムで参加者は大抵損をするものである。国民の将来を約束できるような運用が必要で、国債に回すほうが考え方としてはまとも。

運用の失敗で目減りしたときにどうするのかという大きな問題がある。税金で補填するとかなら、最初から年金なんてとって、株のようなものに投資せず、税金で国民の老後を補填するほうが無駄も少ない。

昔、同志社大学校友会が、寄付金を株式投資して大きな損をした。寄付したものは誰も株式に投資して運用なんて望んでないのだ。まともに使ってくれることを願っている。

それと同じことが日本の行政でも行われ始め、目的外の使用で損が膨れ上がってもその穴埋めはまた国民の負担が増えるだけみたいな、背任による損失の責任も国民が取らされるとか、国の感覚自体が、原発爆発しても電気料金値上げでみたいなのと似ていて、やらんほうがましだろうと思う。一度株式投資に回した巨額のお金、株価下げずに巨額に引き戻すことは難しい。

株式投資というのは自己責任でやるべきなもので、年金がそもそも自己責任だったらそれでよいのかもしれないが、年金のコンセプトは老後の安心。金を大きく溶かす可能性のあるものに手を出すなよ、といいたい。お年寄り老後の資金を狙う投資話で損をするのを警告している国が、同じことをやってしまったら駄目だろう。
2016年04月26日
イスラム国家に思うのは、宗教というよりも何か裏でアメリカの残忍な資本主義的な力が働いているのではないのかと思える。戦争ビジネス的な側面が強すぎて、CIAがサウジアラビアと組んでイスラム国家を育てたとかいう話が濃厚であるとされるが、戦争というものは損得勘定で動くことが多いので、建前的な大儀のために多くの命が犠牲になる。

そんなからくりがあるとすれば、何のために何の罪もない多くの人が死んで犠牲になるのにオイルマネーというのは本当に怖いものであると思える。そんな残忍な行為に対して資金提供をして裏で金を流しているのがアメリカだとすれば信じられない話だが、金の亡者にとっては戦争もビジネスであるのは、アメリカのハイテク企業が戦争ビジネスでなりたつというのが当たり前であるのを考えると、ビジネスを成り立たすためには戦争が必要になってくる。

アメリカの中でまともな製造業がなくなりつつあって、ハイテク産業として君臨するものは人の命を奪うような力をもつ産業で、理不尽なことも多いのである。一企業が国の法律を超える例としては、DELLコンピュータの契約もそうで、DELL自身が軍事物資になりうるコンピュータ技術を中国に提供しておきながら、買う一個人にはそのコンピュータを他国に流してはいけないという約束をとる。そもそもココム規制って何だったのって話になる。ココム規制すらもがビジネスツール。

戦争はビジネス。人の命までも犠牲にするようなものではないことをアメリカ自身も理解していて、イラク戦争でも死んだ多くはアメリカ国籍のほしい移民たち、金儲けの前に人の命の軽さが浮き出る。日本の保身政治家たちが、戦場に行く覚悟すらないのは明らかで、そういう日本の弱さが戦争ビジネスには利用されやすい。

私自身アメリカに住んでいて、アメリカの基本的な精神はすばらしいと感じているが、苦になる部分に関しては他人ごとで、考えないことが成功の秘訣であるというのも事実だと思う。人としてそれはどうなのかなあと思うところで、多くの命が犠牲になるのも、じぶんたしの利益の前には仕方のないことであるという体質を改めなければ戦争での犠牲というのはやまないものと思える。イラク戦争の本当の敵も日本であったのではないかと考えると恐ろしいことで、ビジネスの前に、平和的な解決などないような気がするのである。

自分自身がものを生み出さない国家やそれを牛耳る人々にとっては、略奪の最たる戦争こそが生きる手段。それそのものがその人たちが生きていくための生き方なのかもしれないが、想定もできないほどに、情報戦線で他に悪を作って寄生する冷血なマネタリズム対しては、力ではないエシカルな連結で阻止が必要だろう。

イスラム国家の残忍性にはなぜか私としては理解が不明、資本主義的なカネの亡者が後ろで資金提供をしているような気がしてならない。オイルマネーのような利権のために人々の命が犠牲になる必要などなかろう。

電力会社が原発なくなると電気料金高くなりますよというと腹が立つ。電気料金値上げしてもよいので、脱原発でやりなさい、というと返答が用意すらもできていないのが、電力会社。カネの亡者だから駄目なんだよ。オイルマネーに、何の罪もない国家単位の人の命が掛かっているとなると電力会社の損得ではすまない。
2016年04月25日
コンピュータの値段は性能が高くなっても値上がりせず、安くなっていく。なぜなのだろうと考えると、スピードが速くなっただけで基本できることは変わらないというあたりと、次々と3ヶ月ごとに各メーカーが新しいモデルを出してくるというところ。性能のアップが微妙すぎて、買い換えるタイミングを思い切れないところもある。

より重要なのは、ハードではなくてソフトでもなくて、コンテンツになろうとしている。コンピュータで何をするのかというときに、外からの情報を得るための手段としてコンピュータを使うという使い方。情報さえ得られれば慣れたコンピュータで十分なのである。

昔と比べるとコンピュータの値段だけでなく、日本人の給料も上がるどころか下がってきているのではと思える。理由は同じではないだろうか、日本人というハードウェアは教育を受けて進化しているようでも、海外に追い越されているのはコンテンツが足りんからじゃあないかと思える。コンテンツとは何か、これから何を作りますいうより、実際になにをやりましたというあたりだろう。
2016年04月20日
三菱自動車が燃費偽装を行っていたことが報道された、フォルクスワーゲンとかも同じくだが、自動車を買ったユーザーにしてみれば、エコであるという重要な要素、エコへの信条をくじかれたようなものである。

こういうふうに企業が嘘をつかないとならない背景には、基準競争の厳しさみたいなものがあるだろう。安心や安全がラベルだけのことになっているというのもよくある話。私自身、糸を材料として買う側で、糸に関する正直な情報が手に入る同じ会社の同じ銘柄に固執するのもそのあたり。結局は、安心や安全を支えるのはラベルじゃないというところ。

フォルクスワーゲンのケースなんて、世界ナンバーワン売り上げとかを競っている企業。10倍の数値偽装なんて、まったく、普通に大気汚染するディーゼル車を、クリーンディーセルと偽って謳っていたのだから、アウトだろう。

クリーンディーゼルのからくりも見えてきて、クリーンディーゼル追い求めると、触媒なんかが消耗するので、触媒交換をしなくてよいようにするためにそのような加減がされていたのだろうという。燃費がよいから、環境エコだけでなく、経済的というが、触媒を消耗するというあたり、交換費用を考えると燃費がよい分も消えてしまうし、触媒を消耗してディーゼル煙を撒き散らす車というのは買い手がつきにくく、車自体寿命が早い。

アメリカの大手の家庭の洗剤などを扱うメーカーの商品開発姿勢などをしみじみ感じたのが、新しい技術を探しているが、それが今までのものより安い合成的な材料を探している。一番安いものというのは自然と売れるがそのために原料のコストを下げることに必死である。

勝ち残っても、市場にあふれるものは昔のもののほうがよかったみたいな話ばかり。ティシュー、生理用ナプキン、洗剤、など、人の体に触れるものでもそういう発想で開発されている。そういうニーズがあってそういうものを使うのも自由だけども、マイクロビーズのような問題が起こってくるのも不思議ではなく、それが、結局、使わない人が魚を食べたりしたときに、マイクロビーズを体内に取り込んでしまうとか、困った問題なのである。
2016年04月19日
リネン100番手の素材を何件かの仕事のお客様に使っていただいている。従来の糊付け方法でつくっているので、物性面でもほかのシリーズと同じ感覚で、お使いいただける。数年前までは、リネン100番手も糊なしで織っていたけど、今は糊をつけないと織れないし、糊をつけても苦戦することもある。

林与のリネンの一番細いのは、世界際細番手の150番手、これも、従来ののり付け方法で織っているので、糸が繊細になっても今までのリネンと同じ感触で使っていただける。薄手のブラウスや、ハンカチとか、ランジェリーとか。

150番手ともなると、糸を手に入れることから覚悟が必要で、織れない覚悟して、1m織るのに66番の10倍以上の時間を掛けて織る。1時間30cmとか50cmくらいであろうか。ほかの織機をみることができず、1台に張り付いて織るみたいな話。

リネン100番手も150番手もつくる量が少ないからかもしれないが、在庫をつくっても、いつのまにか誰かが買ってくださり、また、つくらないといけない状態になる。ありがたい話だが覚悟が要る。
2016年04月17日
福島が奇跡的にチェルノブイリ化しなかったのは、地下水から放射能が海に漏れ出したことで、放射能が無限希薄されたから。魚からも高いレベルの放射能が検知されるほどに、大量の放射能性物質が流れ出した。チェルノブイリよりも日本の技術が高かったとかいう問題ではなく、もし、地下水から漏れ出していなかったら福島原発の石棺化が必要だったであろう。

今も、地下水が海に漏れ出すのを止めようとしているが、海に漏れ出したほうがまだよいのではないかと思える。放射能の半減期の長いセシウム137は30年である。そんなものを希薄せずにとどめても解決方法が見つからないのである。除染というが、それは言葉だけで、放射能を消し去ることはできない。どこかに移すだけのことである。

人々の健康を考えるなら、放射能汚染のない人々の住んでいる場所に放射能汚染物質を移動するという感覚がわからない。まだ、人々の命を考えない、メンツや利権がうごめいているような気がする。人々からなるべく遠くに汚染物質を移動するため、遠洋投棄するべきだろう。プルサーマルを正当化するために、日本は放射能汚染物質の遠洋投棄をやっていないが、よく考えてみれば、遠洋投棄しないといけないほど、健康被害をもたらすようなものを、日本国内で埋め立てするとかがベストだとは思えない。

国民の命すらも考えず、メルトダウンしても水蒸気爆発と偽り放射能漏れを隠す、電力会社と国によって運営されてしまっていてはどうしようもない。つかまらないだけで、無限希薄で救われなければ、多くの人が死んでいただろう。所長もなくなったが、原発事故とは無関係とされた。体内被曝だと十分、半年で所長みたいに典型的な甲状腺癌で亡くなることも考えられるが、どこまでも逃げる気だろう。

メルトダウンを水蒸気爆発と偽る保安院、人間の神経をしていないか、あるいは素人未満の人たちが運用している。国も、レーダーで放射能が漏れたのも知っているのに隠していた、なんのためのレーダーだ。人が死ぬこともへっちゃらな連中が、運用しているのだから駄目なんだ。総理や閣僚レベルまでもが、国民の命がどうでもよいというのはアウト。地下から漏れ出していなかったら何十万人の命や健康に重大な問題が起こってたであろう。
2016年04月15日
昨日の日記の続き的な内容になりますが、織物で必要な計算は、基本四則演算で、小学生くらいの計算なのだが、現場の人が、織物に関する計算問題で正しい答えを導き出すことは難しい。仕事をする上では、必須の作業なのでこういう計算が出来るのとできないのとでは大きな違いなのだが、織物の現場の人というのは計算が苦手な場合が多い。

計算ができると、作業の途中でも、作業に誤りがないのかが確認できたり、糸が足りない場合にも、どう解決するのかがを見いだすことができる。自分で自分の作業を準備できない状態だとその人の仕事を準備するための人が必要となり、仕事としては半人前のよくない状況が続く。

緻密な計算ができなくても、糸が足りなくなることを心配しているようなタイプの人だと、まだ、可能性はあるだろう。後でどうにかなるだろうという考えの人だと、織物の仕事では、仕事するたびに解決できない大きな問題にぶつかるんじゃあないだろうか。織物で生き残れるかどうかというのも、本生産10回やって1回失敗なら挽回のチャンスもあるだろうが、10回やって3回失敗とかだと普通にしてたら挽回することすら難しいだろう。織物なんて行程が長く、全部同じでないと同じものができてこない。ちょっと気を抜けば、10回仕事して3回失敗とかありがち。難しいものを企画するのは簡単でも、本生産が難しいということは多い。

まあ、正しく作れても売るのが難しいと言われる状況も多いので、正しく作れんと話にもならない。
2016年04月14日
今日も整経の作業で糸がギリギリ。糸というのはロットが混じるといけないので、チーズワインダーできっちりと割って糸量を計算して、整経を回す。一バンドでも失敗すると、糸が足りないことになるので、糸量が限られている場合には織るときのリスクよりも整経のリスクの方が高いと思う。縦の柄物の場合など、糸をカウントして割って、結局少し足りないとかだと、すべてカウントを少なくして本数が予定通りなるように割らないといけない。

林与の場合は、縦糸は2割多く用意する。染める場合などにも、リネンなんかの場合には5パーセント重量的には少ないのが普通なので、染め行程のロスを考えると、1割くらいのロスを見ておかないとならない、原糸を用意するときに、縦糸の場合は、織物長さに対する理論値よりも、3割ほど多い量の糸をよういすることになる。

このロスを少なくすればするほど利益は上がるが、失敗のリスクも高くなる。だから3割という多い目の糸を用意しておいて仕事をする。白無地とかだと失敗のリスクは少ないので2割で十分だろう。柄物で試作やドビー柄の場合、織りでのロスも大きくなる。

加工ロスについても考えておかないとならないが、縦に引っ張り気味の加工の場合には、縦はあまり縮まない。横方向が、キバタ幅から15パーセントくらい縮む。太い糸の場合には、織物というのは縦糸が横糸を包むようにおられていくので、縦糸を計算するときに、1割以上、織りでの糸ロスを見ないといけないこともある。

織物を企画するときには、こういうことを理解していないと、糸の準備すらもできないので、計算計算なのだ。織物業界で年配の方が生き残れない理由のひとつに、緻密な計算をこなせないということがある。昔の作り方だと、いつも十分な糸があってとか、いつも決まった量であったりとか、計算があまり必要なかった。
2016年04月10日
国民の老後を支える年金までも投入された、ユニクロ株、だれが、株を売ったのだろうか、企業に公金投入って国営企業化とか公共事業化と同じで融資よりも優遇していることになるのだけど、株式市場という胴元を支えるだけで、ありがちな吸い取られのあとどうするんだろう。

国民の老後の約束が吸い取られてしまうのは、絶対に駄目。かつて、京都の同志社大学でも校友会のお金が株式に投入されて何十億もの損失、学校のためにと寄付したものが投機で失敗。校友会長は退く形になったが、退いても同志社の恥そのもので最悪の結果。

これと同じことを国がやってどうするのだろう。失敗したときに、前の大臣たちがやったことだからで、強制的に年金納めさせられている国民が納得できるだろうか、さらに負担が増える。年金の主旨自体が株式市場に投入するような不確かなものでは、やらないほうがマシそのものだよ。年金やめて赤字国債発行して社会保障費捻出しているほうがまだマシだろう。年金というのが実は税金であるという本質からすれば、今の日本というのは先進国でも一番搾取が多く、手取りが少ない国になってしまう。

国を支えるのはタックスヘブンで脱税まがいをしない中小企業だろうと思う。パナマ文書流出で、国家の元首級が、脱税行為を働いていた一番悪いやつだと分かってパニック。日本の優良企業の多くが納税もしていない状態だったら法人税法自体がからくりありすぎで、国税局の存在の意味すらもなくなる。実質日本企業でも、登記上、海外に移すだけで税金逃れができて、日本では優良企業のように取り扱われ、国会議員からしてハチャメチャな没落する日本から逃げたもの勝ち。

国会議員たちのだらしなさをみるとというか、行政でも対応する人のいい加減さというかとんでもなさが増しているのを直感する。年金問題でも、厚生労働省や社会保険庁に電話しても年金機構が窓口と、国民の年金を不透明に泥棒してうやむやな、厚生労働省や社会保険庁がまだ高飛車。わからんでもないが、国や行政というのは、大臣クラスや都知事クラスにしても特権で逮捕されないだけで、やっていることと対応が、万引き少年の何十倍から何百万倍で万引き少年以下なんだよ。法律を隠れ蓑に使っては駄目だろう。批判の多い昔の中国の共産主義幹部の思想そのもので、中国で前体制の幹部たちが徹底的に逮捕されたとかを耳すると逆転したかと思え、世界的にみても、優遇されている日本の政治のありかたそのものが、暴走しすぎて巨悪の根源であるという大きな問題に関しては国民を欺く行為そのもので終止符必要だろう。
2016年04月09日
升田幸三という棋士が戦後間もないころ活躍していて1991年に亡くなったが、のんだくれのおっさんみたいにみえるけども、正しいことを言っている。今の歴代最強といわれる羽生さんにはない味がある。

運、勘、技、根、みたいなのは、商売を長く続けていく上でも大事で、林与が長く続けられているのも、たとえば2000年以降のリネンへの人気など、麻機屋としての運がめぐってきたことで何とかやっていけているのだろうと思う。めぐってきた運などは生かす努力は必要で、一回目にチャンスをパスすると2回目も同じだろう。運に見放される。

勘というのも大事で、自分だけじゃなく相手がある場合など、無理そうなものは無理であきらめて違う方法を見つけるとか、そのあたりの見極めなんかも勘なのかもしれない。同じ仕事をするにしても、考え方が違えば限界が違うので出来上がるものも変わってくる。問題を解決するときにも勘が生命線となることが多い。勘と言うのは甚だしい力というのを升田さんが言っておられたが、勘が働く働かないかの違いは仕事でも大きい。林与もそろそろ50手前、運も落ち始め、勘も鈍くなり、技も落ちて、根も続かなくなるタイミングに差し掛かる。

機場でハニカムを織っているが、シャトルを挟む。不思議すぎるのだ、今まで、この織機ではシャトルを挟んだことがないのに、織機の問題なのか、いや、人の問題だろう。誰かが調子よく動いていたシャトルを違うシャトルに入れ替えたに違いない。シャトルを交換するとシャトルを挟むことはない。問題に気がつかないと織機を触り、織機の調子を落とすことになる。



2016年04月08日
将棋というのは、人の能力の違いというものを考えさせられる。最後にかつか負けるかが自分だけでなく相手の力で決まる。仕事の結果なんかも、同じものをつくっても、もちろん途中で失敗などがあるとまったく駄目だが、正しく作ったとしても結果が伴わないことも多い。

昔と違うのはコンピュータなどがあって、昔だと人の中で蓄積したデータが、そういうディバイスの助けで、すべてを蓄積できるようになったこと。前回と同じ手順で途中まで打っても違うかたちで終わる。一回使った最善手が次の最善手とは限らない。

今の時代、大きな会社の寿命は人の一生よりも短いというのが定石。まだ、会社というところで話をいているので大丈夫なのかもと思うが、国にしても途上国的なら長生き、先進国化すると次々と手を打っていかねばならなく、打つ手がなくなれば、国が投了するような可能性が高くなる。国家財政の破綻などはその顕著な例であろう。

将棋で思うのは、一世代前の名人といわれる人たちは味があるように思える。たぶん、将棋だけじゃない人間性的なものがあってそう思うのだろう。将棋にしても、人よりもコンピュータがいくら強くなっても、人の面倒をみてくれるのかというところがあるだろう。コンピュータが強くても将棋という人が食べていく世界では無意味なのである。将棋という世界の裏にも、そこに集う人が食べていくという勝ち負け以上に大きな意味がある。

繊維という昔風に思われる仕事、力がなければ食べていくのが難しいということもあろうが、それは勝ち負けが常にあるからで、何十年経験のある人でも食べていくのが難しいケースがほとんど。繊維の仕事もコンピュータ将棋と似ているところは、人が介在せず機械だけで作ったようなものが出回ると結局は、繊維の中で働く人たちを支えてゆけないということになるのではないだろうか。日本の繊維産業が成り立つことの難しさは、繊維がだんだんとコンピュータ将棋の世界に入ってきているようなものだろう。
2016年04月07日
春というのは人事異動などがあって、新しい担当者が地元周りをされる。昼前には、警察官が何年ぶりにだろうか戸別訪問されていて、自転車の歩道禁止車道通行義務化で、歩行者も少ないトラックなどの通行する田舎では自転車は明らかに弱者である自転車が死の危険にさらされるという問題をあれは、弱者の命が危険にさらされるので一番あかんよと指摘。地下鉄網の発達した都市部と同じでは田舎は成り立たず、人の命にかかわるような法律の改悪が行われることに対して苦言を呈すると、やはり、警察官であっても、人の命を奪うような道路交通法よりも人の命のほうが大事なのはわかっておられるので安心した。人の命も考えない、大臣クラスや国会議員とか役人にありがちな責任逃れで立法してしまう感覚がやばすぎて、道路交通法というものが、拳銃のトリガーに手をかけて弱者の命を簡単に奪ってしまうのでは、交通行政の指導も、法律を守った善良な国民の命を奪う結果になりあったものじゃないだろう。道路交通行政を取り締まるものがその仕事として、田舎の路だとほんとうに自転車に乗っているの命が危険にさらされている現状を理解すべきだろう。私は自転車に乗らないが、自動車が湯煎されて、なんで自転車に乗っている健全な若者や老人が法律の厳しい適用で命の危険にさらされるのかわからない。田舎だと高速道の路肩をを自転車走行させるのと同じような危険があるのがわからないのが中央の行政だと思うと腹立たしい。逃げ道として、子供老人はみたいなことやっているけど、それ自体が危険の認識がありながら逃げすぎて。現状に即した人としての心が行政にないのがだめ。最悪は、指導したものの指導で多くの人の命を奪う結果に繋がる。原発も同じで、危険すら想定しないで推し進めて素人未満で多くの命を結果として奪ってしまって、法律を後出しで変えて法律にひかからないように逃げる本当に悪質な手口。原子力発電所も地震の被害者なのはわかるが、やったことは犯罪そのもので、雪印がつぶれて、電力会社が開き直って値上げはだめだろう。

関西電力にしても、原発動かなければ値上げになりますよ、みたいなのを得意がっているのは、国民の健康や命すらも奪ってしまうことを理解していない証拠で、自分がマイナスでもその責任を全うする意識すらないのを電話で原発の失敗で電気料金の値上げに繋がったのも安全だと信じたお前らの本当に馬鹿だなあみたいな対応。安全だとうたいながらも問題が発生するとその費用もほかに転化するような人たちが運営しているようでは、これはもう、わらっている崩壊したような旧共産主義の悪徳利権政治そのもので、将来に再送りしているからわからないけど、電気料金値上げではすんでいない。

日本の原発行政は旧ソビエトのチェルノブイリとは違うというような感覚で笑っているようなところあるけど、実質は同じ以上で、責任感の違いですらないのである。旧ソビエトの消防士などが死ぬ覚悟で国民の命をあもって石棺化した国を笑ってはだめで、日本の原発のように地下水が漏れて無限希薄で助かったことを理解していないのも馬鹿すぎる。しかも、凍らせて無限希薄をとめるとか放射能を莫大な国民負担を強いながら長引かせることを容認するようなその場しのぎの対応だと根本的に石棺化すきなチェルノブイリを招くだけ。それがわからないのが利権プロ集団。原発の失敗すらも自分たちの利権につなげてどうするのだと思う。失敗をすら認めないで居座ろうとする連中が、自分たちの失敗をねたに国民に揺さぶりすらかける。

原発の所長がなくなったのでも原発事故との因果関係がなく労災すら認定されていない、労働基準監督極にしても明らかに力関係でゆがんだことをしてしまっているのが本当に残念でしかない。喉に包帯を巻いて現れた所長、旧ソビエトでも原発事故と戦った結果の殉死だろうが、日本では事故との関係はないと責任逃れで終わる。原発事故後、電力会社が偉そうに電気料金が値上げになりますけど、いやなら契約解除ですよみたいな、公共事業者として、特権を与えられながら、特権を与えられている責務を感じていないのも、本当に伝わってくる。電力会社だけの問題ではなく政治家の問題で、小さな断層の問題におわっているけど、世界規模のプレートテクトニクス理論でも日本という一番地震の起こりやすい国に、なぜ、原発がこれほどまでに集中しているのかも、政治の弱さそのもので技術的にも不確かなものが推進され多くの犠牲を生んだのは治の不作為そのものなのである。どこかの国が人柱で原発のリスクを試さないとならず、敗戦国日本がターゲットとなり、トモダチオペレーションでも、安全なところからデータを収集して原発の危険性を確認。日本政府にしても、放射能漏れを隠して国民の命を危険にさらすことも与野党含めてやってしまって、これは最悪の事態で、対応すらも人災そのもの。放射能漏れを公にしてしまえばメルトダウンで本当の緊急事態を国民に警告できたろうが、旧ソビエト未満の隠匿体質で、司どるものの保身が優先された。

安全ということで放射能汚染のリスクの高いものがチェックもされないものが学校給食に意図的に出されたりとか、最悪の事態をまねいているけど、政治家のリップサービスや保身のためには国民の命の危険などはどうでもよいことが立証されたのが原発事故。電気料金値上げですら自分たちの失敗だと認めずにいる電力会社だと次も同じような事故は起こるから、小学生の子供ですら感じる、国民の命よりも自分の保身で成り立つ政治家たちの5重の安全の嘘を見抜けないとだめだろう。放射能漏れを隠した日本政府の責任を誰がとれるかというと、自民にしても民主にしても同罪で責任逃れのプロということ。危険なものは危険として安全とうたわずに推進するのが諸外国の常識だが、偽善的な安全をうたい推進して無責任という、失敗の意識すらないのは、再発防止の法律なんかいくらつくっても無理で人間性の問題だろう。危険にしても妥協点というものはあるもので、それを正直に伝えるのも役割のひとつだと思うが、嘘でごまかして安全と謡って推進するしかないのが一番の問題。

また、通常10倍の安全基準を強いるのも異常で、それは行政の中にいる愚かかあるいは悪徳な癒着した企業しか生き残れないという現実も露呈している。クリーンディーゼルでも実際の路上でかろうじて達成できているのはマツダだけみたいなのが一人歩きでは駄目だろう。ディーゼル車のほとんとが違法な状態のものが流れている状態で目こぼしだけがとりえでは、正直に作る側の立場悪者になり弱すぎて騙したものもの勝ちを、役人体質とからんだ法律や規制が生み出す。

原発が爆発して所長が甲状腺がんで死んでも原発事故とは無関係も安全みたいなこと謳える神経で、放射能は放置なら、ほかの食品に対するきびしい規制なんかほとんど無意味。悲劇な事故ではあるけど、関係者の体質とか態度を正しく見せる必要が、高飛車になって、やっぱり、この人たちだから、こういう事故も防げないのは当たり前だと厳しい目で、多くの犠牲者が出ても他人事のように、改まらない人というか改めない人たちだろうが、改まるように厳しい態度が必要なのは当然のこと。

危ないものを安全として推進する神経が理解できない。

2016年04月03日
実際につくっている人というのは、自分の限界というのを知っているので、右から左に売る感覚とはまったく異なる。一人の人が一時間に2mほどしか織れない織機を3台動かしたところで、準備作業なども含めると仕事があっても最初から成り立たせるのは難しい話から始まる。

小ロットであればあるほど織る時間以外に準備する時間が必要となるので成り立たせるのは難しい話になる。ひとりで最後まで仕事をやっておられた機屋さんも、10年同じものを作り続け、一回の整経が1000mとかで、そういう機屋さんだと自由度は低いが価格的には相場に合わせやすく成り立ちやすい。

高く売るのが難しいというお客様の仕事に対しては、準備にかかる時間をどこまで減らし、量を入れてもらうかがポイントとなるのだろうが、最初数メートルの着分が必要という話になるとマイナスからスタートすることになる。

アパレルの生産はそのマイナスが積み重なって成り立たなくなることが多く、今は、新たにオリジナル生地をつくるよりも弊社企画に乗っていただく形での提案が多い。軒並み、アパレルが苦境に立たされているのもわかる話なのである。一シーズンたってしまうとゴミみたいなものづくり自体が、林与的には駄目だろうなあと思えるところで、同じものでも毎年売れるようなものが大事だろうと思える。良い物をつくるときの鍵となるのもそこなんだろうなあと思える。
2016年04月02日
生産性というのは、一人の人が数メートルしか一時間に織れないこともあるし、準備作業していれば、数時間ゼロメートルということもある。小ロット多品種の時代に生産性を高めるためには、どうすればよいのか。賛否両論もあろうが、林与なりには次の解決方法である。

カウンター見本~数ヶ月~着見本~数ヶ月~本生産という流れの繰り返しがほとんどなので、ひとつの企画を一年中一台の織機が基本担当するようにして、その仕事が入ってきたらそれを織る。

結果として、機替をしなくてすむので、働く人一人の時間と調節の時間が節約できるのと、ミスが少なくなる。というメリットがある。一方で、織機の稼働率は仕事がないとその間動かないので低下する。

問題点のもうひとつが、システム的に作業を単純化するので、働く人が複雑なことへの対応が難しくなる。会社の将来を考えると楽な仕事スタイルというのはその先にそれで成り立たなくなったときに、働く人が厳しさに対応できるのかできないのかで、その人の仕事があるなしに関わってくる。

仕事に就いたときから渡しよりも何十年も仕事されている人ばかりだったが、自分で仕事を準備し、布を検反し、畳んで加工出し準備まで、できない人がほとんどで、さらに、加工上がりの布に織りの問題などあっても、織った本人がそれを確認できないという問題もある。誰か織る人がいると、その人を世話をして回るもう一人の人が必要になっている状態。

機屋が廃業に陥るのも分業が進み過ぎていて、誰か一人がいないとその仕事が進まないとか。小さな工場の中で、長く仕事を続けながらも、これは誰の仕事とか変な割り切りがあると、全体が見えない人が増え生産性は落ちていく。多能工というよりも、全体がみえることが非常に大事で、それは作業内容だけでなく納期意識や価格意識をもつ基礎となる。