for English speakers: Welcome to HayashiyoWelcome to Hayashiyo
リネンや麻を織る日々をつづっています。
ホームリネン日記2017年2月
2017年2月
リネン日記:10
2017年02月23日
今日は、午前中、横糸が良く切れるということでシャトル織機の調整。見てみると案外とうまく動いていて、眺めながらもう一台の調子の悪いのを調整。こちらのほうが難解で、革のピッカーが引っかかってステッキが戻らない問題で、戻っていないところにシャトルが飛んで行くので、シャトルを挟むという状態。革のピッカーを引っかからないように、金槌で叩いて変形。強引なんだけど仕方ない。グラインダーで削ったりするよりもこのほうが良いと判断。

他に、縦糸切れの検知がうまくいっていないので、それを調整。綺麗に動くようになって、この織機も問題なく織れる状態に。織機というのは正しく動くのと動かないのでは価値がぜんぜん違う。正しく織れないと織機を動かしても、動かすことが苦痛なだけでなく、時間を掛けて織っても使える代物にはならない。今まで動かなかったものが正しく動くようになると、すごく気分が晴れ晴れ。

シンプルな織機なので、どこに問題があり、どこをどう調整すればというのが簡単に想像がつき、順番に手を掛けて行くと正しく動くようになる。でも、どこが問題なのかを間違えて、正常なところを下手に調整するとその下手な調整がいつまでも正しく動かない原因になりかねないから、問題を的確に見つけ出すことが大事。

調整の済んだ織機というのは、麻であっても普通くらいの番手の糸なら、ほとんど縦切れも横切れもなく問題なく織ることができる。今までの苦痛はなんだったんだろうと思えるくらいに調子よく動き出す。乗り越えられず止まってしまうと残念、乗り越える苦労が常に伴うのでできるというのは楽なことではないが、私の場合時間が足りてないが時間さえあれば楽しめる。綺麗に整備された織機がちゃんと正しく動いて本当にうれしいことである。織機が正しく動くと、次は、こんなものを織ろうあんなものを織ろうと夢が広がって行く。

私自身、ものづくりの正しい答えを出していくというのが基本なので、正しい答えが出せなければやってもできていないのと同じと考える。織機が正しい答えというのではなく、最後に正しいものが織れて、さらには、その織れたものがうまく売れて、全体として完結し、それの繰り返しがあって持続性のある形。常にそこに目標を置いて、結局は、物事は成り立って長く続けるということが成功の定義なんだろうと思う。
2017年02月21日
今日は2週間のインターンの最終日、宮崎から来てくれたYさん、ありがとう。滋賀にきてくれて、学ぶというより一緒に作業をして手伝ってくれて、主に捺染関係のことを手伝ってくれた。今の学生さんは、社会人よりも仕事に対しての意欲があって当たり前に仕事を受け入れてくれる。

私も50歳で、40歳、50歳となってくると田舎では仕事が面倒そうな人が多いのに、今の学生というのは真面目だなあと思え、教えたことを前向きに動いてやってくれる。聞いていると、自分から進んで留学や海外経験をし、他にもアルバイト経験が豊富で厳しい中で鍛えられているそうで、私はそういう環境で仕事して仕事に対する正しい姿勢を見に付けておられるということは、恵まれていることじゃないかと思うのだ。たぶん、20代のころの学生の私より、Yさんのほうが何倍も大人だと思え、これから就職活動され仕事を見つけられるだろうけど、力があるんだから早いうちに自分が思いっきり力を発揮してほしいなあと期待。

日本の国の行政なんかみてても、自分たちが悪いことを捻じ曲げて適正というケースが多く、そういうなかに若い者が入ってしまうとすぐに人間が腐ってしまうんだろうなあと。若い人には、日本の外にでてそういう腐った部分を駄目といえるような強い力に育ってほしいと思うのだ。

2017年02月18日
この春休みに林与の春のインターンの募集を行います。期間は、3月21日ころからの2週間で現場での実際の作業を通じて織物に関する作業を体験できます。現場作業で決してファンシーな内容ではありませんが、経験されたい学生の方でおられましたら履歴書をメールに添付して応募ください。毎回1名限りの募集です。

今日は、午前中から型紙をカットする作業で芋虫ドットと呼ばれる模様の製作。水玉が白で浮かぶような模様で、単純な柄だが型紙としては難度は高い。それを淡々と前に進めるのがインターンの女の子。一緒に食事をする以外の時間は作業を続けてくれる。版を大きくすれば一回で刷ることが出来るのだが、版を彫る作業が時間が掛かるのと版の洗い作業や扱い、置く場所などに困ることになるので、2回くらいに分けて刷るのが良いのではないだろうかと思えてきた。他に、赤地に白の水玉模様も草花もより綺麗に捺染するためには版を大きく、再度彫りなおす必要がある。年度末までに10柄を目標に完成度も上げて行く。

夕飯に、贅沢なものではないけども、近くのスーパーで特売のブリのアラが閉店前にたっぷりなのに安く売っていて、それで味噌汁をなべにたっぷり作ったらおいしくていい感じ。寒いときに、そういう煮込んだ暖かいものがおいしくて元気になる。そういう一番自分が食べたいものが他の人からするとアラだったりして大量に売れ残って見向きもされない。こういうのが本当のおっさんらしい贅沢に思える。おっさんとして合格だろう。



2017年02月13日
今日は、夕方6時ぎりぎりの駆け込みで洋型紙を買いに行った。正しい巻きのもののほか、1mの端切れ的な洋型紙が少し安かったのでいくつも買った。たぶんこれだけ買えば、何種類ものストールの版をつくれるだろうと思うが、あまり大きくしすぎると3色の版だと1色1mだと、一柄で3mとか使うことになってしまう。やはりリピートをつけて捺染することを想定したほうがよいように思える。というのも、汚れた版を洗うのも難しいから、新聞紙よりも版が大きいと新聞紙で拭くのも難しいだろう。

私のやろうとしている広幅絣プロジェクトは、他ではたぶん工業的にはやってないと思う。あるとすれば、ほぐしという技法で、縦糸に捺染するタイプ。近江湖東産地でも座布団などではよく使われた技法がほぐし。伝統工芸品のものづくりと同じような技法を使うのだが、オリジナルな要素もいくつも採用して、極端な話一人ですべての工程をカバーできるようにしてある。伝統工芸品である近江上布というのは何人もの分業が基本だったりするが、それと同じようなことを作家的に私一人がすべてするということも可能にしてある。それが私一人でも数日あれば図案を考え型紙を彫って横糸に捺染して蒸して一着分を織りあげることができるみたいな一人の人間でも没頭すればいろんな色柄を一年を通じて生み出し昔のものづくりを再現できるような形で技法から再考案したのがこの一年。

近江上布の羽巻き捺染なんかも、ヨジヨモン爺さんの時代に、長年かけてというより短期間ですべて生み出したのだと思えるのだ。なぜなら、近江上布は毎日のように新しい柄が生産されていたから、やろうとおもったことを簡単に形にしてしまうのが当時の人の意気込み。仕事に携わる人も自分のために働いたのでなく、食べるものは農業で養って、その収入を家族の将来を支えるために蓄えたような部分がある。戦後のご子息さんたちが当時では珍しい大学まで行かれるケースが多かったのも近江上布があってそれに打ち込んだから。羽巻き捺染のような生産効率のよい技法が生み出されてその余力を色柄の充実に費やしたところが近江上布がワビサビの色使いながらも見る人々を圧巻するような大きな芸術の世界をもてた理由だろう。

なぞとして思っている、なぜ、近江湖東地域で麻織物がさかんだったのか。日本中で麻織物なんて盛んにおられていたというのが事実である。嫁ぐときには機をもって嫁いだというのが日本中の光景であって、近江湖東地域だけが特別というわけでもなかったと考える。琵琶湖があって湿潤だというのが一部、近江の特色を生み出している可能性はあるのだが、それは細番手の麻糸は織りにくくて湿度があるほうが糸が乾燥しにくくて扱いやすいということはあるだろう。でも、一番の理由というのは、人という要素でなかったのかと、現在、産地の麻織物が消え行く流れのなかにあるのを考えると思う。他の地域以上に麻織物の仕事に打ち込んだ人がいたからだというのが麻織物が栄えたという一番の理由に思うのだ。

今は豊かになると仕事の手を緩めるということがほとんどで、それがまた厳しい時代に厳しさに耐えられるのかというと使い物にならなくなっていることがほとんどで、他に代替されてしまい消えてゆかざる終えない。うまく回っていたとしても厳しい感覚で仕事に打ち込んで他とは違うような人生観があったから近江上布が戦後も復興して、産地が産地として残りえたのだろうと思える。広幅織物への移行も産地で林与が一番にレピア織機を入れて、他の企業さんがレピアで麻が織れるということを知り、産地全体のレピア織機への移行が進んで1970年代の麻ブームが起こった。これも、人の要素が強いのであり、近江湖東産地が現代においても日本の麻織物の本場といわれる理由の一つであると思う。繊維だけに限らないが産業にとって大事な綺麗な水という要素にも恵まれていた。琵琶湖もその綺麗な水という要素に恵まれてかつては水の綺麗な湖として存在していた。琵琶湖にしても水が作り出す一つの産物なのである。
2017年02月11日
今日は、祝日なのを忘れてて、捺染の必要な型紙を買いに土曜日は営業しているのを確認して京都の田中直染料店に行くが、閉まっていることで、祝日であることに気がつく。

私が祝日なのに気がつかないにはよくあることなのだが、田中直染料店に行った事がないので一度売り場を見ておいてもらおうと一緒にいったインターンの女の子も祝日であるのに気がつかなかったので、祝日が祝日でないのは私だけでなく、小さな機屋を手伝おうと動いてくれているインターンの子も世間離した感覚で動けるから来てくれたんだろうなあと思える。

まあ、確認不足ということで、帰路について、会社で食事をとる予定で数日分の食材を買い込み、昼食をとってから今日の作業開始。夜は宿泊先の彦根のゲストハウス無我さんまで来るまで送るが、9日からの雪相当なもので、車での運転が危険である。
2017年02月10日
びわこドリーム号という夜行バスで滋賀にもどる。夜光バスの八日市営業所の駐車場は、雪、雪、雪。乗っていった軽バンは、四駆ながらも駐車場からでるのも雪が多くて要注意。

会社に一旦戻って、彦根の無我さんにインターンの女の子を迎えに行く。すると、無我のマスターも出てきてくださり、駐車場の件で動いてくださって、私のために来月から借りるとおっしゃってられた駐車場を前借りしてくださった。1日数百円で駐車できるのは他の駐車場より安く便利。

インターンの女性の方も海外経験のある方なので始めてのゲストハウス体験ながらも問題なく順応してくださって、雪以外は問題のない状況。

今日は芋虫ドットを、インターンの方に気合いをいれて彫り進んでもらうが、夕方確認すると外枠が切れてしまってて、振り出しに戻る。

プロの捺染家がやるのと同じ洋型紙にカシューで紗を貼る作業の前行程の型紙を彫る工程。私も最初試行錯誤で失敗しながら何回かのあと、成功にたどり着いたので、手取り足取りでなく自分で考えながら失敗しながら成功にたどり着いてほしい。今の時間に縛られた仕事の世界だと趣味の素人にもプロが負けてしまうことも多い。

例えば、縫製工場で働いている人が自分の洋服を作るのかというと、何十年働こうが単能工としてしごととしてしているだけで、洋服を作ろうとも思わないとか、織物でも何十年働いていても自分で織物を一から作ってみようと思わないとか。趣味の手織りの人が織物を作り上げることができるのに、プロがそれができないとかが、今のサラリーマンチックな世界だったりする。

失敗するのは大事で、失敗しても自分の責任でやり直し、とことんできるところまでやって食べていけるようになるのが大事。講習会なんかに行くと、ステップバイステップで、全員が正しい答えにたどり着きできたような気分になるが、いざ自分一人でやろうとすると全然身に付いていなかったり。材料があるんだから、基本、自分が時間使っていろんなやり方試してみて一番うまく行く方法が正解だと思う。

なんか、イタリアでその辺の人に道を訪ねると適当な答えが返ってきて、全くたどり着けなかったり、最後は自分自身でというのが、こういう作業に関しても言えることだろう。私もカシューの説明書を読みながらやってもうまく貼れず、自分で、もうちょっとこうしたほうがよいと思う方法がやはり正解だった。教え方が悪いとか、説明書が悪いとか、教えてもらうも説明書も参考程度に、一番正しい方法を見いだすのが仕事では大事。仕事に先生はいないから、と自分が仕事するときにいつも思う。

そうでないと、自分の経験として他の人に教えることもできない。だれがこういったということより自分が経験したことが全て。

2017年02月09日
夜行バスで、池袋到着。虚は有明のビッグサイト近くの会場でrincrossingの商談会。十分早い時間について、珍しく準備万端で、開場。

左側が、西脇の織機も動かしてられる産元の阿江ハンカチーフさん、正面は、藍染織物の児島織物さん。右前が藍染まいかけのエニシングさん。

阿江ハンカチーフさんは、セコリ荘の宮浦さんとか、ハツトキのデザイナー村田さんとかとお知り合いで、弊社の子ともよく知っていただいていた。
2017年02月08日
今日はインターンの方には型紙を彫る仕事。私と3月から林与に新しく席を置く女性デザイナーが織る仕事。ジャガード織機の使い方を練習してもらう。彼女は織機を触るのは3日目くらいだが、ジャガードの縦糸切れの処理をマスターできたので、ジャガード縦糸切れマスターの称号を与えた。

あと、横糸切れをうまく処理できるようになると、ジャガード横糸切れマスターの称号を得ることができ、ジャガードマスターの称号を得る。前向きに物事を進めようとする人が覚えようとすると、現場の職人が意識もせずに当たり前にこなしている仕事というものは、数日で修得できることがほとんどである。

繊維の世界というのは、数日で覚えたことを一生の仕事としてやっていくのが、戦後の人の多かったときの大量生産型モデル。働く人が減り、需要や人口も減った今は、いろんな仕事を覚えて、一人が最初から最後までの仕事をこなせるようになって、自分自身で創意工夫を試行錯誤、失敗を重ねながら、思っている布を生み出すのが理想じゃないのかと思う。

デザイナーが思っている布を頼んでうまく出来上がることはまれで、そういうときに、デザイナー自身が動いて生地を試作できれば、自分の考える新しい生地も出来上がりやすい。昔、同じような発想で、問屋の方にそういうアプローチしたことがあるけども、少し経験されて、やはり問屋は問屋みたいな結論を出された。

企画や依頼されるもアイデアを言われるとおりに作っても、売れそうなものにならないことが多いと、機屋はその方のアイデアを実現するために協力すると体力を消耗することになる。私自身は生地を企画するときは、出来上がるだけでなくそれなりに販売できてやはり成果であり、それが仕事だと思う。一つの生地をつくるためには何度もの試行錯誤が必要で、アイデアが不十分ならそれを改良していく努力をアイデアを出す人がして、何に問題があるのか分からないと、全体としても、毎回の企画が成り立たないような良くありがちなケースに陥る。

殻をやぶって、動かないと駄目なのだが殻を破ることができない人が多く、それは現場だけでなく企画するものや販売とか経営者とか、小さな枠にとらわれて全体が見て動けないとまったく逆の判断に陥ることが多い。ものづくりの問題よりも、構造的な問題とか人の問題とかいわれるような話。同じアイデアでも、柔軟に実現出来る人と固く考えて出来ない人がいるみたいな話である。

若い人というのは経験が少ないので新しいことに取り組める。経験が長い人というのは自分の経験したことのない新しいことをやるのが難しいことが多い。経験が長く新しいことに常に前向きに取り組んでいるところがやはり元気にされていて、それはうらやましいことでありそうありたいと思う。
2017年02月07日
今日は九州から大学生の女の子が2週間インターン。というか応援の気持ちで林与にきてくださる。こちらはやはりすごく寒いので、工場内の作業は寒くてきつすぎるだろうから、事務所でプリントの型紙を作る仕事を担当してもらう。早速、今日から、型紙を彫る作業。

女の子が、田舎の小さな織物工場を手伝おうと応援に来てくれるのは、自分も驚くくらいにありがたい。現役の学生の方というのは経験がないのだが、その分、新しいことを素直に受け入れて作業してくれるので、目の前のやらなければならないことを自分がやるという仕事に向く素養がある。

人数が増えたときにみんなが一つのことをしているのが正解なのかというと、時間の掛かる作業を交代で担当してボトルネックを軽減するというのが正解だと思う。優先順位をしっかりと見極めて、大事な仕事を交代で担当できる力がないと、仕事が増えれば増えるほど出来る人の仕事が増える。

織る仕事というと平行して何台もの織機を動かすことのように思うがそれだけでなく、今一番重要な仕事が多少技術の居る仕事の場合もあるし、新しいことの試行錯誤かもしれない、また、根気の必要の時間のかかる仕事かもしれずそれを急いでやることが大事かもしれない。でも、誰かがそれをやらないといけないときにやれる人がいないと全体の仕事が回らない。すべてが現場の仕事なのであるが現場のものがそれをこなせないと現場が回っていないことになる。

普通はそういうボトルネックになりがちな仕事というのは出来る人が限られてしまう。急いでいない単純な仕事は並行してやる雑用のようなものだったりして一人前の仕事には満たない。仕事の出来る人には仕事があって仕事ができないと仕事がないという、働く人の能力次第で仕事も生まれたり生まれなかったり。

新しいことを吸収する力のある学生の方なので、今後のために通常の忍耐の要る仕事も経験をしてもらいたいが、新しいことをやってもらおうと思っている。
2017年02月03日
今日は、ミラノウニカ初日、お客様は少なめで、ジャパンパビリオンのロケーションがメイン通路から一番はなれた場所にあるからだろうということと、お天気が悪いということで、2日目に期待するような流れで、お客さんが少ない。1年前のミラノフィエラシティと比べると5分の1くらいだろうか。

ブースに来てくださったお客様の目にには、近江上布柄の広幅での再現というものは、応用範囲も広くて期待してくださっているのが伝わってきて、やはり、自分がやっておかないとならないなあと思えるテーマ。JOBのトレンドコーナーに展示してもらって、自分が作ったときよりもかなりよい感じに見えてよかった、安心である。

日本も捺染系が少ないので、日本の中ではそれなりに目だっていた。ただし、モーダインなどのブースから見えるイタリアの素材などをみていると近江上布の絵柄っぽいプリントものが多くある。自分が面白いなあと思う柄とイタリアの方が興味を示す柄では違いがあって参考になる。自分が面白いと思ったものが、これはイタリアではありきたりみたいなことを教えてもらった。今年度の柄は10柄選び終えているので、来年の試作の参考にしたいと思う。

夜は、雨の振る中、コルサコモ10のギャラリーとか、紹介いただいたレストランにいったり、イータリーという食品館を眺めたりする。イタリアというのは、一つのお店がというのではなくて、全体が統一されている中にスポットがあるといえる。一度作ればそれが何百年も続く石の文化を強く感じる。2月の寒さの中で、石の文化というのも、相当寒いものであるが、人々が洋服を着込む事で対応している部分もよく見かける。ヨーロッパも同じだろうとは思えるが、石の文化というものが雪が降らなくても日本以上に冬の寒さを感じさせる。

もう、一つ前回気がつかなかったのだが、今回は、ミラノに来てから、ずっとお天気が悪くて、でも、それが今の時期のミラノというものらしい、朝は9時になっても薄暗く、夜は夕方4時くらいに暗くなりかけ、太陽の当たる時間が日本の半分くらいか?そういう点では日本という国は恵まれている国だなあと思える。レストランなんかも7時とか8時くらいに閉めるところが多くて、日本料理のお店がたくさんあって人気だったりするのだが、通訳の方にお聞きすると、その多くの経営者は日本人ではなくて、中国系が相当多いらしい。ファーストフードっぽいラーメン屋さんを一軒だけ見かけたてお客さんも数人ははいっていたが、なぜかラーメン一杯が20ユーロを超えているとか?

こういうのは、食文化に終わらず日本のイメージを形成するものだろうと思う。日本料理は高級に見えながらも手軽でおいしいようなイメージ。日本人がこれをミラノでやると日本料理店としてしか存在できず、イタリアで日本料理がブームみたいなことにはなっていないだろう。イタリア人が日本のテキスタイル素材に求めるものと共通する要素を感じ、林与が高級な日本素材そのものを日本感覚で高級なまま作って提案しようとするのが、イタリア人の日本素材のイメージと微妙に異なるのも感じたりはする。もちろん、一般論としてで、例外はあって、展示会場でも、一着が50万円のオートクチュールなものづくりのブランドの方とも出会え、近江上布の広幅絣のターゲットにはなるだろう。日本のブランドさんというか市場では、一着50万円の洋服を提案して成り立っているブランドさんというのはほとんど聞かないが、イタリアにはまだノンリミットなものづくりが通用する部分がいくらか残っている気もする。