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リネンや麻を織る日々をつづっています。
ホームリネン日記2016年11月
2016年11月
リネン日記:17
2016年11月30日
今日は、シルク麻を織りながら、近江上布柄の広幅に使う、染料のテストなど。今までのメカニズムと違って廃液を出さないメカニズムを考える。染料の調合などで、中間色の作成など。久々に絵の具で絵を描く感覚。茶色の色を作るのに、赤と緑を混ぜるというのを知って、色ってやはり不思議だなあと思える。

完璧を求めると面白くないので、味を含めて要素の光る最終的なものをつくりたいと考える。これは絵画以上に作品的な色の濃いものづくりになろうかと思える。それでいいんじゃないのかと思えたり。あと、色を固着させるために、蒸すというメカニズムが必要で蒸し器にしても工夫が必要なところ。

海外から届いた染料や国内で手に入れた染料などを活用して一番色が味わいのあるようなものが作れるように考える。林与が林与らしくあるのもそういうところだと思うのである。
2016年11月29日
今日はシルク麻の経つなぎ織り終わったアゼを取るのが正しく取れていないところがあったようで、4本繋ぎ間違える。無地なのでその4本を端にもっていけばよい話なのだが、アゼを取ったりするのも正しく取れるのと取れないのでは大きな違いが出てくる。

縦を繋いで送るのも比較的簡単で1時間ほどで織り始め、最初縦糸がよく切れるので、安定的に織れる様にテンションをゆるくしたり、織機の耳を直したり、絡みソウコウの通し違いを直したり、織る人が正しくしないといけない部分が正しくないのが多くそれを直してから仕事。私が、現場の人よりもものづくりに強いのは、基本正しく仕事をするから、現場の人が気が付かない問題でも気が付くのは、面倒に思うことでも正しく仕事しようとしているからだろうと思う。

1週間ほど前に山形の作家さんがきてくださったけども、林与の現場に入って一つ一つの仕事の面倒さに参られた。何百本の糸を動じに正しく操るという作業も、ひとつひとつ根気のいる仕事でそれが普通の仕事なのだが、頭で仕事をする人にはそういうのは耐えられない世界。私が思うのは、力があるということはそういう単純な仕事なら簡単にこなしていかないとならないと思うところ。

私自身、整経や織りをしながら別のことを考えていることがほとんどでそれを仕事とは思っていないところがある。創意工夫というのはそういうところから生まれてくるものであり、そういう環境でなければ事務所に座ってのデザインワークなんてものは半人前の仕事でしかないだろうし薄っぺらく思えてしまう。

たとえば、経つなぎの作業にしても3660本を準備から初めて3時間ほどで終わる作業なのである。ある東京の織物工場では、外部の人が経てつなぎにくるというが、それは織物をつくる力の範囲が狭いだけで、そういうところから改善が必要であったであろう。機をつくるのも同じで外に頼むより中でできたほうがよい、人が増えても、自分が仕事をするでなく頼む人が増えると本末転倒なのである。アカデミックなものづくり環境がアウトなのはそこで、他の人に支えられる守られた世界でのものづくり。

タイイングマシーンも昔なら200万円とかしたけども、今なら中古の調整済みで10万円から20万円くらいが相場だろう。2日練習すれば使えるようになるものを使えないままに、他の人に頼って仕事していてもその人ができなくなったときにどうするのかという問題もあろう。私もタイイングマシーンの使い方を教えてもらったのは30分ほど1回だけ、あと分からないときに2、3回たずねて、今まで100回つないだかつないでないかだけど、目の前の仕事からは逃げない。綿もそうだが、今日の絹紡シルクなんていうのはタイイングマシーンで繋ぐのはすごく簡単。麻の細番手は手ごわいところがあるが…。

私が、職人さん以上に織機の修理も調整も上手なのは、現状を記録していつでも元に戻せるようにしながら調整を加えること。そういうのが昔の感覚で修理や調整をする職人さんには無理なところでスイートスポットを見つけるのが難しく、私の経験したどの職人さんでも私のような調整の方法はされず、感覚的な調整が仇となることも多い。レピアの横糸のピッカーの糸を押さえる部品なども昔に取ってしまっているけども、本当は必要な部品でその意味が分からないところから始まるのが今の時代の高度なものづくりには対応ができないというあたり。機械を作る人というのは案外、正しい構造を考えていて、マニュアルすらももうないけども、使う人のことを考えて作っているけども、使う人が織機を作った人の織物に対する考え方を理解せずに適当に仕事していては正しいものすらつくることは難しい。

私が30代、40代で普通の職人さん以上に厳しいというのは例外でなく機屋なら普通のこと。60、70歳の職人さんでは、ちょっと難しいが難しすぎて食べて行くのも難しいというのをこの仕事についてから常に感じていたことがある。織物の仕事なんてどの工程でも基本数日でマスターできる普通の仕事なんだがと思うことが多い。あとは実践するのみである。結局は、一番大事な実践が苦手な人が多すぎるのである。

タイイングマシーンでつなぐのが苦手なら他の織機を動かしながら手で繋げばよいだけのこと、それができないと食べて行くのも難しいのだが、なかなかそこの食べていくところまでいける人が少ないのである。私がコンビニの仕事のほうが忙しく大変だと思うのはその辺りで、織物の仕事なんて緊張感も少なくのんびりしすぎていて食べてゆけないのも当たり前なのである。普通くらいの仕事意識が大事である。
2016年11月28日
今日、ファックスを数日振りに確認したら、大阪の社長さんが72歳で亡くなられお通夜と葬儀の案内が届いていた。大阪の社長さんとお会いしたのは3回ほどであったが、仕事を仕事と割り切ってされている姿には、ゼロからでも仕事を立ち上げ仕事をする環境を提供する人だなあと思える。その会社には若い方が溢れていたのを思い出す。人を育てるということを考えておられ若い人を集めて活気のある会社だった。でも、きれいごとじゃない仕事の本質的なことを背負える若者を作ろうとしておられるのを感じた。プリント工場だったが、若い人に社長がいうのは、うちはペンキ屋ですよ、それでもあなたやりますかという覚悟を聞いて仕事を始めてもらうスタイル。

私も似たところがあるのは、織物の仕事をしたいという人があれば、簡単なことですよ。今、糸を結ぶ練習から始めればよいだけ。切れた糸を根気強く直すのが麻織物の基本で、そこから麻織物の価値が生まれると思っている。

割りきりが必要だと思う。自分がきれいなポジションを取りたがれば、他の人が汚れる仕事を取ることになる。なんでもする覚悟で仕事を始めないと、結局、なんでもできる一人前にはなれないのである。熟練した人が当たり前に毎日やっていることなんて、本気になれば素人でも数日でできることが多いものである。本気になれるかなれないかが大事なのである。熟練した人でも本気でなくなれば素人未満もありがち。

今、私も47歳、亡くなられた社長は72歳。私の先代がなくなったのは69歳。あと20年かと思うが、私が仕事してきたのが20年なので、20年というのは、それほど短いわけでもない。できることは、今まで以上に力を注いだ作品というものを手がけてゆくこと。今の一つの目標は売れなくても良いので、自分が満足できるものを残したい、一年に50種類くらいの近江上布の広幅が生産できるようになりたいと思う。




2016年11月25日
今日は、シャトル織機の調整。今まで動いていない織機を動かすということで、動いている想定で動かそうとするが動かないほどにバランスがおかしい。一番困ったのは、経て切れの感知のタイミング、これが運転に入れるのを邪魔している。こんなはずはない。とりあえず後からこの部分は調整を加えることにして、この部分をころしておく。横糸切れも感知がおかしい、こちらも、以前使っているときから調整が無理ということで細工がされているが、こちらは、調整すると正しく感知するようになった。

他に、ステッキをたたく強さが弱いとかや、逆に、ステッキを戻す強さが強すぎるなどの調整。あと縦糸が強く張りすぎているのでその強さを緩めるために後ろのウェイトを軽くするとか、感覚的な調整が多い。私自身、こういう調整はいつもやっているので動かしてみて、感覚的に不自然に思えるところを一箇づつ正しくあわせてゆくだけのことだと思う。基本、単丁の織機でシンプルなのはシンプル。調整の怖いのは、調整がまずいと、どこかに力が掛かって、鋳物がポキンと折れてしまったりすること。

音とか違和感には注意してないと駄目。後、気になったのはソウコウ枠の高さの調整が調整しきれないこと。ソウコウ枠を引き下げる側の下の棒が2本とも溶接されて短くなっている辺りが少し怪しい。前に動いていたときに折れて短くして綿とかで織っていたのだろうが、麻だとテンションの調整が微妙になるので織るのが無理とかありうる。今掛かっているのは60番手、でも、縦糸に糊がつけられていて条件は悪くない。

筬がさびていたのを磨いたので最初のうちは糸がももけてくる。これは仕方のないこと。使っているうちに問題もなくなるだろう。とりあえず、縦糸切れをころしてなら数分は動きそうなところまでセッティングができた。調整前は途中何度かシャトルが飛び出していたのも収まって自動で動かせるところまできている、ただし、調整はまだ必要。機械というのは織機も例外ではなく安定的に正しく動かなければ極端な話、動かせば動かすほど、織った布がボロボロで直すのに苦しむとかどうしようもない。それは織る人が正しく織ろうとしていれば徐々に織機というものは良くなってゆく、逆も真なりで織る人が織機のことを考えてあげないと織機は崩れて行く。正しい気持ちで動くように育んでいくのが織機である。、
2016年11月21日
今日は、昼間、色の確認のために指図書を探して2時間くらい時間をロス。

Osodeのデザイナーの位部さんが夕方に滋賀に到着、21、22、23日と会社に来て作業を手伝ってくださることになり。ブランドを立ち上げられて1年ということで、単なる会社訪問ではなく現場の実情なんかも知ってもらって林与と取り組んで何ができるのかという辺りを考えてもいただけたら、また山形の機屋さんでものづくりをされるときに新しいことをされる切っ掛けになればと思える。

位部さんは、山形でシャトル織機も使ったことがあるそうで、横糸の交換などはされているということで、今回織機に関しては縦糸切れの問題をクリアできるようになってもらえるのではないのかと思う。あとレピア織機の使い方も覚えてもらえるのではないかと思えたり。

とりあえず、今日は夕方からは出荷の作業もあったのでそちらを手伝ってもらって、200mほどの出荷もほとんど問題のない布ですらも検品していると結構時間が掛かる作業である。傷も少なく安堵する。夜中11時の出荷に間に合うみたいな作業。こういう検反作業までできる人が機場で織物をおると何が自分の問題が何なのかわかる。普通、現場の織り手さんというのは織ったら終わりの人が多いのだがそれが困る。織機を壊しては修理を他の人に頼むというのと被る。自分が何が悪かったのかを理解すると次から問題も少なくなるのだが、それは他人の仕事と思っている人は上達も少なく下手なままが多い。

2016年11月17日
今日は午前中、現場にお客様。午後から福井で、ミラノウニカのトレンドカラーの打ち合わせ。ミラノウニカのトレンドの理解は難しい、カラーは理解できても柄の説明がイメージしにくく、近江上布のアーカイブ柄の中の候補を、ミラノウニカのトレンドカラーのどのカテゴリーに当てはめてるのが適切なのかが難しいので、柄をそれぞれ当てはめてもらう。それが終わって、私が一番最後の会社だったのでちょっと雑談。そのあと、しらさぎに乗り遅れて、普通と新快速で能登川に戻って夜10時半に出荷を3件終えた。敦賀から新快速一本で能登川まで帰れてそんなに不便ではない。

福井駅周辺は初めて訪れたが、繊維の街という印象。特にシルクが有名。めがねも有名。福井というと滋賀県よりも田舎かと思いきや滋賀県のどの町よりも駅周辺に関しては都会的で滋賀県の田舎さを実感する。滋賀県は本当に田園に囲まれた農業県で商業の町ではないということを実感する。

近江商人は、次男三男が、外に出てビルを建てて商いをした。滋賀県には他の県の商社などの拠点がきわめて少ないということに気が付く。今は工場は多いが販売の拠点とはなりえないということであろう。滋賀県でお店などの商売が難しいのもそれに起因しているからかもしれない。近江商人が出身の地で作られたものを全国で売り歩いたということで、地元で名を成すためには、質素に薄利多売という商いでの中抜きを減らし、生産者に利をもたらしていたというところが近江の地が生産が強かった背景にもなるだろう。

昔の話をしても仕方ないかもしれないが鎖国という状況は、今で言う中国が日本の中にあったようなイメージ。滋賀県は日本の中で新興国的な位置づけだったのだろうと思える。しかも近江の大国荘というのは日本でも一番くらいに豊かだったといわれている。豊国村という名前もその名残りだったろう。たぶん、今はいろんな年配の方と話をしていても勤勉さも感じられず逆転もしてしまったと思うが、昔はこの地域の人はとりわけ勤勉だったのだろうと感じるのは、近江上布のようなものが小さな村から生まれていたということ。それが果たして悪いことだったのだろうかとおもうと、この村の農家の家の女性の誰もが、機を織らせたら今の伝統工芸士以上に腕も上で生産力があったりもした。自分を犠牲にして家族の将来ために自分の時間をとことん使うところが今の価値観と違うところだろう。それでどこにも負けないくらいの裕福な暮らしが村にはあった。それが普通になって過疎化に苦しむ村の現在。外の世界の下に敷かれ、他から助けてもらうのを考えていては過疎化も進む一方で駄目だろうと思う。

今で言う昔の価値観というのは、戦後の昭和の経済成長の団塊の世代的、サラリーマン的な価値観。それは世界共通で弱い。世界の先端の先進国でありたいなら人々が個の力が強く、他の人のために働けるような力がないと駄目で昔の本能的に生きてゆく当たり前の力を持った価値観が必要だろうと思える。
2016年11月15日
今日は午後から東京のお客様、手績大麻のペンダントとか、やっておられて、大麻の真摯な普及のイメージすらもがアップなのだが。一方で、大麻吸引のために普及を目指す人々もいる。最近全国をさわがせた逮捕された2件は首相夫人と近かった方々、なんか総理大臣とか国がPRすると違法に近いことが裏で起こりうる。これに対して正面から批判できないのも政治家の弱さ、国民からすると論外なことなのに首相夫人がそれを批判できないほどにのめりこんで最悪。これはありがちな話、トップというのは法を国民に強いるものは、自分自身は法を守るということも意識をしないから、安易な大麻ライフや大麻栽培に大きな危険が付き物である。日本本来の大麻活用の意図が違うからこういう逮捕される人たちとは林与は接点がなく、大麻を育ててそれを織物にという人が少ないのを思う。だから、他の目的がプンプンで危ないのである。

素材は文化、日本は大麻を栽培していたが、日本では大麻吸引なんて文化がなかったというところ、大麻普及では一番成り立たせないとならない部分。害がないとか、医療用大麻認可とかそのレベルの話の人が入ってくると偽善的な部分が入ってややこしい、日本の法律はあっても、取り締まるか取り締まらないかという解釈論でしかなく、法律があっても180度反対の結論になる。

国民は、健全なことを考えているけども、行政が陰湿なこと考えているケースも多い。大麻栽培家や石垣島の件が首相夫人に近い方ながらも犯罪として処罰されるというのは、まだ、法治国家として正しいことだろうと思える。こういう基本が崩れるのが腐敗政治なのであって、首相夫人も自分の大麻普及活動に本質も得ずに犯罪者の隠れ蓑になってしまったことは、大麻の怖さそのものである。首相夫人のような自分で大麻を績んだりしない人が軽々と大麻普及を推進してもらっては逆に迷惑である。首相夫人の息の掛かった大麻栽培家の逮捕よくやったと思うよ。町民の人の裏切られた大怒りな反応も正しいと思う。私も、人々の真摯な気持ちを悪用で大怒りで、偽善者の典型で終身刑でも良いくらいだと思う。

厳しい意見ですみませんが、裏には法律をすり抜けると莫大な利益が転んでいて危ないのが大麻。政治家たちの加減でいい加減な許可とか取り締まり逃れがあると、政治家が裏社会そのものの胴元となる。林与にもいろんな方が、大麻(ヘンプ)素材関連で相談をされるケースがあって、伝統的な神事や手績みようの大麻栽培なんて受領も限られていて、全国で数十件もあれば十分だったりする。たとえ数十件でも、まともにやると食べていくのが難しいくらいなのだから、なんか大麻で一発逆転のような政治的な人々は関わってほしくないのである。今地道に栽培されているところから取り寄せて正しく使うとかされもしないのに自分が主人公になって普及活動とかいうもの自分がその日陰な苦労を背負うって大事じゃないのかと思う。

覚せい剤でも政府の要人と結びつけばノーチェックで密輸も可能で危うく、政治に厚くなると人としての基本的な部分も見失うのは、東大法学部出身の前東京都知事の罰する法律はないとかいう逃れ方、法律で縛られている人たちを目の前にそういう開き直り政治の腐敗そのもので、政治家や行政の腐敗に対しては厳しい刑で対応しないと法治国家といいながらも意図的な法の乱用により不平等そのものでどうしようもないものが上に立とうとする。数千円の万引き少年以下に、政治家たちの多くが、政党がらみの交付金で、何百万円もの裏での搾取でそれが普通で開きなおりでは、国会議員や知事も少年刑務所に入るべき犯罪者レベルだったりするのが普通であったりするのが日本の政治の世界、意図的に取り締まる法律をつくらないとうだけ。
2016年11月12日
今日は、公認会計士の先生が朝から来てくださって決算。昨今のアパレルさんの縮小などの流れでアパレル向けが少なくなっていることや、昨年度はシャトル織機の移設などあってこの一年ほどは生産キャパが半分くらいに落ちていたことや、働く人の力とうものも大きく左右したことがある。

生産キャパというのは産地の工場でも調整は難しいもので、生産期の3ヶ月ほどの間は手一杯で、他の時期というのはシーズン性のあるアパレル需要は少ない。難しいもので、作ったものが製品になって売れればよいけれど、製品のプロパーな販売期間が3月から7月とか、本当に厚くなる7月20日ころから8月末くらいまではバーゲンシーズンで、早くバーゲンに入った百貨店さんほど勝ち組といわれているだけに、バーゲンではチャラにしかならないメーカーさんなどは生産量を控え、昔は5月ころにあった追加発注なども今は難しいのは良く分かる。

地場産業の現場の人というのは単能工的な仕事がほとんどなので、仕事がないと本当に仕事がないのである。閑散期の分まで繁忙期に仕事できるのかというと無理で、よほど変形労働制などを駆使して繁忙期に極力働くようにしないと難しいだろうと思える。実際に林与も何かトラブルがあれば私が朝まで織機を動かすとか、従業員のミスなどのリカバーを常に考えて生産を成り立たせている側面があるから現場がなんとか成り立つところがある。

繊維産業が国内で生き残るためにはという話で、一つは海外の大量型の生産性でコストも海外と同じ水準でコストで戦う量産型と、量産型とは違う要素を持って生産して高付加価値なものを作るという高付加価値型とが、あるだろう。日本の小さな機屋でも、両方に分かれる。白い無地を中心とした生産で安定して生産して大量に作る賃機屋さんタイプと、色柄組織など含め自社で素材開発するテキスタイルメーカータイプがあると思う。

日本らしいと思える後者型の機屋というのが日本でもほぼ全滅ほどに消えていて海外型に移行、林与の手がける平織無地系は特殊な100番手以上の細番手やオーガニックや、シャトル織りなど自分らしさの残るものづくり。小さくても自力的な部分が消えてしまうとものづくりにも強さがなくなり、他と変わらなくなったら存在価値すらもがなるだろう。現場の人が仕事を理解して強くなければ高付加価値なものづくりなんて無理なのは事実で仕事があるもなしも覚悟してやるかやらないかだけだろうと思う。
2016年11月11日
今日も感じたのは能力の高い人というのは自分で何でも前に進めていくというあたりできる人というのは違うなあと思った。こういう人というのは経験を詰めば積むほど強くなっていくので、3年で普通の人が一生に経験をするくらいの仕事経験をする。仕事を準備される側でなく仕事を準備する側に最初から立って物事を進めてゆける。

仕事で迷いみたいなものがあるときにもとりあえず、一つやってみて駄目だったらもう一つやってみるタイプの人が強いと思う。迷っているだけで前に進まずに、議論ばかりというのが良くありがちで、やったとしても1回だけやってうまくいかなかったらこれは駄目と結論付けて続かない人は経験も少ない。面白そうなことなら継続できるような形を模索するのも一つの方法である。

何かやろうとするときに常に何かに縛られて考える人があったりするけどあれは窮屈だなあと思う。専門分野が狭い事務的な人と話をすると他の部分はだれがやるのと思うことが多い。事務的な人でも確実に、いろんなシュミレーションに対応してカバーしてくれる能力があるとそれはすごい力だと思える。一回こっきりの仕事で味気なく済まそうとするタイプの人というのは全体のボトルネックになりやすい。

今日もサンプル生地を送って試作が終わってそれに対しての問題というか指摘があって、それを改善するためになにができるのかという問題。自分以外にエキスパートがいるのかどうかもわからない分野、私も誰に聞くでなく、自分で経験して自分で何が許容範囲狩野か判断して、商品を流していくことで、それが世の中の一つのスタンダードになったりする。普通だと断念してしまうような壁みたいなものがあるけどもそういうの乗り越えているから似たような布は少なかったりする。現場をもって自分で試行錯誤があれば時間を掛ければ生み出していける。そうやって出来上がったものを真似るのは簡単だろうけど違う世界だと思う。
2016年11月10日
今日は海外展示会のトレンドの打ち合わせ、コーディネイターとアシスタントの方が午後会社に到着されて、弊社企画とトレンドカラーとのマッチング。今回は、日本のものづくりの深さを全面に打ち出す3年越しの初年度。良い感じであると思うものも選んでカテゴリーに当てはめていただく。自由度も高く、自分の選んだものをカテゴリーに当てはめてもらえるのがありがたい。

今のものづくりよりも、昔のものづくりのほうが布に力があって、それを軽くアパレル向けにあわせていってヨーロッパ生地と同化してしまったのが、ヨーロッパの人から見ると普通に見えてしまう辺りであろう。特殊な技法のもののほかに日本本来の生地の力が海外での提案には必要なのかなあと思えたりする。私自身、海外の展示会でアジアンテイストな世界のものづくりを眺めることもあるが、日本の生地の世界には、ヨーロッパのブランドが求めるような重厚さがあって、それこそヨーロッパのブランドの捜し求める世界なんだろうと勝手に思う傲慢さ、単なる和柄ではなくヨーロッパのテイストも不思議なのだが共通部分も多い。

実際の生産が楽しみである。どうやって作ったのとか、なんでこんなデザインができるのとか、見てもらう人に力強さを感じてもらえるような布に仕上げたい。それが2ヶ月、3ヶ月の間にできるのかは自分次第で、案外いままで、普通はできないことでもできるように流れが味方してくれたことが多い。一番嫌なのは出来上がった布が自分の想定よりも力が感じられず外れてしまうこと、今までは自分が手を使って生まれた布はそれなりに力があって、最終自分自身で満足しているものが多いが、今回はどうなっていくのかが楽しみ。

林与が生み出すときに、不思議だが苦しみの中から生まれたものが評価が高いから、仕事に対する耐性みたいなものなしにはこの仕事を目指すのは難しいと思う。その裏には自分が苦しんでも他の人が幸せになれそれでよいと思える世界観があったりする。そういう価値観になじまないとものを流していくのも無意味かも知れないと思うのは、自分自身残虐なのかと思うけども、同じ価値観が共有されれば布の世界で単なる布という再集計を判断するだけでなく、布を作ること自体に意味を感じる。

定時で働いて新入社員が1000万円の年収なんて搾取でしかないだろうけど、そういうのがかわいそうな世界ってまさにブラック社会にしか思えない。それを求める人がどれだけ人数の死ぬような苦しみを負わせる搾取でなりたっているかを考んがえないのを思うと、自分が食べていけるくらいでも満足することも大事だと思える。結局は、全体のパイというのは決まっていてそれを自分が取るか取らないかの世界、自分が安定を目指してリスク回避すれば他の人が苦しむという当たり前の世界。働いたものが働いたなりに、リスク背負ったものがリスク背負ったなりに、生きられる社会になればよいと思える。既得権益に溺れた人や企業や国というのはすべてを搾取し台無しにするだけで、消えたほうが社会のためである。

お金を稼ぐ能力というのは学力じゃないという基本も認識することが大事だが、ブラック社会だとお金や力を生み出すのがを努力じゃなく学歴や排他性で、それが日本の搾取的なブラック社会の大元を生み出してしまっている。有名大学の教授で大臣経験者の考えが学生みたいで日本経済を滅ぼすとか、当たり前に起こっていてそれを止めない限りは、最弱のアカデミックな経営思想で、海外の実践的な経営者から抜かれるだけ抜かれるよ。日本の頑固一徹が信念もあって誰が何を言おうが一番強いのだが、それを馬鹿みたいに国レベル否定しているのが日本の弱さ。トランプだけでなく、クリントンにでも人間の幸せはカネや名誉じゃないよといえないと駄目だと思える。
2016年11月09日
JETROさんの商談会の日程が気になって、申し込みを確認すると、申し込みフォーム入力ができていないということに気がつく。午後3時までにということで、ぎりぎりで、気がついてよかった。

今日は大統領選挙の結果が出てトランプ。大統領選で気が付くのは、その裏で経済までもが動くこと、日本の経済までもがダメージを受けるとか。力になびいた安倍総理が2ヶ月前に訪米してクリントン支持の表明、トランプ勝利で鞍替え。こういうのが一番駄目。力になびくだけで日本が国家として半人前なのを露呈、日本の総理ですら政治主張すらもなく保身そのものとか。政治が着地していないと法律や経済、生活にまでも影響を及ぼす。

アメリカの場合には、国内法や外交に一貫性があり、その利害が一国で完結するが、なびいている日本の場合には、国内法や外交が一貫せず、その利害も完結しない。戦争をするアメリカ以上に死の商人国家となりうることもありえる。原発にしてもアメリカからセールスされて断りきれないのが、日本の原発推進行政につながったのであろう。国民を代表する総理大臣や国会議員たちですらも自分の考えがもてないのが今の日本、民主主義国家としての部分すらも怪しくなり、国会じゃなく、他国で日本の政治や法律が決まってしまう部分が多い。

これは軍事的な力にゆだね、国内での生産活動がなくなって、アメリカと同じようなデスクワーク的な産業の高度化をしていくと権利や法律、裁判だけで生きてゆく人が増えてゆく、より自分たちが食べていくときに軍事依存的な部分が高まり追随していくしか仕方ない。トランプ批判は多いけども、日本の国の行政も他人に厳しく自分に甘いトランプみたいな人が多いと思えるので他国ごとではないのである。そして、安倍総理が応援していたクリントンさんは、いろいろと財団関連の疑惑をもった今日からは一市民なのである。フジモリ大統領も日本政府が日本人としての資格があるというが、彼自身がペルー大統領選で、日本人疑惑を否定しペルー大統領にまでもなった人。法律があろうがダブルスタンダードで何でもありなのが法治国家といえない今話題の二重国籍問題と重なる。

アメリカの大統領が立派だなあと思っていたのは、大統領を終えれば引退し基本表に出ない。日本の政治家は元首相とかで居残り政治が腐る。それと似てファーストレディーだったヒラリーは国防長官やったり、ビルもヒラリーも講演会収入などでがっちり。ヒラリーが大統領になったらビルがファーストジェントルマン?だったのかと思うとその美徳も完全に崩れる。人生というのはある時点で次に譲り世の中を支えていく立場に戻るのもよい方法だろうと思える。
2016年11月08日
今朝は、朝に、お餅を溶かして餅のりを作って、型染めのテスト。市販のお餅を買ってそれを溶かしたので固まり具合があんまり良くなく、外で乾かしたら雨も降ってきて、今回は失敗、工夫が必要。何か新しいことをするときに、最後に絶対に成功するという想定で物事を進めていくのは大事で、そういうのが仕事だろうと思うので、失敗も経験のうちで最後に形にすればよいと思うのだ。

午前中に出荷した後、昼すぎに、倉庫の検反機を使いながらストールの撮影とか。午後の海外発送の後に、八日市のたねやさんでお土産を買おうとして立ち寄るとどうやら休みっぽくて、近江八幡のたねやさんに向かう。小雨の中、店内に入って、いくつかお土産を購入を検討中。お土産選びに一生懸命になっていると、「林くん」と声が掛かって、あらまあ、滋賀麻の社長が私がいるのを見つけて声掛けて下さる。子供の頃から知っている仲同士なので、50手前でも、私的には、なんか小学生同士か中学生同士が会う感覚である。

会社に戻ったら、昨日出荷した荷物が届いていないということでそれの対応と、JETROさんの12月の商談会の提出締め切りが明日なのでその準備をした。夜には、クリエイターの方が東京に戻るので夜行バスの乗り場に、今まで知らなかったが西武バスが夜行バスをしていて、駐車場が無料らしい。早朝に東京に着きたいときには、他の会社の夜行バスよりも便利かもしれない。
2016年11月06日
今日は風の強い一日、朝、来春から林与に在籍してくれるクリエイターの方がすむところの下見に来るので草津に迎えに行って、そのまま京都の川端商店さん。万葉添めの染料キットを購入する。ついでに京都の秋の雰囲気を満喫。会社には午後に戻って、午後、住むところの下見。たぶん、築、80年くらい以上にはなるのか。古い1軒屋がいいというので探していたところにたまたまの会社に近い物件で、家の中も毎月1度持ち主の方が管理してくれていてすぐにも住める状態。気に入ってくれて決まった様子でありがたい。














2016年11月05日
ハリスツイードがなぜ今も生き残れるのかというと、織機が量産向けに改良をされていて、現代的な広幅対応でおることができるからである。電気を使わずにペダル式にしたりして、織機を動かす。現代的な機械技術で動力を使わずに人力で動かして手織りを謳うという形。日本の伝統工芸の世界とは異なる概念で進化しながら普通の工業として生き残っている。

8割以上が日本へ出荷されて日本でブームとなっている。語られるのは昔ながらの手作りの世界であるが、どう考えても普通の手織りであの量産は無理、機械技術で人力で動くようにしてのところで、日本でやってしまうと日本の概念からすると手織りとはいえない。ハリスツイードのほとんどが日本向けながら、一方で、日本の伝統的なものがヨーロッパで評価されるのもそういう部分があるからだろう。

織物のプロがみれば、今のハリスツイードは、一見して手織のラベルをつけるのが無理な織物なのである。日本ではその手法は、もはや手織りとは呼べないながらも、現代的な人力織物と呼ぶにふさわしく別の意味での評価はあるだろう。琵琶湖の鳥人間コンテストで、人力で飛ぶ飛行機を思わせる。人間がエンジンの変わりに、こぎ続けることで織物が生まれるのだろう。逆に単なる動力の代わりが人力というのも少し悲壮な気もするが、自転車をこぐような気分で織物が生まれていく世界も悪くないだろう。

商社というのは売れればよいという感覚なので、消費者に真実が伝わらないことも多い。日本というのは食品でも偽装が問題視されるもので、そういうところが一番気をつけないとならないところだろう。手織りを謳えば、日本の消費者が勘違いしてしまうケースが人気のハリスツイードにも存在してしまっている。私自身、ハリスツイードの技法や設備を知っているので、一般でいうところの手織りとは解釈していないが、ラベルのHANDWOVENは、当初の頃の本当の手織りの説明が技法が変わっても続いているのだろう。

手織りをやめて人力でどこまでできるのかがハリスツイードが生き残れたことに大きく関わっているだろう。
2016年11月04日
仕事というのは誰にでもできるものではないと思うのは、覚悟の問題から始まる。今の時代には小学生が最初にミシンを触ってかばんを作ってしまうが、大人というのはその覚悟がなくて最初からできないのが当たり前みたいなところから始まってしまうケースが多い。今の学生さんたちというのは優秀であって、初めてのことでもすんなりとできるのだが大人がどうしてなのと思うことが多い。

林与は小さい会社なんで、私が決めることがほとんどすべて、逆に大きな会社の方と話すると自己決定が難しくものづくりの会社機能が成り立っていない気もする。特に小さな費用も検討しないといけないとかは、費用を最低限に抑えて最大の効果を出せばそれは検討の余地すらもないことだと思うのだ。普通は費用以上に自分が何十時間もインプットするから費用は無視できるような範囲であるが、規模が大きくなると自分自身のインプットがなくなってしまうからだろう。

私の場合には、試作材料費なんか自費で済ませることも多い。何かするときに答えをださなければマイナスであるという自分に厳しい考え方。何をやって答えがでるかとうのは自分だけでなく外の評価もあるので、とりあえず、いろんなことにインプットして何が成果があるのかをトライアンドエラーで見出してゆく。結果が出て成果がでれば自分も食べてゆける。

小さな会社の場合は、会社として外から見て特別な感じがしないと、普通の会社に見えたらそれで終わりかもしれないと思う。産地でも、ある会社の社長さんが、私にこの産地は織物工場はゼロになると断言をされていたが、生産規模からすると実質ゼロに近い状態であるという裏返しであろう。もう、実際に織物を織っている工場は林与のほかあと数件。技術と創意工夫をもって魅力的な麻織物を生み出せる人がいなくなれば、織りにしてもデザインにしても他で代替できるような辺りになってしまう。

ものづくりしてもそれを流していく販路をもっていないとなかなか難しい話である。今は、既製服で、1着が10万円を越えるようなものが国内では流れにくくなっているので海外を目指してゆくべきなのだろうなあと考えている。海外にこだわるというのでもなく、自然に流れてゆく場所を探してゆくと海外なんだろうなあと思える。楽しみにしているのが林与のオートクチュールを目指すライン。量産可能な一点ものとして現物商売で提案をしていく予定。まだ、準備段階であるが日本のものづくりの歴史も詰め込み無限の可能性を感じる。
2016年11月03日
今日は、米原の伝統産業会館でのロビー展示。朝から準備。想定以上の300人ほどのお客さんがおられて、びっくり。リネンのキッチンクロスのワークショップを子供向けにさせていただこうと考えてミシンをセッティングして持っていったのだが、会場では落語ということで、小学生から大学生の方というのは少なく。主に550歳以上くらいの方がほとんどだったような感じでした。

他の展示は、陶器、和ろうそく、仏壇鋳造、観光案内などがあって、林与は5年目くらいになるのですが、今回は飛び石的な日程で、会社の仕事の関係で本日のみの展示となりました。来場のみなさんにとっては、特別にプレゼント企画しましたので、多くの方が近江湖東の麻織物に関して知ってもらえたものと思います。

帰ってから出荷の準備。ぎりぎりのぎりぎり。

2016年11月01日
今日はこの前に考えたことを実験する。やってみたがうまくいかない。糸が緩み、このまま絣に織るのは難しい。次に別の案を試してみる。これもまた糸が緩み駄目。そして次の案を試してみる。少し緩む感じ、やはり別の問題があるこの方法しかないのか、という問題。この方法で一回進んでみるというのが一つの方法だろう。11月中に試作を10点くらいは完成したいと考えている。

他にも方法は考えていて平行していろんな方法を実際に試してみるのが大事だろうと思える。これは普段の仕事と同じで、頭でデザインしてもそれを実際の形にするという部分が何十倍も時間が掛り、手間的に小ロット生産のレベルだと可能なのか、オートクチュールであってもリピート生産にも対応できるかどうかという部分との兼ね合いもある。

ひとびとに感動してもらえるような麻布を生み出したいと考える。