for English speakers: Welcome to HayashiyoWelcome to Hayashiyo
リネンや麻を織る日々をつづっています。
ホームリネン日記2018年12月
2018年12月
リネン日記:18
2018年12月31日
シャトルの管を立てる管立てが、12本が一列になっていて巻いた管が狭すぎて入りにくいので、10本×10本の管立てを作ることにした。一つだけ作っても便利じゃないので、管が1000本以上はあるので、100本立てられる管立てを何個かは作りたいなあと思ってコメリに行く。コンパネを1枚買って32cm×32cmで10枚カットしてもらって10cmほどの釘を一袋4kg買ってボール版で100個4mmで穴を開けて、釘の先端をカットしてから打ち込んで、ひっくり返して、一枚裏に板を当てて四隅を小さな釘で底から打って、32cm角の剣山みたいなのができあがり、いい感じ。

早速、使ってみると。使い勝手が非常に良く、管に糸をシャトルにギリギリ入るくらいに目一杯に巻いて作業効率を上げる。1列10本にしたことで、数を数えやすく残りの数も数えやすくなるので、コントロールがしやすくなる。こういうことがしたかったをこの年末に実現。けども、こういうことは2の次のことでこういう経営改善ばっかりしても意味が無いとは思う。またこういう経営者の作業現場の効率化というのは、作業しているものが自分で生み出してゆかないと、単純作業化されてゆくだけなので複雑な考え方などできなくなるというマイナス側面ももっているだろうと思う。簡単なことだけしかできないとか、用意してもらわないと出来ない人が増えることにつながるので、口頭で伝えてそれを作業している人が書き取って自分で考えて仕事を効率よく組み立てるようなプロセスも長期的に考えると大事であろう。

織物の縦の糸が切れる問題も原因が分かって対策を考える。たまたま別の用途に使う予定だった櫛を沢山買っておいたのが大活躍で、この1ヶ月くらい私を悩ませていた縦糸切れの問題は解決。これが解決するのと解決しないのとでは大違いで織れば織るほど問題が増える状態から、ほぼ、横糸がなくなったら交換するだけの状態でキズの数も1反で数箇所に。
2018年12月30日
年末年始に織らないといけない状況で台数を減らして速度を落として付随作業も並行して行う。また、防音対策として少しでも音を抑えられるように吸音材と遮音シートをコンパネに貼って窓の内側に取り付けた。付随作業も多くあって、1月中に終わらないといけないものが8案件くらいが動いているのでどこまで並行して進められるか。今日は一日中作業、外は年末年始で止まっているので、ゆっくりと作業に集中できてありがたい。

私自身、じっくりと作業する時間がいつもないのでこういうときには落ち着いて便利な工作物などを作り上げる。一つの案件が太い糸なので、シャトルの管に巻くのが追いついていない。シャトルの管も400本ほどしかなく少なめなので、会社にあった形が異なるシャトルの管1000本以上あるのを使うことを考える。シャトルは予備に大きさは同じでも中の管の受け口の形状が合っていないものなどを手に入れておいたのでそれを活用することに。

シャトルの管を挿す金具を取り外して、光感フィーラー用の金具と取り替える。挟んでしまって壊れたシャトルから金具を外して、取り付けて丁度金具の先端が糸の通る穴の中央辺りにくるようにバイアスと金槌で金具を矯正。シャトルには光感フィーラー用の穴も空いていないのでボール盤で穴を開ける。

シャトルのテンサーのゴムが劣化しているので交換して出来上がり。シャトルを織機にセットして織ってみると、フィーラーが反応して織機が止まる。おかしい、管の光は漏れていないのに止まる。原因はあるはずなので、一休さん。シャトルから糸が出るところについているテンサーの形状が、貫通していてそこにテンサーをはめ込む形状なのでそこから光が通ってしまうからと原因が分かる。で、どうしたらよいのか、この穴をふさぐと糸が切れたときにテンサーを押し出してテンサーの中を糸を通すことができない。が、このシャトルのテンサーの穴を塞がないとシャトル織機は正しく動かない。

結局、塞ぐことに、あとは作業するものが器用に糸を通して解決すれば良いだけのこと。シャトルの管の長さが今までのものよりも少し長いので、糸を管に巻くシュワイターの調整も必要。長さには対応できたけど、巻く具合がもっと管の底のほうからまけないとシャトルの管の光感フィーラー用の穴が巻けた糸で塞がらない。塞がらないと駄目なのだ。シュワイターの調整も30分くらいで終わって、糸を管に巻く仕事は母親に頼むことに。母親に頼むと、巻き終わった管とこれから巻く管の交換がうまくいかないということで、もう一度シュワイターの調整。私にしても問題があるときに初めて触るだけのことで、誰かにしっかりと教えてもらったことというのはほとんどないままで、素人なのかもしれないが、目の前の問題を解決できれば、知識があっても解決できない玄人よりも意味があるとは思う。

このあとも、シャトルの管を差し込むくぼみが大きすぎて管を固定する溝から外れ管が回ってしまい光感フィーラーがうまく働かない問題、すでにほられた大きすぎるくぼみを埋めるなんてことはなかなか難しいのだが、ひらめきでやってみたことが正解でうまく行って。昔の管と予備に購入しておいたシャトルとそのほかの部品を寄せ集めてシャトル織機がうまく動くようになった。
2018年12月27日
冬場は湿度が下がり、乾燥するので麻は織りにくいとされるが、カラッと晴れた春から夏場も温度が上昇する局面では織物が織りにくい。これは乾燥すると毛羽が擦れ毛羽立ちが起こったり、糸の伸度が低下したりするからである。ロウ棒なんかは、毛羽立ちを抑えるのに効果があったりする。蒸気噴霧もそう。

伸度の問題では、縦糸が1本切れているのを直そうとして織機の後ろから切れた縦糸をソウコウを通し直そうとするだけで、左右の縦糸がぽろぽろと切れてしまうほどの状況もあったりする。本来、織れない糸なのである。それを織るためには織機の構造も大事で調整ではどうしようもない場合がある。

糊は強ければ毛羽立ちは抑えられやすいのであるが硬くなり伸度は低下する傾向にある。糊加減というのは大事。糊加減は、引っ張ったらプチンと音がして切れるくらいが良いのである。
2018年12月26日
自分の仕事でもピンチな局面はあったりするが、それは努力すれば打開策が見えてくるもので、全体的な方向性を調整するとかで、成り立つ道は見えてくるものだろうと思う。機屋というのは織物を織っているだけでなく、織物を提案したり企画したりもできるので、やろうと思えば仕事の幅が農業と同じですごく広いからだろうと思う。

織るだけに徹してしまうと他力本願的になりがちで、本業以外の一般的な投資とかにはぐらかされてしまうのだろうと思う。分業で成り立つ自営的な仕事をしている人が本業以外に手を出してこけるとか、商売が難しくなったときに大きくこけてしまうのはその辺りだろうと思う。投資的なものごとは儲かるなら本人がやって儲けるはずという、よくある話で、なんで自分がやって儲けないのという話。

同じ物事をするにしても、誰が何をいつどこでどんな風にやるかで、答えはまったく変ってくる。コブ取り爺さんとか、花咲爺さんの話が古典的なのだが、他の人が儲かった話を聞いて同じことをやっても人も違うしタイミングも違うから同じように成功するならそんなに簡単なことは無いのである。コンビニなんて全国どの店舗も同じ運営形態で基本場所だけが大事なのである。といいつつも、田舎だとコンビニも経営努力をしていて、工場地帯にトラックも沢山入れる大きな駐車場を持つ店舗をつくる、お昼は従業員が買いに来てくれるし、夜はトラックヤードとして提供することで深夜も売り上げが立つ。都市部のコンビニのように長時間駐車をとやかく言い出したら商売が成り立たなくなる。

そういうのを考えると織物の仕事も同じだろうなあと思う。自分に適した商売のスタイルを持つことが大事で、林与の場合には出来る限り自分でできることはやってみることで、仕事にも柔軟性を持たせピンチも乗り切れるようなスタイルが良いんだろうなあと思う。
2018年12月25日
投資というのは、ものづくりの基本だったりする。仕事を受ける前に仕事をする準備をしておくとか、仕事を受けて材料を買うとかいうのは投資行動なのである。株やFXというのは値上がりを期待して株価や金融商品が下がれば投資が失敗とみなされるので、ゼロサムな投資で、博打に似ている。本来の株の投資要素というのは配当を得る物であろう。

繊維関係というのも良い時代にはどっぷりと株なんかに浸かるもので、時代が悪くなるとその反動で悪い時代に本業以外の大きなマイナスを抱える。これが本当に厳しいところ。良い時代には本業も株なんかもうまく回るけど、悪い時代には、本業も株もうまく回らない。

繊維の大手の元気な商社も経営が順調だったのが何百億円のデリバティブの失敗でという話があった。経営が順調だったのはデリバティブがあったから、それが溶けたときには本業のほうも改善が必要となって大きな再編を強いられたりするものである。そうなって初めて、まともな仕事では1割2割の利益を上げるのがよいところというのが実感となるのである。裏でお金が2倍3倍になる要素が消え、お金を2倍3倍失う要素を抱えたときに、本業の1割の利益を上げる仕事に投資できるのかという問題、お金を動かせる規模も何十分の一になる苦痛でしかないだろう。

誰かが儲かれば誰かが失うゼロサムなものが裏で本業の何十倍の規模となり、本業がそれに浸かると。本業だけになったときに、本業も温くなりすぎていて普通の厳しさには耐えられないものである。繊維の仕事にしても海外だと子供ができる程度の仕事が多いのだが、なぜ子供が仕事させられ大人は何をしているのかというと井戸端会議だったりする。だから海外の織物は高度化しにくい要素を抱えている。

日本も現場が実際の仕事ではなく井戸端会議ばかりになると簡単なこともできなくなるし、実際の仕事するのは他の人みたいな感覚が増えると大したものは出来なくなる。自分自身が仕事して生み出してゆかないと人から取ることを考えては本質的ではないのは、本業以外で儲けようとする経営者と同じで続かなくなるものである。

経営者の考えが本業を大事に労働者も仕事を大事にするような体制だと一枚岩みたいなところがあるが、繊維関係でも、よくある状況が仕事が仕事が分からない面倒だとか、これしか出来ません、というような現場を抱えた会社になると先行きは暗いのが当たり前だろうと思うが、そういう雰囲気を出さないようにしてゆかないといけないのは、なかなか難しいことだろうなあと思う。

面倒そうな話で駆け引きばかりで、外と釣り合いが取れないほどの妥協をしてものをつくったところで、次はないのである。普通の仕事で投資しないといけないという感覚は、誰かが持っていないと何も生まれてこないことになる。何十年の経験者でも、織れるまで用意して何週間もほったらかしで、織ったら勝手にさわるな、いやなら自分でやれといわれ、自分で織機を入れ替えして乗り越えたり。ある問屋さんでも、自分を通してやってくれという話だったら、その問屋に嫌なら自分で売ったらよいと簡単にいわれて、それでよいのかと自分で生地を売り出したことで変な義理立てからも解けて、ややこしさもなくなる助かる話。

仕事があってもできないとか成り立たないの外部要因と内部要因をまず解消してゆくことが大事だなあと思う。覚悟して仕事に取り組める人でないと難しい、私が先代にしても母親にしても、目の前の仕事でもできるのに面倒がって逃げていたから、若い世代の仕事できんのと覚悟が変らんところがあったりするので、やるからには正しい姿勢を心がけているのはそこである。仕事を始めたときに教えてもらった一人の人がすごく仕事が上手な人で仕事の姿勢も前向きでそれが私の仕事の考え方を支えている。
2018年12月24日
年末年始というのは物販の商売にとっては稼ぎ時というのがあるだろう、製造業にとっては基本的には休む側。小さな機屋で、麻関連なら休んでいるどころではないので、私自身早くに覚悟を決めてこの10年ほどは年末年始も仕事をしている。

年末年始の思い出で3つ。1つは、京都の小さな染色工場をお金払って3日借り切って布を染めた思い出、3日駐車場に寝泊りして染をやったこと。2つは、弟が帰省したので弟が手伝ってくれてシャトル織機を設置したこと、弟は有能だなあと本当に思う。3つ目は、型染めを年末年始の2週間寝る以外試行錯誤でこってりとやったこと、これが近江上布柄を広幅で復活させるための染の基礎となった。

予定していなかった大きな問題が発生したからということがある。京都の染色工場を借り切らないといけなくなったのも、見本を手伝ってくれた方と連絡が取れなくなって自分で本生産をしないといけなくなったから。2つ目も、どうしても織れないのが3つもあって、その3つを織るのにシャトル織機の調整で数ヶ月使うも断念。移設したシャトル織機を設置してその3つが織れた幸運につながる。3つ目は、補助金も得て、手描きがうまく行かず、本格的な型染に切り替えることで乗り越えた。

他にも年末年始の仕事にはいろんな思い出があって、通常の生産だけでなく特別なことをやっていることも多い。みんなが憧れるのが特別な仕事なんだろうと思うけども、そういう特別な仕事というのはどうしても時間が掛かるので、本業とは別のところで解決したりができないと成り立たすことも難しい。そうでなければ普通のことしかできない機屋に終わり、働く人が毎年、年を取って仕事がどんどん難しくなる中、残ることも難しいだろう。

これは機屋だけのことでなく、京都の染色工場なんかの事例をみても、やっていることは数日やればマスターできることで、それで一生食べていくというのも競争も激しく難しい話だろうなあと思えたりはする。普段仕事をしていると余裕の時間なんてないので、高度なことをしようとするとどうしても外の休んでいる年末年始なんかが一番良いタイミング。いろんな面で苦労はしながらも、自分はツキがあるなあと思う。
2018年12月23日
江戸時代には、高級であるとされた青苧が、全国規模で大麻で代用され上布産地でも大麻が主流となってきた。この流れには逆らえず、近江上布の原料の供給元であった能登の原料も青苧から大麻化したようである。近江においても江戸時代後期の能登川地域の上布はすべて大麻とされているのもそれが所以であろう。越後や近江は江戸時代を通じて東北の良質な青苧を近江は近江商人の手で運び入れ青苧の上布をつくり続けていたのである。ほかに赤苧織物というのが青苧織物よりも上とされ、近江、越後、宮古などの上布の産地では赤苧織物は記録に残っている。今の時代に赤苧織物を再現することは容易ではない。

戦後も、上布の産地が麻織物の生産を続けられたのは、上布の産地が大麻と苧麻の両方を生産していたからだろうと考えられる。大麻だけを生産していた産地は生産を続けられなくなって、戦後は大麻栽培が禁止されたことにより、戦前に大麻織物を生産していた地域も、戦後は麻織物の産地としては消えてゆくことになった。

なぜ、青苧織物が大麻織物よりも高級とされたかというのは、青苧織物のほうがシルクのような細く繊細な織物が織れ光沢感もあるからであろう。また、上布が高級品とされるのはプリントではなく絣に織られるというところで、上布の産地に共通した特徴であろう。日本人の布への共通した価値観が感じられる。

なぜそのような高級な布への共通の価値観があったのかと考えると、それは昔はほとんどの人が織物の製造に携わっていたからということがあると思う。なぜ、近江が地麻を使わずに東北で績まれた苧麻糸を使っていたのかも、分からない気もしないではない、近江商人の存在により日本で一番品質の高い糸が手に入ることになった。原料からしても細い糸を績むには、寒い地域の東北の原料のほうが上で、雪に閉ざされる時間も長かったからであろうと思われる。
2018年12月18日
最初にパソコンが出始めたころというのは、ゲームなんかもいろいろと作られていて、今の携帯ブームみたいなものだったと思える。私自身が思うのは、みんなが使うソフトウェアというのが、ワード、エクセル、とか、あと専門職のひとたちは、フォトショップやイラストレーターとか。ソフト自体よりも、データの共有が重要視されて、英語が国際語であるのと同じく、世界中で言語は別としても同じデータを共有できるというあたりが重要だったりする。

ウェブなんかもHTMLという言語で書かれていて、その言語に従ってつくるか、その言語を生成するソフトでデザインしてウェブにアップすれば、そのページは世界中で見られる。ツールを使いこなせれば、出版社と同じようなことができることになる。SNSなんかもその類であろう。また、郵便なんかもEメールに置き換わってきた。銀行に行かなくてもネットバンクとか、買い物もウェブでとか。

もう、お店に行ってもあまり在庫がないとかが多くなってきて、ネットのほうが豊富に在庫もあって、自分の知りたい情報も店員に聞くよりも手に入るということが多くなっている。今日も、SDカードのメモリのことでメーカーに電話で直接問い合わせたが、店員に聞いてもお店に無いものは無いで終わることも多いのである。聞いた店員さんがたまたま詳しい人だとよいけども、普通の人も沢山働いているので同じ質問でも聞く人によって答えは変わってくるのである。

私も作っている側なので、生地に関する細かな質問なんかは私以外のほかのものが分からないことが多い。聞いている人も分からないかもしれないが、つくっている人たちのほとんどの人が分かっていないのだから、それを売る人が正しい知識を持っているということは現実的ではないだろう。
2018年12月17日
私の使っているノートパソコンが液晶の乱れが出てきて限界を感じる。中古で同じタイプの新しいのを手に入れる段取り、高性能な携帯電話が10万円とか越えていてもやはり、ノートパソコンのほうが便利だったりするも、数年前のタイプなら3万円も出せば手に入る。

読み書きそろばんというが、今は、田舎の自治会の経理や案内にしても手書きということはないし、パソコンが使えないと年配の人でも困ることは多い。私の母親はパソコンとかは、アレルギー的に目が悪くなるとか、毛嫌いしていたので、それが次の世代にも影響を及ぼしている。周囲にパソコンを使える人が少ないのである。

それほど難しくは無いのでやればよいのにと思うけども、普通のひとはキーボードをタイピングあたりが一つの壁になって、そのあたりが出来ないと文章を書いたり直したりも難しいので、それに関しては気の毒に思う。私自身は小学生の頃にパソコンが出始めたので、一番良いスタートを切れたと思う。

もう一つ言えば、その前には、家にシャープの緑のデジタル表示の計算機があった。電機メーカーの中でも、PC98を作っていた日本電気が一番で、富士通や日立、東芝などが家電メーカーらしかった。シャープやカシオは異端児的で、つくるパソコンもちょっと特別だった。シャープやカシオはポケコンも作っていて、そのあたりが、他のメーカーとの違いだったと思う。

いつもバタバタしているときに、プリントがうまくできないとかが多すぎるので、今はプリンタも3台使えるようにしてある。パソコンにしても、何台も持っていて用途に応じて使い分けるほうがよいような気がして、何台も持っている。汎用的な状態から、使う用途に応じてパソコンを特色付けて使い分けるのが、織物の織機を使い分けるのと似ている。

中古の織機もそうだけど、中古のノートパソコンも自分と相性の合うものを何台も置いておくと、作業が捗って幸せに仕事が出来るのである。自分が持ち運ぶ1台以外にいろんな場所にそれぞれの作業専用のパソコンがあることで、ごちゃごちゃしなくって良いのである。経理は経理用、ネットショップはネットショップ用、在庫管理は在庫管理用、織物のデータ管理はデータ管理用。デザインはデザイン用。今はデータはサーバーがなくても、クラウドで管理できるので有難い話である。
2018年12月12日
田舎での自転車の車道走行は、人命に関わる問題だったりするけども、あんまり人命も考えていない人たちが法律をその場しのぎに変えてゆくのだろう。免許の更新でもおじいさんが自転車で歩道のあるところで車道を走っていて、車に轢かれて死亡事故のケースをモニタでやっていて、注意しましょうということだったが、誰も歩いていない歩道を自転車のおじいさんが走っていれば、最初から安全で、命すら守れたのにと思うけど。法律が命を奪っても仕方ないで終わる。

都市部で歩行者が多いのに自転車が歩道を走るのが危険というのも良くわかるけども、そういう場合には状況に応じて、法律をしっかりと使い分けしないといけないのである。そういうのが命を犠牲にしようが面倒なんだろうと思う。田舎だと自転車が歩道を走ろうがほとんど問題がなかったのに、自転車が危険な車道を走ることになる。歩道に自転車通行可の整備すらできていない、それが危険を生む。国道で自転車が車道を走れということが法律になるが、国道でも安全に歩行者は歩道を歩けても、自転車が車に追い越されるたびに相当な危険を生む。

人が沢山死なないと法律は変わらないのだろうけども、できるなら人の命が奪われる前に、法律を人が命を奪われないように改正すべきだろうと思う。面倒がらずに、都市の状況と田舎の状況を使い分けて違う法律で人の命を守る。地下鉄や鉄道が整備された都市部では、少し歩けばいろんなことが可能になるが、田舎というのは地下鉄もなければ鉄道も無い。行政が十分なインフラを提供できず、その分自分たちで解決して行かないとならないといけないことは多い。

まあ、田舎で歩道を自転車が走っていても法律違反のケースでも警察も分かっているから捕まえることはないだろうけど、命を危険にさらさないと法律が守れないような法律というのは、本当に愚かすぎて、法律を考えるものの能力不足そのものだろう。滋賀県なんかは、従順な人が多いので自動車の昼間のライトの点灯運動なんかもあったりしたけど、今のバイクのように常時点灯しか選べない仕様なら問題ないけど、あんなのが法律になると法律違反が増えすぎてしまうという問題は考えないのだろうかと思う。究極を目指そうとすると現実が見えなくなるもので、今、それほど問題なく行っていることすら成り立たなくなる。
2018年12月11日
久しぶりに自転車屋さんに行ったら、小学生のときから自転車をみてもらっていたおじいさんがストーブの前で車椅子にのって居られた。92歳だそうで、最初は分からなかったみたいだけど話をすると覚えていてくれてうれしかった。

その息子さんでも、区長とかされているので70歳近いだろう。タイヤの空気が抜けたのを見てもらった。自転車屋というのも昔のように自転車も当たり前に売れるわけでもなく、量販店で買う人も多くなっているので、もう新しい自転車は売ってないに近いだろう。

最近は自転車もルールがややこしくなって乗る人が減ったと思う。田舎だと活躍していたのだが、自転車は道路を走るとか、田舎だとやばすぎる法律の変更で、自転車に乗るのは危険な状態。子供が自転車で歩道を走るくらいが丁度よいだろう。お酒のんで自転車乗っても飲酒運転とかなので集落内の近い距離なら歩いたほうがましだろう、保険も入らないといけないとか自転車すら乗らざるスタイルがややこしくなくてよい。自転車屋さんが成り立たなくなるのもそういう要因があるのだろう。
2018年12月10日
昔、同志社大学の校友会が寄付金の運用を株式でやって、15億円消えてしまったことが問題になった。寄付をする側は、1万円でも母校のためにとやったのだけど、託した気持ちの重みを感じないものは、安易に手をつけてしまう。寄付金なんてものは善意の塊だから増えなくてもよいから正しく使わないといけない。

同志社の創設者新島譲が、貧しい農民から何ドルかの寄付をもらって、それが元になり帰国し英学校として同志社が生まれた。12人ほどの学生だったが、言うことをきいてくれなくて、悔しくて自分の手を鞭打って、国禁を犯してアメリカに渡り、明治の開国の日本の通訳としても活躍した新島だが、小さな英学校の先生として、うまく行かないことに自分の手を鞭打った。

寄付金15億円溶かした交友会会長も、そういう逸話のすべてを良く知っている人で学生には壇上でそれを諭し、寄付金を集めながらも、大阪証券取引所の名士だったこともあり、大阪証券取引所の大量の架空取引などにも手を染め、自利のために国民を欺くなど、母校の代表的だった校友会会長が、一転して母校の恥ずべき人物の代表となってしまった。

本人としたらすべて母校のためだったのだろうけど、基本を逸脱すれば駄目、寄付金があぶくで増えても寄付した人は誰も喜ばないのを分からないと。あぶくで身をたたせるとそういう道に落ちてしまう。自分のお金を使いながらうまく成り立たなくても自分で自分の手を鞭打ち、気持ちの面で常に正しいところにいないと。自分が卒業式で、その会長の挨拶を聞いて、諭す言葉は多いがありきたりな権威主義的で、ありえないほどに同志社の新島譲の精神を理解していない違和感を感じた。卒業式が、母校の校友会の存在を知ったのも初めてで、校友会に対するすごく悪い印象が校友会会長の挨拶で印象ずけられ、卒業生がそういうのに引きづられないほうがよいだろうなあと見守っていたので、経緯としてこんなところに書いている。

日本の年金なんかも正当化するために、自分の老後を守るためだからと強制していたのが、案の定、30、40年後の払わないといけないタイミングになると、世代間扶助とか言い出すし、都合よく年金記録も消えて、莫大なカネをいくら行政の人間が盗んだ人がいるのかも分からない。取るだけ取って払うつもりすらなかったというのが日本の国の年金行政なのであり、まったく誉められたものではない。年金を溶かしてしまう可能性のある株式に投入するとかも異常な話で運用益が出たとしてもあぶく銭なのであり、人が地道に働いて預けたお金を運用する方法としては、あぶくな方法で誰が責任を取ることもなく老後が逆に不安定になる。
2018年12月06日
この前、丸亀うどんを半年振りくらいに食べた。丸亀うどんも地元に登場したときは衝撃的だったけど、今は誰もがいうのが普通みたいな話。ぜんぜん悪くないと思うけど、そこまでしていても普通に思われてしまうのは厳しいくらいの話。かけうどん大を食べてかわら版もらえた。中に100円割引とか、半額とかの券が付いている。経営努力がすごく見える。つゆかけご飯が載っている。だしは無料だから、130円のご飯を頼めば楽しめるということ。

同じく幸楽苑というラーメン屋さんもあったけど、290円のラーメンで、1000店舗を目指して今は縮小気味で、彦根も閉店した。コンビニもそうだけど閉店するところが増えている。広がるときというのは簡単なんだけど、縮小するときが難しいんだろうと思う。フランチャイズは雇用じゃないから広がるんだろう、だがフランチャイズ加盟店の経営の現実は厳しい。裏と表の世界が逆というだけで、表が業績好調なときでも裏は成り立っていないのである。やれば儲かるという言葉にのせられた投機的な側面が大きい。

見える側面と見えない側面、日産の件でも、日本人の経営者が雇用を守ろうとして業績が上がらないケースがある。当たり前といえば当たり前で、日本の経営者だと雇用を守ることが一番であるかのように行政が存在する。結局、外国企業に身売りする以外に方法がなく、外国人経営者が何千人のリストラやコストダウンを強いて当たり前に業績の回復で、行政もニコニコでマスコミ的にも美談なのが、なんか一貫性もなく経営の難しさだろう。自由な競争ができれば日本企業も生き残れるだろうけど、行政の内弁慶な体質がつぎつぎと経営努力をつぶしているところがあるだろう。見方さえ変えれば日本人的な経営というのは雇用も守ろうとし一人が何十億も取らないでそれをみんなに分配して分かち合う要素は大きい。

特許がどうとか商標がどうとか、人がつくりあげた実質のないものだけが法律で守られて企業価値みたいな形で、売買されてそれで終わりみたいな。今、中小や零細企業の後継者の問題があるけども、そういう企業M&Aの売りが、儲かっているのに廃業だからもったいないみたいな感覚。その感覚で後継者を見つけると難しいだろうなあと思う。

そういう企業がオンリーワンで生き残っているのはその経営者の人の部分であろう。私の同級生の親父さんがされていた10人ほどの従業員がおられて福利厚生もしっかりと自慢だった経営者の織物の工場が、経営者がなくなられると廃業というのも良く分かるのである。面倒を見る側と面倒をみられる側、面倒を見るものがいなくなれば終わりというだけのこと。本当は、中で面倒を見る側に育っていかないといけないのだろうけども。育てるということあきらかに難しいのが日本の国の行政的な考え方。面倒を見る側の人がどんどんと減っている。

行政が、企業後継者を探そうとしても、面倒を見るというところできる人を見つけないといけないのだろうけど。そういう重い部分に目は行かないだろう。私自身、ある織物工場から頼まれてお客さんが困るから織機を譲るので続けてもらいたいという話があったけども、みんなが同じ感覚だとものごとは運びやすいが、感覚が異なると物事はうまく行かないものである。私が動こうとしたのも儲からない仕事でも失われた50年前の世界が残せるだろうから引き受ける価値があると感じたからだけのことで、引き受けること自体が一肌脱がないと駄目な誰もが逃げる重荷なのである。

マイナスで働ける人しか引き受けられないような面倒を見る側の世界。そういうのが普通だったんだろうと思うが、面倒を見られる側が面倒を見る側に回ることがなくなるとそういう社会は続かないわなあ。サステイナブルな社会を目指すというのもそういうあたりが本質なんだろうと思う。エコでよく言われるのが、育むということだけど、育くものと育まれるものの壁が出来てしまうと、終わりなんだろうと思う。育まれたものが育む側に回るようになってこそサステイナブルな流れにつながるのだろうと思う。
2018年12月05日
作業着としてユニクロのボアのパーカーを使っている。もう5年以上になるだろう、ボロボロで限界過ぎて。新しいのを買おうと思ったら、まだ同じものが売っていて3枚買った。着てみると少し素材感が薄くなったか、ベトナム製になっている。ボアの部分も外のファブリックも薄く柔らかく。ちょっと残念、違いの分かる男なのである。なんか今までのより相当軽いが悪くは無い。

私自身こだわりがあったりするので、同じものを使い続けてまた同じものを買って使い続ける。ノートパソコンもそうで、レッツノートの同じタイプを使えなくしては、中古を買って、もう10年近く使っている。誰かが使ったものでもまだ活用ができるので、私のような人間が使えばよいのだと思う。

パソコンに思うのはもう夢がなくなって道具として使うだけになったこと。子供の頃というのはパソコンが新しいものが出ると早くなるだけでなく、新しいことができるようになった。今は、パソコンも性能がアップするだけで、10年前のパソコンでもタイプスピード、返還スピードには十分付いてきてくれるので、なんら問題はない。

私自身、自分の作ったリネンで一番愛用しているのが、ハニカムのタオル。リネンハニカムは今ではどこでも見るようになったけど、10年前に、平織りばっかりだとつまらないので、綾じゃ工夫がないし、4枚ドビーのハニカムをタオル用に織ろうと思って作ったのがきっかけで、数日で出来上がった。それが今もリネンのハニカム織として残っている。

先日、ある社長さんと話したときに、その方もあと10年で何ができるのかを考えておられた、私の場合にはあと20年で何ができるのか。やりたいことはいっぱいあるし、20年というのは詰め込めば10年で一人の仕事の一生分くらいはできるだろうから、まだまだ、新卒に戻ってくたびれるまでやって2回できるということになる。

最新じゃな古いものばかりに包まれて自分の世界を作り上げて行く、でも、私自身は職人的ではないのである。職人というのはながら仕事で考えずん仕事しているような感じで、私の場合には結構確認ばかりで考えて考えて作業しているから。その分失敗が少ないからなんとか生き残れているのだろう。

この仕事は難しいなあと思うのは、一回で確実に答えを出していかないといけないこと。企画が始まったらそれをなんとしても形にしないと、途中問題が起こってもなんとか乗り越えないととうあたり、違和感を感じることで誰かが織機を触ってしまったのに気がつくとかで、原因が分かるとか、織機の音が微妙にずれているとか、糸に違和感を感じるとか、で救われてることが多い。

コンピュータが使えることは織物にとっては良いことなのである。もともと織機の原理からコンピュータも生まれているので、織物と追うのはコンピュータが計算した計算結果が出力されたようなものなのである。ドビーカードはプログラミングと同じだし。若い頃にプログラマーの現場にも少しいたので、コンピュータの仕事も織物の仕事も本質は似てるなあと思うところがある。
2018年12月04日
暖冬気味だけど、週末からは冷え込むという。もう12月なのに寒い気がしないのである。夜工場で働いていても暖房もなしに普通にやっていけてるので幸せで、あと2ヶ月もすれば、春先で、麻を扱っている身からすれば、悪いことではないのだが、冬場に冬物が売れないということは、私の仕事のお客様というのは春夏物も秋冬物も扱っておられるので、秋冬がうまく回らなければ、春夏物を扱うムードも下がる。

それでも、麻はエコな流れからしてもトレンドの主たるもので、価格もかなり手ごろになったので若い方でも麻を選ばれる方が多くなって、麻の専門でよかったなあと思うことは多い。アパレルだけでなく、小物やインテリアなども麻は、ワンランク上の素材として選んでもらいやすい。

日本でこれだけ暑いので、これから豊かになる南アジアの国々や、富裕層の多い中東なんかもターゲットと考えると、一年中、需要はあると考えても間違いではないだろう。
2018年12月03日
仲良くさせてもらっている機屋さんに電話したときに人が多くても大変なだけだという話があった。会社の中というのは出来る人もいれば出来ない人もいる、一番厳しいのは仕事するのも難しいとか、仕事というのはあるとかないとかでなくて自分で作ってやっていかないと本当に仕事をする力があるとはいえないもので、そういう人というのは本当に稀である。

私も仕事を教えてもらったのがそういう方だったので仕事をいつでも自分で生み出す力をもっている。別の人に仕事を教えてもらっていたら手抜きばかりになっていたかもしれない。仕事を教えてもらった方以上に、いろいろと工夫してよいものが出来上がるように詰め込んで私なりのものづくりの手法があるから、普通は難しいことでも失敗が少なく出来上がる。

何十年やっている人が一般的に仕事が上手かというと、産地で織物が衰退していることを考えると、田舎の商店街と同じ現象が現場にあったのではないかと思う。お客さんがこないから一日中店番みたいな雰囲気で、惰性で仕事をしていた。何か難しい仕事があってもそれを積極的にやるような人がいなかったとか。

経験の長い人というのは、問題の本質が見えなくなることが多くて、自分が問題を解決できなくて他の人が解決してしまうと面子が潰れてしまうところがある。綺麗に仕事を終えられた70歳の社長や、別の食品関係の機材をつくられている70歳の方、また、機械開発を電機メーカーでされていて引退後織物関係を手伝われていた方とかは、私が話をさせていただいていても、面子の張り合いみたいなものがなく、珍しいといえば珍しい存在で、そういう人が仕事が出来るのである。

ふた周りくらい違う世代の方でも、そういう先生のような人ばかりではなく、半分以上は相手するのもむつかしい方で、仕事をしようとしてもモーティベーションからして、分からんとか、分からない、できない、からはじまるので、用意と後片付けをすべてこちらが任され、こちらが高度なことをしようとしても、時間がある人がどこまでも時間を取ってしまう。母親がそのタイプで、ちゃんと説明しないから分からないのよと、説明しても自分がこの方法のほうがよいからと別の方法でやってしまって、毎回毎回そんなことばかりの典型で、食べられるところまで上手にならならず、1日来てくれるバイトの学生よりも仕事を頼むのが難しいとかも多い。そういう状況だと面子が先に勝って、簡単な仕事も我流が入って本当に正しくしてもらうのが用意ばかり確認ばかり駄目出しばかりで難しいのである。

産地の問題の本質はそこなのだ。いまや経験の浅い日本人が馬鹿にしがちな海外の繊維産業ほうが正しくものづくりできるようなのも当たり前なのである。仕事もしなくなって正しいものもつくれなくなって、それで産地が苦しいといっても仕方ないといえば仕方ない。人数の多い会社というのは、だらしない人が逃げ出すように規則などで細かく縛らないと成り立たない。私も世界最先端クラスの電子機器の工場の製造現場で働いたこともあるが、田舎の年配の人だと無理だろうなあと思う。一つの失敗も許されず、確認作業ばかり、一つでも失敗があると、改善書を書かないといけない。高卒のにいちゃんたちがそういう現場で普通に働いていて仕事こなしているけど、我流が多くなる年配の方では、言われたことを言われたとおりにすることができず、駄目だしされるのも嫌だろうし駄目だしするほうも嫌になるだろう。仕事で環境柔軟性は大事で、我流が勝ってしまう人はどうしても上達できず、自分はどうこうの話になってしまう。

町内の織ってもらっている工場のために、いつも間違いが多いので、全部糸を新しいビニール袋にいれてマジックでどれのどの糸かが分かるように渡して、次のときにいくとビニール袋を別の用途に使いたかったのだろう、ビニール袋は消え、糸がごちゃごちゃになっている。失敗も多いわけで、失敗してもへっちゃらなところがあるのが何十年の経験者で、どうしようもないから丁寧に準備までしても若い者にそういう失敗で困らせて平気だったりで、そういうのが普通なのが田舎の現場だったりするから、私もしたくはないけど、そういう人には引導を渡したり、鬼にならないと普通の簡単な仕事もこなすことが難しい。

林与の場合、先代にしても産地ではものづくりに長けていると定評はあるがアル中で、なにかにつけて面子が先に立ってしまって、お山の大将をやっているから、自分が仕事していないから結局仕事できない体質になって、良い時代が終わると一つの仕事もちゃんとできないので、仕事をすれば雑すぎて一つの仕事も助ける人が居ないと成り立たない半人前。先代でも、田舎で億の仕事を経営者としてこなしていた人だが、仕事が出来ない駄目な人と私が見切ったことで林与という会社が存続しているようなところもある。もちろん織物の基本や応用も理解できているが、実際に時間があっても必要に迫られても自分が作業しないし正しくも出来ないから基本的に仕事は半人前だろうと思う。

日本の繊維産業の好景気は、今となっては外部的な要因でつくられていたということなのである。繊維産業というのは自動車や電気機器とちがって、車検や修理が必要ないことが多いので、地球規模の自由競争にさらされやすい。戦後から昭和50年くらいまでは為替の関係もあって、国の成長を国の中での生産が支えた。それが、昭和50年代に円の切上げ、途上国通貨の切り下げが行われ、立場が逆転して、日本の繊維産業にとっては逆風。

新しく立ち上がった途上国の繊維輸出産業が日本をマーケットにして発展して行く。今は携帯電話の中の機器の製造が国を支える韓国も、日本の次の繊維の世界の中心となった。そしてそれが中国に移り、そしてそれがベトナムに移る流れ。

そういう量産型のモデルを日本で成功モデルとしてやろうとしても同じなら海外でやったほうが10分の1でものが出来上がってくる。日本という国ができることは、特殊な考えをもって特別なものをつくらないといけない。私自身は、日本の消費者のニーズとしては世界で一番その要求が高いので、流通さえうまくこなせれば織物の製造が一般と比べても悪い職業ではないと思える。

機械を使って人が働いてもどこの国でも同じものしか出来ないかというと、同じ材料、同じ機械でも、人が違えば完成度は変わってくるのである。それがマニュアル化してしまって、正しいものをつくるようになると、世界共通の同じ程度のものしか出来なくなる。マニュアルが無くても少しでも正しいものをつくろうとする取り組みが生きていれば良いものはできるのである。でもそういうのを否定して仕事が面倒から始まるのが今の現場だったりするから、人が多いほどに大変になるのだろう。仕事は困難が多くても当たり前だし、逃げないで前向きに楽しくやっていかねばと思う。
2018年12月02日
ほとんどの時間、工場の中にいたりして、外の世界とは遮断されていることが多いので、普通の人から見れば、趣味は何ですかとか聞かれる。仕事以外の別の楽しみが大事だったりするということなのだろうけども、私の場合にはいろいろと何十年の重荷を背負って仕事している。普通の人よりも自由じゃなんだけど、普通の人よりも思い切ったことを仕事の中でもできるので、仕事をそれほど苦痛には思わないのだろう。単純な作業をしているときには、別の仕事の段取りのことを考えながら、並行して作業をするようにするとあっという間に時間が経つ。

仕事で出会うことのできる皆さんとの関係を仕事の関係とか割り切ったりはしていないので、仕事をいただく方も友人に思えたり、仕事をしてもらう方も友人に思えたりで、友人にも困らないというか、一つのプロジェクトを一緒に達成するので、林与の勝手かもしれないが祭りを一緒にするような仲間なのである。そんな関係が仕事を通じて広がっている。

私の限界等のは普通の人の限界の10倍くらい違ったりして、細かい作業でも何十時間でも続けたり、食べるときは人の何倍も食べるし、食べなときには2日食べないで仕事し続けて劇痩せするとかもある。仕事以外の趣味といえば将棋をネットでみることか、ほんとしょうもない趣味だけど、おっさんの趣味というのはそういうものでよいのだ。何分も動かない盤面を見続けてるときに指しての心理みたいなものが私の中に入ってきてそれを楽しんでいる。駒がどう動いて勝つとか負けるとかよりも、困った状況に陥った指し手が、打開するというのは仕事でピンチに陥ったときの緊張感からの開放と似ていて心地よさを感じるのである。

物事に対する欲みたいなものはなるべく捨てるようにすると仕事も割り切ってしやすい、そういう欲を捨てられると仕事に完全に集中ができ、3つ4つのことを並行しながら進めて行くことができるとか、難しすぎて1ヶ月ほっておいたことでも1日2日でクリアできたりする。プロなら、なるべく沢山のことをこなしていけるようにしないとと思う。
2018年12月01日
何かしようとするといろんな制約を想定しないといけない。例えば安く早く送ろうとすればその制約に会う状況を作り出さないといけない。運送会社も制限されるし、その運送会社の発送方法にも制限される。受け取ってもらう側もその制約を理解してもらっているとスムーズにいくのだが、受け取ってもらう側が、その制約に合わせるのは難しいとなると、安く早く送る方法は
難しくなる。

普段の仕事でもそういう制約ごとに臨機応変に対応できるとできることの可能性は広がる。こうでないとダメという形より状況に応じてできるベストを尽くせるように出来ることを考える。私は他の人の仕事を準備もするので、全体的な仕事も回る。自分の仕事だけ考えていたら、問題解決が難しいことが多い。

そういうときに自分の中に解決方法を持っていると、救われることが多い。今も糸をチーズアップしてくれるおじいさんが手術で、チーズアップがどこも一杯。会社の中にチーズアップできる環境があるから、私も今までチーズアップ何回やったかくらいだけど、やる気があるかないかだけのこと。150番手のチーズアップも外では無理だから、自分でやって150番手の織物が織れる話に繋がった。

他に頼むのが難しいときには自分がやって乗り越えるチョイスもありだろうと思う。そこまでやると自分の限界も達して仕事を頼んでやってもらってるありがたみも見えてくるし、できないという人の問題も解決できることも多い。