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リネンや麻を織る日々をつづっています。
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2020年9月
リネン日記:29
2020年09月08日
今日はテキスタイルマルシェ最終日、午前中はお客様は少ない感じだったけども午後からは最終日ということもあって終わり掛けには駆け込みで来てくださった方も多かった。コロナ禍の中なので積極的なお声掛けもせずに静かな運営。

今日、店頭に行くとL25HDの白いエコバックが出来上がっていた。高密度のキッチンクロスの生機をほとんど無駄なく大きめのエコバック。林与のラベルを付けて水を通したらいい感じになるんじゃないだろうかと思う。

刺繍のあずままいこ先生も来てくださって久々にお会いできた。川端商店さんの染料を濃い目の色味を3色買ったので、白いクロスでも染めてみようと思う。草木染だから耐光堅牢度なども良くないだろうけど使っていくと色が変わりゆくクロスというのもよいじゃなか、色が薄くなったらまた違う色に染めるとか。
2020年09月07日
テキスタイルマルシェでいろいろな方とお話をしていても、今年の春夏のアパレルは5月6月に店頭が自粛した影響もあって戦後最大の苦戦モード。今年の商品が残っているのと来年向けの企画が出来なかったことで、来春夏も需要の回復見込みはほぼないだろうという総論である。

こういうのがしっかりと見えていると、普段通りに注文が入らないのも仕方ないと割り切れるのだけども、見えていないと仕事がないのは仕事をもらう先が意地悪しているとかみたいに思われるケースもあったりするだろうが、他力本願では成り立たないなら、自分で仕事を生み出して行くしかないのである。

今、アパレルさんに無理やり押し込んでとかやっても結果、売れ残るだけで悪い結果になるだろうから、お互いが体力を消耗しないようにまた、本業的なことが難しいなら副業的なことや新しいものをつくる試作に力を注ぐのが良いだろうと思う。林与も、定番のソフト仕上げも2年ほど在庫が少なくなってたのをようやく在庫増やせたり、キッチンクロスも5年ぶりくらいに在庫を拡充したり、お客さんの依頼の仕事が落ち着いた段階で、自分の路線の物づくりに傾けるのも悪くない。
2020年09月06日
宮崎県の利水ダムの事前放水が九州で9月3日にようやく認められたようである。今まで、大雨が予測されようが満水を維持するのが利水ダムだったということで、水害を防止する目的としては機能していなかったという話だろう。だから、雨が降る前まで満水に近い状態のダムだらけで、大雨が降って水量が増えてダムが決壊する危険水位になって、緊急放流やるとか、下流が決壊するのも分かるような馬鹿な状態だったということではないか。

利権ばかりが絡むと水害の危険すらも二の次三の次になる。国民には命の危険や避難を呼びかけながら、事前にダムの水位を減らすことすらもったいぶってては、国が人命を守るためにできる努力もせず、当たり前に下流が氾濫して水害に遭って命が失われる話。国のガイドラインとか規則とは人命すらも奪うようなレベルで、人命を奪って初めて改正される。ダムがあっても人命が救えないのは、ダム存在そのものが利権に縛られていて、人命すら考えないからだろう。価値観を変えないと利水ダムの存在も人の命の脅威になる。運用するの価値観次第のところがある。

人命が大事なのか経済損失しないことが大事なのか、国民には避難しろといいながら、国は水をダムに水を貯めこんだまま、大雨を迎えるというガイドラインがごく最近まで普通だったということで、多くの人の犠牲の上で、利水ダムが水害のことも考える運営に変わってきたということだろう。まだまだ、今回の台風でも、多くの九州の利水ダムが満水を維持しようとしているけども、結果オーライでよいのか?と思う。
2020年09月06日
台風10号が来て、長く暑く雨も降らなかった状況が、少し空気が冷めて雨も降りそう。当初の予想よりもやや被害が少なそうでよかったなあと思う。ただし、ダムの水などはできる限り少なくしておくべきだろうが、案外、発電とかも絡んでいるので、最悪の事態を想定しての最善が行われないことも多いので、携わる人たちは軽く考えないで準備をしておいてもらいたい。台風が来る前にもうダムが満水みたいなのはありえない話だが、よくある話で、それで、ダム崩壊や河川決壊の危険では、治水ダムがあってダムが災害要因の一つになっては困る。

原発なんかも最後は放射能性物質を海に垂れ流し無限希薄するしかないという専門家の結論で、最初からそれしかないのに、パフォーマンスだけで湾内に放射能性物質を留めようとしたり、無理なことや無意味なことをやって、責任逃れで嘘で塗り重ねるような対処方法ばかり。本当に必要な無限希薄という駄目な手段に見えてもそれしかないという結論を責任かぶってやれる人が必要だったりする。いろんなメンツや利権が絡んで難しいことだろうが、嘘で塗り重ねた挙句に、結局、これしかないという結論なのである。途中で最善の結論がタブー視されるのは、変な人の欲が邪魔していることが多い。
2020年09月05日
日本というのは先進国の一つなので繊維に関しても次の若い世代が入ろうとするとつぶしに掛かることも多かったりするもので、先代なんかも今では時代遅れとなった感のある問屋さん経由で売れみたいなところがあって、別に問屋さんとやるのも一つとして自分で売っていくのも普通のことだと私は昔から考えていたので、問屋さんが不在になっても自分で売っていけばよいだけだと思っているのが救いの一つ。

また、先代は従業員に仕事をしてもらうタイプだったので、縮小したときに現場で自分が働くということができなかったが、自分が働くというのも当たり前の感覚だったので、成り立つように自分が働けばよいだけだよと、先代や母親にもいうが、なかなかやってこなかった人というのは最後までやらないもので最初の1日がない。

そういう人たちが上から目線の気分でごちゃごちゃいっているとややこしいだけで、意識高い系の若い人たちと共通の他の人に仕事してもらう世界。経験の差というのはもちろんあるけども、経験あるものがやるだけでは、経験ないものはいつまでも経験もできない。積極的に若い人たちに多くの経験を積んでもらって、今の世代以上に次の世代は能力高くいてもらわないとダメだろうなあと思う。

繊維の業界というのは結局仕事しているものが残ることになって、仕事がないからといって仕事していないとどんどんと差は開いてゆくもので、いつか限界が来てしまうだろう。先生タイプの物づくりというのは自分のテイストを満たしてのものづくりなのだがそれは趣味の世界に近いから、それで食べてゆくことを考えていても食べてゆけないときには軌道修正も必要じゃないのかなあと思う。私の場合には、普通の仕事の部分で余力をつくって、その余力をそういう自分のものづくりに回すような形が多い。それが普通に成り立つ形なんじゃないのかと思うのである。

また、一つや二つのことに掛けるのではなく、10のことをやって幅を広げていきながら時世にあった一つや二つが需要を満たして成り立っているみたいな感じが安定する形なんだろうと思う。多くのアパレルさんが今年のテーマはこれと動かれて当たる年もあれば当たらない年もあって、そういうのよりはベーシックな部分はベーシックな部分でそのアパレルさんを支える大事な部分だろうから何十年も続くようなスタイルであるべきじゃないのかなあと思えたりする。

今はそういうものがない移り変わりばかりの時代、サステイナブルの流れで昔のように何十年も着るようなものや何十年も続くベーシックな商品が見直されるときがまたくるのだろうか。
2020年09月04日
百貨店店内は、マスクを店員もお客様も付けているが会話なども控えめにということで、これはテキスタイルマルシェだけじゃなく百貨店のお店全体の傾向だろう。必需品を購入するコンビニよりも百貨店のほうがコロナの売り上げに与える影響は大きいのかなあという印象。

お客様も生地に関するご質問などもほとんどなく、会話を控えるような気配りをされている方がほとんどである。店員も黙って立って、お客様もほとんど黙ったままご覧になられて気に入ったものを買ってもらうというのがコロナでの一つの基本形なんだと実感する。

コロナに関しても広がっても重症者が少ないから大したことないという国のような見方があるが、今はコロナに感染しても体内であまり活性化しないのは暑いからというだけで、10月中ごろから冷え始めるとまたコロナウィルスが体内で活性化しやすくなるだろうと思える。

電車に乗っても全員がマスクしているのが当り前みたいのが、他国と違って強制する法律もなくても日本らしいなあと思える。ヨーロッパでは、ドイツ、フランスでマスク強制に対して反対デモが起こったりしているが、さらに自由を失うロックダウンが必要になるのもその辺りの考え方の違いなんだろうと思う。

林与の住んでいる田舎というのは広々としているがそれでも考え方というのは基本が密な関係をベースにしているところ、逆に今年は行事がほとんどないほどに少なく、そういうのもコロナ対策としては大事なことの一つだろうと思える。中国武漢での初動のミスが武漢の悲劇につながったが、人の我が先に立つと優先順位を間違えてしまうことも多いものである。

WHOがコロナ対策で役に立ったのかというと、マスク不要論をばらまくばかりでマスクの有効性を否定して、テロドス氏自身は、自分の失敗を認めないためにも自身がマスクをつけることはないだろう。マスク一つで救える可能性のある命も多くあったりするものだが、そういう考え方の違いが、この新型コロナを蔓延させるかさせないのかの結果の違いにつながってくる。

法的に強要されなくても自分自身が判断力を持って物事を成り立たせるということは大事だろうと思う。マスク一つで社会的な自由を取り戻せるなら、マスクというのは大きな意味があるんじゃないだろうか。体育の授業でマスクつけて熱中症というのなら、無理して集団で呼吸が激しくなる体育の授業をやらなくてもよいと思うが、考える力というのが学校という場所でも欠如している表れではないのかと思う。

子供たちに大人の都合でコロナ感染か熱中症かの罰ゲームを与えるのが体育では体育本来の健康を維持する目的すら見えておらずダメだろう。日本の体育のマスクをつけない授業はヨーロッパのマスクをつけないデモと同じレベルで、そこまでしてやる必要もないだろう。なんのための学校閉鎖なんだったのかと思うほど、物事を考えられないレベルになっているのじゃないか。

コロナ禍で、吐息が荒くなるような集団行為を意図的にやってどうする。本来はヨーロッパのように、2万円ほどの罰金が科されるべきなあたりだろう。電車では多くがマスクをつけて感染を防止ししようと努めているが、子供たちの命というのは大人の都合で軽んじられがちなのが日本。普通の感覚で、ジムが危険だと営業停止になるのだから、それに近い行為を子供たちがしない方向に保健や体育の先生ももっていくべきだろう。

マスクつけないで個別でランニングするとか、集団行為をできる限り避けるというのがコロナに感染しないための大事なこと。学校閉鎖のようなコロナの経験もしながら大人たちはマスクつけて無言で社会生活を守ろうとしているのに、子供の学校社会はコロナか熱中症かの体育もしているような罰ゲーム状態。行政というのはほんとうに規則に縛られすぎて子供たちの健康や命をまもるも難しい。学校教育という健康を考える場なのに、大人の我の事情が先だってしまってヨーロッパのマスクなしでのデモ参加状態。トップの文部科学大臣が駄目ということだろうけど、健康や命の問題で、国民には自主規制を強要しながら行政の都合が先立ち、アクセルとブレーキそのもので、規則に縛られ国民の健康や命を損ねるのが行政では駄目だろう。大人の都合で、マスク不要論をやった厚生労働大臣と同じレベル。個人の我の世界が、行政の大人の世界というあたりそのもの。

コロナの危険性の高い地区では、全国縛りを外して、体育の授業を自粛するとかも大事なことだろうと思う。コロナの危険性の低い地区では、普通に体育の授業をするもありだろう。日本を一つで縛るでなく、行政も面倒くさがらず、感染者の多い地区では厳しい対応、感染者の少ない地区では普通の対応で、問題に応じて、面倒くさがらず、ちゃんと状況に応じて自身でコントロールしていくというのが行政にしても大事なこと。
2020年09月03日
昨日は大阪に宿泊したがラベル用紙をプリントしないといけなくって、その原稿を夜中パソコンでつくっているうちに寝ることもできなくなって、結局、朝コンビニでの普通の用紙にプリント。エクセルファイルをPDFにしてプリントするのだが、ファミリーマートだったので結構時間が掛かった。

8時半くらいに売り場に到着で、値札関係の最終チェック。今日は初日だったので、9時半から全体ミーティングがあった。初日のお客様はコロナ禍なので少な目でこれは仕方のないことだと思うし、こういうのが今のコロナの中でも感染リスクを減らしながら営業をするということなんだろうと思う。

テキスタイルマルシェで川端商店の奥さんちょっとテキスタイルマルシェの会場でお話しする機会があり、川端商店さんも3年ほど前に場所も壬生に移られ、高台寺のお店も閉じられ、今は、黒染めで有名な京都紋付さんの場所を借りる形で染をされているというお話。いろいろ新しい形態に移行されながらそうやって変化しながらも続けておられるのは才覚の一つなんだろうと思える。

川端商店さんのテーブルには、きれいに万葉染めで染められたストールがテキスタイルマルシェに並んでいて、見ていて、やっぱり、私の場合、赤のアカネとログウッドっぽいものに目がいってしまう。自分がつけて合う色でもないだろうけども、そういうのが色が目立って目がいくんだろう。

草木染で出すのが難しい緑のもあった、すごくきれいな緑で、草木染とは思えないくらいだが色を掛け合わせて出されているということで、自分がつけるならそれが良さそうな気がする。草木染で、草のような緑のものは珍しいのである。他に、一見、小物系で柿渋かなあと思っていたものがあって、それは桜の葉っぱで染めたものということ。説明を受けていなかったら柿渋染だと思ったままだっただろう。
2020年09月02日
40手前で、アイリッシュリネンのプロジェクトをやったときには、超細番手の糸を織ることを経験した。それまでは、100番手以上のリネン糸というのは織れないといわれることが多かったが、現行の150番手までも織ることに成功した。糸さえ良ければ、100番手は糊なしでもレピア織機で織ったりできた。

現行のリネン糸よりも昔のリネン糸のほうが強度があることにも気が付いた。やはり根本的に今の糸というのは強度が劣っているのである。これと同じことにもラミー糸で気が付いた。倉庫にあるラミー糸は毛羽が多く、現行の糸は毛羽が少ない。同じこんにゃく糊をつけるにしても、昔の糸だと伸度も保たれて織ることができるが、今の糸は強度が2割くらい落ちている。グレードもアップして値段も高くなっていても昔でいうノーマル糸クラスのグレードに糸が落ちてしまっている。これも原料からして仕方のないことなのである。

50手前で手掛けたことの一つに、横絣を広い幅で織ること。そのためには広い幅で横糸に捺染することが必要となるので機材一式を開発することになる。昔の近江上布の織機や機材なんてものはおじいさんが林与の家の中で生み出したようなものなので、いろんなものも手に入りやすい今、一人の力でどこまでできるかというあたり。昔の着尺というものがどうしても37.5cmほどの仕上がりで、着物を着る人が少なくなっている流れの中で需要自体が減ってしまっている。目線を変えてワンピースなどアパレル向けに広幅の横絣の織物を織ってみる。そんなプロジェクトである。

型紙は広い幅の洋型紙を使う、狭い幅の時よりも幅が広くなる分精度が必要となり、色数が増えると、洋型紙もたくさん必要となってくる。まあ、それでも版を外に出して作るより一晩二晩自分が手で彫れば解決できる話で、試作や小ロット生産するには悪くない。型紙捺染の利点は、シルクスクリーンとは違って、型紙の厚さが1mmくらいはあるので、色糊がしっかりと糸につきやすく、力強い昔っぽい仕上がりになること。それ故に、同じ型でも、色の付き方が微妙に異なる。たとえば、同じ絣織物でも大島紬はシルクベースでズレのない写実画的な要素だが、近江上布は抽象画的な要素を持つ、あえて揃えないで絣調に織るのがよい。

できないと思われていたことをとにかくとことんやって、広幅横絣織物は実現したのである。広い幅の手織で織ったほうがたぶん簡単だろうけども、打ち込みを調整することができるシャトル織機での織はさらなる可能性が広がる。昔の近江上布は多くの人が携わって分業でやったが、この広幅絣は、型紙をほるところから、捺染、巻き返し、織など、一人がすべての工程を行い織りあげるというところが昔と違って現代的で現実的なのである。通常の織物でも一つのサンプルをつくるが難しい時代には、一人で何でもできるようなものづくりが一番合っている。
2020年09月01日
2008年ころのデフレ不況で、自分の物づくりに没頭できた時期があったが、その時に初めて経験したものごとは、たまたま惑星直列のようにすべての要素が連鎖的に補完しあって成り立って、今の自分が織物や仕事をやっていく上で物事の進め方や考え方の基準もそこにある。林与にあるものにしても、40年50年選手の古い織機が30台ほど。そういう織機もマイナスにもなるしプラスにもなる。それを決めるのがそれを使う人の力だったりする。

12年前に10台シャトル織機を入れた時も、10台のうち9台が全くといってよいほど織れない状態で、1台しかまともに動かない。その1台をフルに回して30縦、他の織機で30縦、2週間で60縦の整経したのを織ってなんとか展示会に間に合った。それでもその状態では数万枚の本生産は無理な状況。神様というのはいるもんで、1台だけ動いた織機がなぜ織れるのかを考えた。するとその台には1本棒が付いている。他の台にはついていない。それが経糸のテンションを管理するためのものであると想像し、他の9台についていないのが不思議で、職人さんに聞くと、必要ないから取ってしまったという。なぜ、1台だけ残っていたかというと、硬くて取れなかったようである。その一本がもし取れてたら、多分、林与はその年に仕事で何億円もの損害の話で終わっていただろう。硬くて職人さんがその棒を取れなかったことで私が織機がなぜ動かないのかを見つけ出すことができた。

シャトル職人さんも、今までは太い糸しかおっていないので、太い糸の場合は経糸のテンションが強いので鉄と鉄がすれあって棒が駄目になるから取るのが当り前になっていたようで経験から棒をとったので仕方のないことだろう。でもこれが例外でもなく、人生というのは結局自分がどこまでやるかだなあと思う。ファブリカ村のタミさんが北川織物に入ってから40年くらい、一度も織れなかったという織機も、結局、林与にきて私が見て原因が見つけ調整して動かすことができた。織れないのには織れない原因がある。多分、北川織物工場の前の工場でも織れない原因が分からずで手放されたものだろう。

別の場所のシャトル織機の立ち上げも行ったが、すぐに織れない原因がテンプルがないことに気が付いた、それに気が付かなかったらいくら織機を調整してもまともに動くことはない。初めて見る織機で開口の位置が高いのでテンプルで押さえないと絶対に無理だろうという推測から、最初テンプルついてませんでしたかみたいな話。そうすると塗装したときに外されたみたいであったということで付けたら動き出した。

出機さんにある織機を入れ戻したときも、シャトルから一つもない状態で、動く状態でもない。シャトルがないシャトル織機というのはまったく使えない状態そのもの。一番大事なところがジャンクなびっくりな話。そこから手を加えてシャトルを作ったり、シャトルの管を手に入れたりでまさにマイナス状態が続く。5年くらい動いていない織機だったろうから、ベルトとかもすべて調整しなおしてシャトルもすべて場所決めして調整して合わせる。

織機のいろんな問題も見えてきて前の人が何に苦労していたかが原因も分かってそういうところに調整を加えて、ゆっくりとキャッチボールするようにシャトルが右左に飛んで、ヒガエも問題なく上下するように調整する。

古い織機を手に入れるのは、ノークレームノーリターンのコピー機を買うのと似ている。何か問題があるのが普通。そして普通はうまくいくことは少ないと思う。すぐに問題に直面して保守部品も十分にストックしていなければ、すぐにスクラップとなるのが普通。京都の若い方が古い特殊なシャトル織機を手に入れてアドバイスを求められるのもよくわかる話。昔だといろんな情報があって部品も普通に手に入って分業の中で動いていたものを、織機を引き受けた人がすべて解決してゆかないといけない。普通の織物の作業ですらも普通の仕事よりも負荷は掛かるが、さらに織機の修理や調整なんかも入ってくると、普通の仕事感覚では難しいだろう。

私がこういうことを書いていると、頭の理解の問題かと思われるかしれないけども、油で手を真っ黒にしながら平気で作業するから構造がみえてくるし、調整にしても麻の場合には何が大事なのかというのが見えてくる。織機の毎回の立ち上げもそうだけど、糸がぐちゃぐちゃで爆弾が落ちたような状態でも、一本一本丁寧に直して行けば、春の雪解けのように、何事もなかったように調子よく織れ出す。動かない織機でもいろいろと試行錯誤しているうちに、見えてくることは多いものである。

経糸を正しく一本一本繋ぐというのも大事なことなのだが、そういうのもいい加減な人が多い。全部正しくつなぐが基本の人と間違ってるのが当り前の人の差というものは同じ織機を使っても雲泥の差。ずぼらな人が仕事すると織るのが難しいことが多いので織機や糸が悪いということばかり言うが、ちゃんと仕事する人というのは正しくつないで普通に織れる。織る人の作業の正しさが結果に出てくるのが織物の世界。上手な人は自分が何でも解決できるので文句をいわないが下手な人は自分の問題の解決もできず文句ばかりがみられる。

普通の仕事では経験できないような自分の力で解決していくような世界が現場にはあるんで、がんばればできるという世界を味わえ、そのがんばりがたわいもない麻布という結果だけど、自分で作ったものは買うものとは違う価値観が詰まっていて損得じゃない世界で、林与のお客様が布を買ってくださって洋服をおつくりになられたり小物をおつくりになられたりと同じ感覚でより強いものを語れるようなものを作って売ろうとすれば持っていないと評価してもらうのは難しいだろうなあと思う。