for English speakers: Welcome to HayashiyoWelcome to Hayashiyo
リネンや麻を織る日々をつづっています。
ホームリネン日記2017年12月
2017年12月
リネン日記:27
2017年12月07日
今日は岐阜と滋賀県内から、フェアトレード関連のアイテムを販売されている方とカンボジアの籠を企画販売されている方がお越しくださった。お二人の携帯電話のなかには、アジアの織物の現場の画像、アジアンテイストな絣織物が、超高速で手織りされているのを見て、やはり、そういう国の人々というのは強いなあと感じる。

イカットと呼ばれる現地の特色のある色使いの織物を手織りなのだが柄合わせしているのかどうかもわからないほどの、すごいスピードで織っている。織っているのは綿らしい。大変そうにみえるがそれがその人たちの普通のスピードで、ほとんど考えることもなく、織れて行くのだろう。
2017年12月06日
今日はミラノウニカの素材相談会で、福井に向かう。電車より車のほうが便利そうだったので、朝7時に出発して高速道路。木ノ本から先がチェーンが必要ということで高速道路を降りる。財布を忘れたことに気がついて、たまたまポケットに4000円。本当にラッキー❗

木ノ本から敦賀、敦賀からはサンダーバードで、11時からということに電車の中でメール確認して気がついて、珍しく早めの会場入り。帰りは、残り1500円しかなく、鈍行で木ノ本まで戻って会社に戻ったのは午後4時過ぎ。そこから仕事。

今年は、アパレル業界はここ何十年来の不況と言われるが、麻はブームは落ち着いたもののエコな流れでトレンドとしては根強いのが救われているところ。林与も会社が小さいことと、多能工化とアパレル向け以外の仕事の比重を増やしてきていたのでなんとか。染工場さんの話を聞くと今年はまだ落ち着いているということ。
2017年12月05日
国際化の流れのなかで、世界的に価値観すらもが画一化され、日本的な考え方というものも失われつつある。今日は東京からお客様で日本の布ということを考える機会があった。林与の中で、時代を越えて現代でも日本の布として世界に通用するのは、近江上布のアーカイブであろう。

一つ一つが伝統工芸の域で、数千柄の規模。日本的な西陣織や友禅とは違った麻に合うワビサビの世界、和そのものを感じる久留米絣とも違うモダンにも思える柄。ものなる布だけど日本の布らしさや布の魅力を人の心に伝える要素を持っている。

私の目には、その一つ一つが布の厳しさ。なぜ60年ほど前に、これほどの世界がこの田舎の村の林与の家から産み出されたのだろうというのにもいろいろな事情がある。子供を育てるのが難しい親戚の子供を自分の子供と同様に家で育てたり、終戦ですべてを失って日本に戻ってきた親戚にすむ場所と仕事を与えたり、早くに父親を失った親戚の面倒をみたり、そういうなかで林与の近江上布は生まれてきた。

仕事というより、ほかの人の生活を支える責任を背負う中で、厳しかったと言われる与一祖父さんだが大きな甲斐性を持っていた。出丁奉公にしても悪く言われるが、民が貧困に苦しみ、親の代わりに食べ物と教育、仕事を与えた。甲斐性のある家が不幸な家の子供を養子するに近い制度であったろう。昔の食べ物も満足に食べることもできない時代ほど、人の心の優しさがあったのに、金銭勘定ばかりの目でみると残虐にしか見えないのだろう。もちろんうまくいくことばかりではなかったろうが、人が人を支えていた時代。不幸な親戚の家の子の面倒を見て育てるなんて美談そのものだろう。恵まれた人には理解できない状況も昔は多かった。

そういう不幸とされる時代に育った人は強く、ほかの人を支える優しさを持つほどの強さがある。布を織る人も自分がこの仕事に憧れてとかでなく、自分の家族を支えるために仕事を求めた。家族を支えるために懸命に織ったから良いものが出来たのだろう。自分のために仕事するスタイルでは無理もせず自己満足に終わり良いものは出来にくいだろうと思う。
2017年12月04日
業界で仕事していても少数派なのが、現金で10万円と10万円を材料や労力につぎ込んだ布とどちらが大事か。実際に仕事している人にとってはもちろん後者の自分が10万円使った布のほうが現金10万円よりも価値があるだろう。買う人も同じように感じるはずであるから買うということだろう。

でも、今の日本ではこれは少数派で、最後に現金がいくら残ったかがバロメーターであるような、商売の考え方が主流である。日本の文化に対する価値観が落ちてきているのもそのあたり。大きな会社だと資本家である株主がみているものはまさに現金を勘定するだけのことで、それなら、ものづくりなんてやめて金融業や投機筋を業としてやったほうがよいのではないかと思える。

百貨店がプライベートブランドの在庫が残ってしまい、利益路線に戻るという話も、株主側から見れば、どれだけ利益を上げるかが目的だろうけども、在庫を積んで失敗に思えることが産業を支援しているというあたり。意義という部分がなくなれば、国内でものをつくる意味や国産の意味もないだろう。世界の一番安い材料を捜し求めるマクドナルドスタイルを百貨店が目指せば利益率はマックスになるだろうし、地代を求める形に戻れば当面の収益はマックスになるだろうが、長い目でみれば、百円ショップ化するだけのこと。

これは私の商売も同じで、化かしたものを売ると利益は上がるが、意味すらもないところ。自分自身がどこまで自分の時間と覚悟を注ぎ込んでいるかが要でしかなく、利益を最優先にする薄っぺらい経営ならやめたほうがよいだろうと思うところも多い。日本の大きなイメージのブランドや百貨店が無味乾燥な配当目的の株主目線での利益重視になったら、世界で一番安いところを探し、国すらもハイエナする悪意すらもない奴隷制度そのものの感覚に陥る。

海外を利用すれば法律の抜け穴で、行政も航空会社の外交特権なみの差別を平気にやってしまう狂った、自分は特別という差別が一番強いだけのあたり。苦労もしらない外交官の子供が、航空会社の外交特権待遇でちやほや、みるからに餓鬼でしかないが、それが日本の力に弱く差別する公務員行政で、国民主権とは180度反対のことやって民主主義も成り立つまい。アメリカ人の一人の命と日本人の一人の命が同じ程度には守られないとならんだろうなと思う。

米軍が日本人をレイプしても治外法権でうやむやというような、国政。日本人の命を守るのが日本のまさに国益なのに、日本人の命すらもが日本の特別階級の行政の利益とか欲の前には単なる消耗品であるのが残念すぎる。
2017年12月03日
目の前に仕事があってそれをやるかやらないかというだけのことだと思うが、やらない選択をすれば仕事をしないだけ、やる選択をすれば仕事をするだけ。そういうのが見えなくなるのが分業の世界、会社の中だけじゃなくて外も同じで仕事はいつでもあるものと思うと目がくらむ。

目の前の仕事をどれだけ当たり前にこなせるかだけのことで、目の前の仕事も見えなくなったら仕事は無理な話なのだが、今の織物の現場というのは目の前の仕事も他人事になりがちで、自分がやらなくても誰かがやってくれるものという感覚も多い。普通に目の前の仕事をこなしてゆけばよいのにと思うがなかなか仕事も自分がする覚悟がないと見えないもので、仕事に対する文句が出てくるけども仕事している人間というのは自分がするかしないかだけなので仕事しないで仕事に文句いってても仕方ない。

仕事なんて目の前のやればできる仕事に文句いってしないような部分がなければ簡単でシンプル。これは中にもいえることだし、外にもいえることで、普通にある仕事を足元をみてもったいぶるとかの人がいたり、自分がしきらないと気に入らない人がいると、一つの仕事もややこしくなる。私情をいれずに目の前のことに前向きにうごけば形になるのに、欲を出したり我を出したりすると普通に動く仕事も回らなくなる。自分自身で立とうする人の足を引っ張ったり、食いつぶしたりすることで自分の存在感を出すタイプの人というのは厄介そのもので関わらないほうがよい。

2017年12月02日
昨日、夜に愛知川の平和堂で滋賀麻の山田さんに久しぶりに出会って、ミラノウニカの話になったのだけど、今年も林与は今の仕事で手一杯で後手後手になってしまってのお話。昨年出展された会社さんがミラノウニカで大きな仕事が入ったというお話でその話を聞いて私自身もうれしかったことをご報告。

イタリアは、リネン、ウールなど、天然素材がそろった紡績の本場でもある。日本で1960年代後半にメゾンが立ち上がったのもイタリアでミラショーンをはじめとするブランドが1960年代中ごろにコレクションを始めたのを、日本版として今の日本のファッションブランドの大先生とされる大御所の先生たちが続いたことがあろう。続いたと書いたがそれはヨーロッパの流れからの還流で、イッセイミヤケ氏などはすでにヨーロッパを舞台に日本の布の文化を広められた。

林与の布も布として洋服になるが、デザインをみても布を布として魅せるような見せ方をされるのは、布に対しての思いが基本であられるあたりだろう。布を羽織るような形で贅沢に使い、布を盛り上げることに力を注いでおられるところが、布から受ける感性を大事にされているのではないかと、大御所たるスタイルなんだろうなあと。一枚の布を羽織るようなスタイルが多いのもイッセイミヤケの特徴。洋服問いうよりも布をまとうようなみせかた。

求めようとすれば欲のように広がる創造の世界なのだが、自分の出会う人が作り出すものごとを支えようと最後は人を支えることなんだろうと思う。イッセイミヤケはアパレルでありながら多くの布を生み出すところに力を注いでいるのが、着物の世界の織元と似ている。

林与自身が布そのものが最終的な作品であるように思えるのもまさに衣(コロモ)に対する評価で、天婦羅でいうとどうでもよいようなコロモノの部分の美を求めるというより、そこが自分の人生を反映するキャンバスである。デザイナーにとっても、自分の人生を布というキャンバスに表現するというだけのことだろう。それに憧れなのか情けなのかで人々が自分のつくった布をまとってくださる。

価値を見出す布というのはそれを作る人なんだろうと思う。昔は農家だったら若い母親が自分で家族の着る服の布を織った。裁縫して服にまでして、優劣などもなくできた形を受け入れるだけ。布を織る、裁縫する母親がへたくそだったら子供は我慢すだけの世界。別のチョイスはないあたりが、自分のつくったものを子供に着せて、自分の作ったものに世間の評価を受け、母親の技術も向上する理由だったのだろう。
2017年12月01日
12月に入って、それなりに冷え込んでいるけど。昨年はあれほど雪が降ったので、今年は雪があまり降らないと予測。クリスマスの日あたりに1回、年明けに1回、2月頭に1回の3回雪が降るが昨年以外の通常の流れ。

雪の降らなくなった原因は地球温暖化だけじゃなく、水の循環がなくなって砂漠化したからだろうとおもう。実際に木も水が立っているような状態なのだが、この何十年かで、平地の雑木などは一掃されてしまって、田舎でもうっそうとした森や林は消えてしまっている。田舎ですら雑草も生えることもできなくなって、虫をはじめとする小動物にとっても居場所がない。

小動物を食べる鳥などの動物も消え果た感がある。先日だが、宇曽川ダムの上流の田んぼを30分ほど散策したが、田んぼは柵に囲まれて、野生動物への分け前はない。野生の大型の動物が生きてゆくには厳しい環境だろう。人が心地よい環境と動物が生存できる環境とは相反する部分があろう。

人の求める理想郷は砂漠の上に人口で作られたオアシスなのだろう。作り上げられたオアシスに住むと、体調の管理も必要がないので、耐性が落ちてゆくもの。私も、以前、世界一よいだろう工場の中で働いたことがあるけど、外は暑くても寒くても、工場の中にはいると湿度も温度も完璧で、働きやすいものの、そういうのが当たり前になって、体が寒さや暑さに耐えられなくなってほかの会社で働くことは難しくなるだろう。

自分自身の体が環境に適応する能力というものを失うといろんな衝突が起こる。別のプログラミングの会社にいたときは、夏なのに18度もないほどに冷えている。風邪をひくくらいに寒いのだ。でも、それに慣れてしまっている人にとってはまだ暑いなあだろう。一般的に男性は暑がりで女性は寒がりみたいなのも、男女が集まると室温調整一つで意見がばらばらという光景もよくある。料理の味もそう。結局、だれが我慢するかなんだろうということ。

多くの人が集まって一つのことをするのはその一つの実際の仕事がというよりも、仕事以外の部分が難しいことが多いので、日本の国でのものづくりが難しくなった部分が大きい。他国のほうがものごとが簡単に進む。