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リネンや麻を織る日々をつづっています。
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リネン日記
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2019年04月21日
今日は、朝から工場に入るも右足のくるぶしの痛みがかなり悪化して、全身に倦怠感、よろしくない。10時半から、隣の家に自治会の総会などの資料を配布しないといけないので、とりあえず、資料配布のほうを先に準備して足を休める。午前中には案内を配り終えて、かなり痛みがひどく歩ける状態でもなく、立っているだけでも鈍痛が走るので、横に安静にしている。

急ぎの仕事が残っているのに悔しい日曜日である。



2019年04月20日
みんなが何か志を持ってやろうとするときに報酬なんて考えないのだが、安定期に入ると普通の仕事の感覚になって、普通の待遇になるとそこからの逆戻りが難しい。長続きしないのは、初心の地道な考えがなくなってしまったとき。普通の成り立つことを考えない感覚になると求めるが増えすぎて最初からやらないとましなほうが多いことも多い。最初だけは気分でスタートで成り立たなくてもではすぐに底が見えてきて終ることは多い。

地場産業なんかもサラリーマン化してしまうと、伝統工芸的なものは絶対に難しいだろうと思う。地場産業というと評価は高いがその評価に値する成果ではなくても努力がなければ評価されることも難しいであろう。普通のサラリーマンと同じ週40時間で作り出すものなんていうのは、趣味の人が作るものにも負けてしまうだろう。アーティストとかクリエイターは、たとえば、並外れた才能がなければ、他の人の何倍もの努力でカバーするしかないだろう。

才能がある人でも動かなければただの凡人。階級社会を守りたい人というのは、自分が一番底辺に落ちる覚悟がなく、常に指導的な立場でいようとするから、世の中の諸悪の根源になりやすい。待遇に文句を言っていないで、自分が求める待遇を他の人にしてあげる立場にならないと、自分の立場を他の人に譲れるくらいでないと、そこが本当に難しいところで、恵まれない人は世の中にあふれていて、その人たちを下から支えられる立場になれる人がどれだけいるだろうか。

増田明美の話だったと思う、増田明美のコーチが自分が白いご飯に塩振って食べて、増田明美にはたくさん肉を食べさせてとか。選手もコーチの支える姿が見えずに、次はもっとよいもの食わせてくれになってくるような馬鹿選手だとたとえ金メダル取っても早く消えたほうが良いのかとも思う。そんな選手が将来、自分の金メダル売ってでも、選手に肉を食べさせられるようなコーチにはならないから。これもサステイナビリティーのない一例だろうと思う。

日本の伝統工芸の世界がサステイナビリティーがないなあと思うのは、伝統工芸の多くはもともと食べて行くのも難しい状況の中、試行錯誤で、人々の生活を支えるために生まれていて、仕事して自分じゃなく家族の生活を成り立たせるという側面が大きい。

自分を捨てて家族を支えて行くというもので、野麦峠もその世界。食べても行けない農家の娘が、家族を支えるために女工として働くという辺りで、女工として働くことで家族が幸せに食べて行ける。これと同じことがバングラディッシュの繊維業界にあって、バングラディッシュの農家で家族が食べていけない状況を父親が出稼ぎで染色工場で1日12時間働くことで家族に幸せをもたらしてその父親も喜んでいる。

でも、農家の食べてもいけない苦労を知らない人が外から見ると、野麦峠の女工も、バングラディッシュの染色工場の父親も奴隷のように思えるだろう。けど、そういう農家を救えるのは野麦峠の紡績工場であったり、バングラディッシュの染色工場であったりする。自分を捨てて家族を支えたい人の気持ちを汲んで受け入れているのがそういう工場だったりする。食べるものもなくその人やその家族が死に行くを放置して、自分たちが幸せ掴もうと働こうとしている人の働く環境問題を議論しても始まるまい。野麦峠の問題視された本質は、階級社会を乱すことだったんだろうと思う。貧農がチャンスを掴んで役人よりも豊かに暮らすというのは、役人にとっては屈辱でしかなかったんだろう。ニューズウィークの記者もバングラディッシュの男性を記事にしてそれで食べているなら、それでかわいそうに思うならもらう給料の半分をあげればよいのにと思うが、批判している染色工場のようにその男性を養うとか分かち合うなんて覚悟はまったくなく批判をしている。他の人を支える苦労をしらない他人事の世界。

伝統工芸の世界も今は先生みたいなイメージだが、元来は田舎の農業で食べて行けない人たちの手仕事で、業として極められた形しかない。そういう手仕事の世界は地道な部分で成り立ち、地道さがなくなれば、仕事の本質も見えなくなる。自分が作ったものや仕事が受け入れられて食べて行けるという農業の延長的な自給自足部分。自分たちの手で食べて行くとか本当にアーティスティックなことだと思うが、そういうことが評価されることは少なく、やればそこまでたどり着けることもあるだろうけど。普通にやって食べて行けないから駄目だみたいな半ばの考えだとそもそも難しいだろう。

育くめる人が残っているうちはものづくりというのは続くだろう。それは作り手である場合もあるかもしれないが、作り手でないかもしれない。作り手が経験を積んでいったときに育む側になれればよいんだろうけども、なかなかそうはならない社会構造。サステイナビリティを意図的に欠如させる縦割り的な社会構造があるように思う。私の同級生のお父さんがやっておられた金襴屋さんが何年か前に廃業になった。現場には人もたくさん居られて、設備も新しいものを常に更新されていて福利厚生も普通以上に考えておられた。私がその社長と話したときに、前向きに新しい設備入れて福利厚生も考えてやっていかないと織物業界も続かないし、将来がないという話をしておられた。でもその社長が亡くなられたら、働く人もたくさんおられ設備で仕事もあるのに。実際はなかなか成り立たせるのは難しい問題。続けておられたのは、その社長の従業員に対する親心を感じるのである。自分は白いご飯に塩掛けて食べながら、従業員には肉を食べさせる、みたいな話で、親心もっている人が働いている人の中から順番に育っていないとうまくは続かない。それが本当に難しいところ。

日本では、待遇も良くないけど内職的にやってる地場産業は案外残ってて、価格も手ごろで品質も高く。企業化して福利厚生を充実した地場産業は消えて行くとか、ものづくりをやめてゆく流れ。過去も、繊維産業のものづくりは、基本、大きなところから順番に消えて行ったとか、海外に移転して行った形。日本の地場産業製品と似たものをつくろうと思えば量がまとまれば10分の1で、無理なく海外でつくることができるから、逆に、国内は基本、見本も必要な小ロット生産の仕事をうまくこなせるような力がないと無理で、現場の人に要求される能力のハードルは高い。仕事があって人がいても、できる仕事がないという状況に陥る。もう日本人はそれほど器用ではなくなってしまっている。
2019年04月19日
4月24日、25日は渋谷の〒150-0031東京都渋谷区桜丘町23−21渋谷区文化総合センター大和田10階  
「文化ファッションインキュベーション スペース1〜4、6」で、TN展が開催されます。林与も、今現在、まだほとんど準備ができてもいませんが、2日間おりますので、お仕事と学校関係の方など限定にはなりますが、お時間あられましたら逢いに来てください。

今年は、あまりにも私自身が時間がなくなりすぎて、楽しみに動いてきた展示会もほとんどをお休みしている形になっています。今回はみなさんとお会いできる数少ない機会の一つになります。重なる場合には、お待ちいただくかもしれませんが、ぜひ、お時間のあられますかたはお越しください。

学生さんなどで、林与でのインターンや働くことを希望されます方なども、自分に合うかどうか話を聞きにきてください。やりたいことは一杯ありますが、やるには力が必要で、私に負けないくらい、なんでも全力でバリバリ打ち込める人探しています。学生さんの場合は入り口で入れなかったら林与を入り口の人に呼んでもらってください。
2019年04月18日
ある会社から春の展示会の案内状が届いたのだが、一文字抜けたミスで初め気の毒すぎると思ったが、気付かないで送っておられるわけもなく、絶対に気付かれているはずだが、そのまま送ってこられたというあたりは逆に温かみを感じる。誰でも間違いはあるし、そういうのも許容して行くような会社なんだろう。何百枚も刷ったものを一文字訂正のために刷りなおすという選択もあるかもしれないが、そうじゃなく、今回は間違ったけどこれで行こうと行く決断も悪いことではない。たぶん、そういう面では、上のほうの人間がスケールが大きく出来ているのではないだろうか、と思うのだ。正誤でなく、気持ちや意味が通じればよいことも多い。一つ勉強になったことである。

体裁を完璧にすることばかりで、本質がなくなることも多い。ビジネスライティング的なことや、形式的なあいさつ文など、無難であったりはするけども、何にも心に響かない。逆にミスが一つふたつあって、人が一生懸命にやっているのが見えることもあるだろう。小さな部分を気にしすぎて大きな部分が見えなくなることも多い。小さな部分が大事じゃなく大きな部分が大事だろう。

はがきが大事なんじゃなくて、展示会が大事なんだろうし、そういうはがきをデザインする気持ちも大事、一文字間違っていても本質が変わるわけでもあるまい。逆に興味を惹いてより多くの人が展示会に行くかれるかもしれない。みんなが失敗を笑って場が和む程度のことで、この案内状はアイスプレイカーになるだろう。
2019年04月17日
今日は梅田LOFTテキスタイルマルシェの撤収日で、夕方から大阪に向かう。電車座ることができたが、座っていると右足首に違和感。7年ほど前に、フランスに行った時に行きの飛行機の中で、右足首の筋違えの始まりみたいな感じで、展示会中に歩けなくなるほどまで膨れ上がったその前触れみたいな違和感。座ったままで足首に痛み、私の場合、革靴を履くと起こることが多い。一回ポキッと鳴ると治るんだろうと思うが、打撲みたいなへんな痛み気持ち悪い。フランスのときに大事に至らんようにしないといけないとは思うが、大事にしすぎても私の場合には駄目だと思うので、動きながら筋の補正を行おう。

こういうからだの不調というのは、その場所の問題ではないことも多く、たとえば肩が凝っているとかが問題になって、足首に来ている可能性もある。普段から普通の人の何倍も動いてはいるので、結局、それが一番の健康の維持に繋がっているとは思う。

最近オーガニックのことを書いているが、オーガニックとして衛生的な職場環境を求める流れがあるけども、動物の糞尿を堆肥として使う職場で、臭いなどもするのが当たり前だが、オーガニック栽培をしていない先進国の人の感覚でオーガニックの労働者の環境に口を出し始めると、先進国のような職場環境になって、オーガニックの維持は難しくなるだろう。働く人も楽を求め始めると支配する側の思想に変わってきて働くのが苦痛になってくるとオーガニックの世界なんて否定されるべきものだろう。

オーガニックの世界がたとえばLPOで制限される週48時間労働で守られるのかという問題。農業なんだから雨が降ったりしたらサラリーマンのようには成り立たないだろうし、そういう縛りがあると自然の栽培も難しくなり手摘みのオーガニックコットンなどは機械積みに淘汰されてしまうだろう。それがオーガニックの目指すところで良いことなのだろうかという思いがある。商業的な要素が入りすぎると本物が淘汰されてしまうという矛盾をオーガニックの世界も抱えている。先進国で紙の上だけでお金が儲かる感覚でそれを実際に働く人がかわいそうとかいう感覚こそが、驕りで、先進国が途上国で人々がまともに働いているのを見習うべきではないのか。先進国が、貿易なんかで途上国に抜かれそうになると戦争が起こったり、政治的に頑張った途上国に貧しい状況に追い込むことは多い。立場的に優位なものからすれば抜かれないように先進国的な慣習に従わせるというのが、ありがちな流れ。私は、オーガニックコットンをまともにやってる生産者が、オーガニックコットンに関する規定なども支配されずに支配していく流れでよいと思う。

https://textile-network.com/en/Technical-Textiles/Fasern-Garne/GOTS-Organic-Cotton-from-India-under-fire の記事を読むと、GOTS認証のあるインド認証からは何件もGMOコットンが混じっているという情報。ありえないことではない、認証自体の運用が甘すぎると思えるところだから、インドとしてはよくてもその多くが日本のオーガニックコットン市場を形成して、GMO不使用を謳っているあたりは、認証機関自体の問題だろう。でも、そういう認証機関の理事長でも、不正は企業の責任で自分は関係がないと逃げるだけのこと。オーガニックに関しても隠匿や偽装はつきものなので、消費者をだましたもの勝ちにならないように、供給側と認証で利益を上げることしか考えない認証機関に対しても消費者の厳しい目は必要だろう。
2019年04月15日
オーガニック=有機栽培というイメージではあるが、国ごとにオーガニック基準は異なり、インドでは化学肥料の使用も制限付ではあるが禁止されてはいない。http://apeda.gov.in/apedawebsite/organic/organic_contents/national_programme_for_organic_production.htm

日本のオーガニックの世界にはこういう情報は閉ざされてしまっている部分もあって、オーガニック製品といえば化学肥料(無機質肥料)は、3年不使用の原料が使われているみたいなイメージだけが一人歩きする。インドの国のオーガニックの基準からすれば制限はあるがいろんな化学肥料の使用は許されてるのである。こういう情報は販売するものが気をつけて消費者に説明しないと日本の消費者が誤解を招く説明になってしまう。

インド原料を使用したオーガニックコットンなどは、畑のコンディションが有機肥料だけでは栽培にふさわしい状態にできなければ、多くの種類の市販の化学肥料の使用が自然なバランス状態に戻すためには許されているのである。日本人の有機栽培を信じる消費者が知ったら驚くべきことの一つであるが、普通はそういうの日本の消費者は知らないことだろうと思う。

このあたり日本のオーガニックの専門家たちももちろん知っていることだから、日本の消費者には各国ごとのオーガニック基準にしたがって栽培された作物というオーガニックのきれいなイメージだけでなく、最大のオーガニックコットンの供給国でもあるインドのオーガニック基準が、3年間化学肥料を使用せずなんて表現に当てはまらないあたりも事実として伝えるべきであろう。

最大のオーガニックコットンの栽培国であるインドに、そういう真実があるとしたら日本の消費者に真実を伝えるのも、オーガニックのプロの役目であったりするとは思う。きれいごとばかりで、3年間化学肥料は使わずとかは、化学肥料が使われているならアウトな表現の一つであったりもする。農場によっては、化学肥料を一切使わない農場もあるかもしれないが、インドの国のオーガニックの栽培基準自体は有機肥料で足りないときは制限付で化学肥料の多くの種類も使える基準なのである。だから、オーガニック?コットンがたくさん作りやすい背景もあるのである。

日本人の消費者は、真面目というか厳密なオーガニックを求め、オーガニックとラベルがついていたら日本人的感覚で日本での謳いを信じてしまうが、海外で作られるオーガニック作物が日本で謳われるような3年間化学肥料無使用なんて基準ではないというのも普通にある。そういう作物を使った製品を認証したり日本で販売するオーガニックの業者であるプロが、そういう事実があることも日本の消費者に伝えるべきであろうが、なかなかそういう情報は伝わり難い。

合成繊維が5%、10%入っていてもオーガニックと呼ぶような基準からすると、途中の化学肥料の使用くらいはどうでもよいにも思えるが、消費者がオーガニックであることを本当に信じて買っているのを忘れないことは大事だと思う。インドという国ではそれでよいのかもしれないが、インドのオーガニック作物が日本で製品としてオーガニックとして販売されるときには、真実を伝え、日本の消費者の誤解を生まないような真実に基づいた説明が必要だと思う。日本の消費者に対して、各国のオーガニック基準にしたがってという表現だけでは不十分。裏で有機栽培で難しいときには普通の市販されている化学肥料が使われて栽培されても、オーガニックコットンの最大の生産国であるインドでは、オーガニックの基準の範囲ということも知って日本の消費者には買ってもらうべきだろう。

林与の集落でかるがも農園を子供会でやってるけど、それを支えている農家の人は正直に化学肥料使わないと普通にもち米なんて実らないと正直に話する。似ている話なのである。インドの人にしても普通にオーガニックを目指しても限界にぶつかるもので、有機肥料だけでは無理が普通なんだろう。集落の農家の方もカルガモだけでやってるんであまりまともなもち米が取れないので、その農家が自分のもち米を持ち出して、みんなが餅つきするのを支えておられる。仕事で食べていかないといけないとするとオーガニック基準を下げ化学肥料で補うしか成り立つ方法はないのだろう。真実は真実として、伝えれば誰も悪くも思わない、真実も伝えられないままきれいごとだけ並べられたら騙されたようなほうが問題だろう。そういうズレは、日本国内の絶対的みたいなオーガニックの謳いを崩して正直に化学肥料もときには使うという説明で良いと思う。

オーガニックコットンを愛用している人にしてもそういう部分は知らないまま、3年間化学肥料を使用しないという言葉だけ信じているのが普通だと思う。日本への最大の供給国のインドのオーガニック基準を読んだりするとどの程度の基準なのかも見えてくるが、その辺りを日本の消費者にちゃんと日本語で説明しないのもオーガニックの基準に関する幻想が生まれる一つなので、基準的な謳いに縛られすぎずに正直にラベルなどで説明を加えるべきだろう。それが日本で言うところのオーガニックの定義から外れたとしても正直な説明に勝るものはない。

普通オーガニック栽培すれば、品質はまばらで落ちるのが普通なのである。オーガニックリネンやオーガニックラミーででよくわかっているから。化学肥料で補えば普通のリネンやラミーの品質に持って行きやすいだろうけど、普通の糸と比べると値段は高くても、まともに織れないことが普通なのでオーガニックな麻の世界は正直に作っているんだろうなあと感じる。問題が多いと使うのも大変だし売るのも大変だろうけど。
2019年04月14日
地球環境を守るという謳いがクリーンディーゼルの場合には偽装に繋がる。安全だという飛行機が安全装置のために墜落。そういう背景には人という要素が絡んでいて、本質が消費者を騙して利益を上げることしかないというところを露呈する。消費者がクリーンディーゼルの謳いを信じて、結果、大気を汚染するディーゼルを吐き出す車が何千万台もヨーロッパで普通に走っているとか痛ましすぎる。また、墜落に誘導する危険な装置の付いた飛行機が世界中を飛び回るとか。新しい技術が逆にそういう結果に結びついてしまう。

エコという共通のキーワードがあって、エコロジー、省エネとか。エコというものは本当に利用されやすい。エコが利用されて偽装された場合も、エコ的な推進力国がらみが多いので隠匿されることが普通だったりと、どこまでが本当なのかが分からない。地球温暖化で原発がエコだと推進されたりと世界的な国連ですらも大きなエコの考え方に問題があったりする。

今の一部のオーガニック基準では、よく謳われている3年間農薬不使用とかはもはや幻想になりつつある。たとえばポリエステル、ポリアミド、ポリプロピレンが5%とか10%入っていてもオーガニックと呼んでよいとか、厳しい基準ではなくなってしまって、ポリエステル、ポリアミド、ポリプロピレンは可なのに同じ綿であるGMOは不可とか、私も一般的にはGMOのような利権主義には反対の立場だけど、オーガニックでは作物が育たない環境というものも存在し、オーガニックコットンがその規定のために、逆に普通はコットンが育たないような雨の少ない砂漠のような場所で地下水をスプリンクラーで撒いて人造的にしか効率よく量産され難いという要素などを考えたりするときには、自然の中でコットンを栽培しやすい日本では同じことは無理で、自然にコットンが栽培できる場所だから害虫もいるんだよみたいな本当のオーガニックの世界でハンドピックトで量産は難しい。インドなんかでは2010年資料では、国が、オーガニック基準で足りないときは無機肥料の補助的な使用を認めている話で、オーガニック基準に歯止めが利いていない裏事情は日本の消費者には届いていない。そこに来て、オーガニックを謳う基準として合成繊維が5%、10%入っててもオーガニックを謳ってよい流れ、もう、オーガニックなんていうのは消費者騙しに近づきすぎて、基準というより努力目標程度でよいんじゃないかと思う。

私も麻を扱っているけど、麻100%と、耳糸以外の生地部分に少しでも綿が入っていれば麻ではなく綿麻という表現にしている。さらに、合成繊維が入ってて「麻」ですと謳うと消費者からすると後から合成繊維が入っているのを混率みて知ったら騙されたと思う人もいるだろう。麻生地を使いたい人が麻を求めておられるから。「オーガニック」という言葉に関しても、オーガニックといって販売されたら、一般の消費者は合成繊維が入っているとか思いもしないだろうと思うが、私が間違っているのか?ましてや、3年間、化学肥料不使用、殺虫剤不使用、枯葉剤不使用のような謳いのオーガニックの基準を謳う製品に、5%とか10%合成繊維が入っているとか。消費者の誤解を生まないように「オーガニック+合成繊維」とか「オーガニック○○%」いう表現が適切な表現であろう。合成繊維が入っているものをオーガニックとだけ謳えば、混率に関しても厳しい基準の日本では、消費者の誤解を招く不当表示に当たる可能性はないのか。オーガニックを求める消費者の感覚からすれば許容できないレベルのものという気がしてならない。たとえば、オーガニックリネンと謳うからにはオーガニックリネン100%でないと合成繊維が5%でも入っていれば、まったく別物で、私は騙された気分になるけど、そこまで緩い基準が今のオーガニックの基準のひとつなのが、なんか、GMOの会社と同じで、供給側の利益ばかり都合よく考えすぎて、それを購入する消費者のことは考えていないのではないのか。

別の話になるが、典型的な枯葉剤を使用したコットン畑の画像をバックに、I support organic cotton.が、あるオーガニックコットンの協会のトップページのままなのも、その協会の誰もその畑の画像を見て違和感を感じないのかと思うところ。オーガニックコットン販売士の資格検定というものもされているのに、なぜ、オーガニックコットンでもない画像で、I support organic cotton.というPRなのだろうか。枯葉剤を使った典型的なコットン綿畑の風景がオーガニックコットン畑の風景だと間違った認識につながりかねず、枯葉剤を使用することをエシカルな問題で批判する立場なのだから、こういうミスは放置しておくより指摘があれば修正も必要ではなかろうか。
2019年04月13日
林与では、夏休みの2週間のインターンの学生を2名募集いたします。8月の前半2週間1名、8月の後半2週間1名です。応募を希望される方は、お問い合わせからご連絡ください。締め切りは5月末日。履歴書とインターン志望動機による書類選考ありで、応募者が多数の場合には各期間1名の方を選ばせていただきます。交通費の支給はありません、滞在場所と食事相当は支給いたします。インターン内容は織物製造の現場作業の体験です。
2019年04月13日
両方の墜落の原因は、AoAメカニズムだろう。パイロットの判断とは別に自動的に失速防止目的で機能しないとならないはずの、急上昇しようとすると、逆に急降下してしまい、急降下を防ごうとしてもパイロットが操縦幹ではどうしようもない自動操縦で、海に相当なスピードで墜落。米軍にはその対処方法がしらされていたのではないだろうか。

似たような技術が似たような墜落を生む、ほんとうの一瞬でレーダーから消えてしまうのもエンジントラブルではなく、急降下の証。低速で上昇旋廻なんてしようものなら、AoAを伴なう自動制御メカニズムが働いて、急降下墜落に繋がる確立は高い。あたらしい自動制御のメカニズム、自動制御させなければ熟練パイロットなら回避できる問題で問題はないのだが、自動制御メカニズムがオンなら機首を上げなければならない状況で、自動制御が機首を下げるように働き、脱出も出来ない、どんどん加速して時速500kmとかで海に墜落とか、自動制御にありがちな事故。

原因究明とメーカーの立場とどちらを重視するかの問題があって、ボーイングのときにもメーカーは原因を予測できただろうに、第二の事故を招いた。自動制御がついていなければ問題ないのに自動制御が付いているせいで墜落事故が逆に起こるという問題。同じ問題が起こったんじゃないかと予測する。また、自動制御をデフォとした飛行機や戦闘機なら機体自身が自動制御が必要な要素を詰め込んで設計されている可能性があり、自動制御があるから安全に飛べるというようなものなら、将来も起こる事故である。

ボーイング737MAXが安定して飛行が必要な理由は、想像するに大型のエンジンを積んで、主翼の下に収まりきらないので主翼のかなり前方に取り付けたことだろう。全体としては重心は中心に収まっているのだろうけど。首尾方向に天秤みたいな状態でバランスが取れていて、機首上げ下げの安定性はMCASがないと難しいのだろう。過敏に反応しすぎるのだろう。エチオピア航空の場合には、手動に切り替えたら空気抵抗が重過ぎて手動では尾翼は操作できなくて、自動操縦に戻して墜落したようだ。旧型の737と同じ位置にエンジンを取り付けていたらMCASなしでも問題なかったろうけど、新しい大型エンジンと機体の取り付けの相性が合っていないように思える。従来の実績のある機体に新しい大型エンジンを取り付けたのが、飛行機として全体のバランスを欠く設計になってしまっているのではないだろうか。センサー一つが壊れただけで自動に墜落するような飛行機で、しかもそれをパイロットが阻止しようとしても阻止できない自動制御。安全装置のはずが人々を危険に貶める装置。安全でないのが分かっても引き下がれなくなってしまっているのも、根本的な問題を認めると代償が大きいからだろうけど、次の事故を避けるためにはMCASのソフトウェアのアップデートではなく、MCASを必要としない機首の上がり難い飛行機を設計すべきだろうと思う。エチオピアの事故で、墜落の緊張の中、機長と副機長がマニュアルに沿って、尾翼の制御を電動から手動にしたら、手動では空気抵抗が重すぎて尾翼を動かせなかったということもブラックボックスの解析で分かったようだが大問題なのである。
2019年04月12日
今日は大阪の上田安子服飾専門学校のトップクリエイターコースの皆さんが工場見学にお越しで、まだまだ生産が続いている状況なので手も足りずに散らかった状況の中、数人の工場でもいろんなことやってるのをお話しさせていただいた。多分、織機の構造の説明とかほとんど服を作られることとは関係ないのも分かってはいるけど、一般的な工業生産にしても、伝統工芸と並ぶかそれよりも大変なくらいの綿密な作業が伴っているのを知ってもらいたく説明。

仕事を優先のため、現在、基本、一般向けの工場見学はお断りさせていただいている状況なのだが、全くもって普通じゃない林与とでも取り組んでくださる先生方の心の広さ、また、学生さんをそういう現場に誘導もくださるというありがたさ、現に今、林与では上田安子のトップクリエイターコースを卒業した方が一人、林与に入って普通じゃないのを支えてくれている。

その女性スタッフも実質、3日ほどの現場経験でシャトル織機を動かしてみなさいと、試練的なチャンスを経験し始める。日本に百台あるかないかくらいの状態も良いヒガエ付きの希少なシャトル織機を任せる。日本では織物経験なん十年のおっちゃんでもシャトルは怖いわで、逃げ腰なシャトル織機をさわってもらうのも絶対無理な世界がある一方で、海外では小学生がシャトル織機を当たり前に動かしているとか。仕事というのは経験の長さじゃなく、一回一回の深さそのもの。

今回の見学も熱心に聴いてくださる学生さんがいてくれてうれしかった。見学後も、家で一度リネンというものを使ってもらえたらよいなあと、シャトルで織ったリネンのキッチンクロスなどをプレゼントさせていただいた。年を取ったらできなくなる一方が普通なので、若いうちからいろんなことに挑戦をして軽く越えていってもらいたい。夢を実現するためには自分自身が一番動かないとと思う。アイリッシュリネンのプロジェクトの冊子も同封したが、現在では幻といわれ手に入れるのが非常に難しいアイリッシュリネン糸を織り上げるプロジェクトのことが書いてあって、林与が10年ほど前、40歳のころに取り組んだプロジェクト。デフレで高いものが売れなくなる流れの中、没頭し、とことんつくりたいものをつくるに挑戦してやってみた思い出、迷ったときに、また、何かやろうとする人に読んでもらうと参考になることもあるかも。探していた幻のアイリッシュリネンの糸が林与の倉庫で見つかり、しかもそれが140番手という超細番手で、いろんなことが惑星直列のように揃って素敵なリネン生地に織り上げることが実現できた話です。

2006年頃に、アイリッシュリネンの糸の情報をネットで探していると、同じような思いをもった方がたしか2000年を過ぎた頃におられ、北アイルランドまで行かれたけどもアイリッシュリネンの糸にはたどり着くことができなかったという残念な話をブログに書いておられたのを見かけました。そのブログを書かれていた方限定になってしまうのですが、もしリネン日記読まれていて、北アイルランドで紡績されたアイリッシュリネン糸を今もご自身で織ってみたいという思いあられましたら林与までご連絡いただけませんでしょうか。
2019年04月12日
F35A戦闘機に導入されたALISという故障パーツを自己診断するシステムがある。これは怖い話で、ALISにプログラムミスがあれば正常な部品が故障とみなされるわけで、みなされた故障パーツはその時点で故障なので機能しないことにされてしまわないのか。最新型の飛行機が落ちる問題が自動制御的な構造が取り付けられてしまうせいではないのかと思える。

また、外部から戦闘機を制御できるという問題は便利なようで非常に危ない機能なのである。パイロットが操縦しようとする意図とは別に、外部信号で戦闘機が簡単に制御されてしまうというあたり、今回の墜落でもその外部制御すらまったく機能しておらず、異常の原因すら外部から不明の状況。完全に問題のある戦闘機なのである。

基本的なことよりも、自動制御的な変なものを詰め込んだせいで、パイロット自体が異常を察知しながらも、敵もいないのに緊急事態を回避できず命を失うような問題。アメリカでは、ALISを使っていないという話もあり、日本の自衛官がALISのプログラム実験に使われてしまっていないか。ボーイング社の737MAX8もアメリカの飛行機会社に対しては解除方法が説明されていたが、他国の航空会社には解除方法がマニュアルにも載っていなかった問題と共通する問題があるのではないか。

ものづくりするものが陥りがちやすい罠で、コンピュータや機械技術がすべてだと思うと、人の判断のほうが正しいことが多いものである。機械化されても機械の面倒を見るのは人だから。機械の面倒を機械にみさせようとして、その機械の面倒をみるソフトウェアが人よりも勝っていると信じているけど、それが誤動作や誤判断したときに、正しい人間の判断が否定されるか、邪魔される。そういう考えには、つかう人を幸せにしたいというよりも、自分の考えでつかう人の行動を支配したい欲望があったりするんじゃないだろうかと思える。そういう人はあたたはなになにしなければならないみたいな一方的に要求するタイプだったりする。ものの問題じゃなくて人の問題だろうなあと思うのである。AIなんて完璧になったとしても、AIが責任を取るとかAIを作ってる人が責任をとるなんてことはないから現実社会からみれば遊びというか他人事の世界、そんなのに本当の人の命が掛かる判断を委ねるような流れはないほうがマシだろう。

予測的な話だけど、737MAXは当面注文するものはいないだろうという話。事故が起これば責任を取らないといけない航空会社の当たり前の判断だろう。小学生のころにアメリカに剣道でいったときに、JALの飛行機にはじめてのったけど、出発前の集いで、JALの社長のお孫さんに当たる小学生のお嬢さんがピアノを披露する中、団長がJALの社長にもしも飛行機が落ちるようなことが起きたらどうされると問い詰めた話をされた。それに対するJALの社長の返事が、「腹を切って詫びさせてもらう」ということ。当時、私はまだ子供で本気の話とは思えなかったが、団長にしてもJALの社長にしても本気で責任をもって子供たちを預かる覚悟。覚えている子供の頃の話の一つ。
2019年04月11日
私の先代もそれなりには仕事はしてきたとは思うが、実際に自分が仕事をして正しいものがつくれるのかというとその辺りがなかなか難しい机に座っての商売型の経営者タイプ。私自身、そういう経営者タイプというのは存在すらもが今の時代には無駄で通用しないと思っているので、経営者たるもの自分が指図をするなら現場の人がする程度のことくらいは当たり前にこなせないと駄目だろうと思う。これは自分だけでなく、ものづくりするチーム全体として一つの企画の達成のために関わる全員ができることをフルに動けないと駄目だろうとは思う。

実際に私が作業全体をできる部分があって織物をつくり続けていられるんだろうと思う。私が作業全体をできなければ、人が少なくなったときに自分で織るのもできなくなって産元的な織物企画会社になってしまっていただろうと思う。林与も出機さんで織物を織っていたこともあったが、出機さんでは縦が何百メートルとか千メートルの一番量のまとまった仕事ばかりを常に頼んでいたので、出機さんでは対応が難しいと思われる手間の掛かる仕事や、小さい仕事は自社内でこなしてきた。高度な仕事ほど負荷が掛かるというのは分かってもらえるかもしれないが、小さな仕事の繰り返しほど負荷が掛かるものであったりする。一般的に、アウトソーシングという意味では、ふつうは逆に手間の掛かることを外部に任せるのだろうけど、本当のものづくりというのは面倒な部分をちゃんと自分たちでこなしてゆくでよいのである。

よくお客さんはオリジナルの生地がほしいのでサンプルをまず見せてほしいといわれることがあるが、サンプルを作ることは量産を想定すれば量産よりも負担が掛かることが多いのである。織物規格を決める必要があるし、染めるだけでなく色ビーカーも必要だったり、機をつくる必要もあったり、そのサンプルのために機の載せ替えをすれば、サンプルが終った後にまた機を戻さないといけないなど。人員的な面でも量産の仕事の手を止めてサンプルの作成に人員を使わないといけないので、一つサンプルをつくる間、すんなりいったとしても実質1週間ほど会社の生産がストップしてしまうことも多い。

学校なんかで手織りで勉強した人が、手機でサンプルをつくることがあるけど、手機というのは量産の織機とはまったく構造が違うので、手機で織った凝ったものを動力織機で量産しようとすると多くの織れない問題に直面する。毛足の長い特殊糸を使っているとかは致命的で、手織りだと毛足の長い意匠糸も織れるが、動力織機だと開口のときに、毛足が開口の邪魔をしてキズだらけで織物にならないとか、根本的に糸から考え直さないといけない問題が生じてくる。あとラメ糸なども非常に細いものが多いので、糸切れのフォークやセンサーが反応しないなど、人がずーっと動く織機の横糸が切れないかを見続けていないといけないとか。縦糸も手織り機にはドロッパーがないので、緩んだ縦糸でもサンプル程度なら織って形になるが、実際の動力織機に載せたときには組織の設計が糸緩みを計算できていないと、組織の甘いところの糸が緩んできて縦糸がすべてボツになってしまうとか。

学校でも食べて行く想定ならば、手織りもしながら、動力織機を導入して基本作業とすればそういう問題は解決するのだろうけども、そこまでできる織物学校というのもなく、どうしても頭の中の織物設計や規格、ならびに1点ものづくりがクリエーションということになる。問題に直面したときに、そういう問題をクリアするためには企画する人以上の解決能力が現場には求められ織機の調整ではどうにもならない問題も多い。

一例では、テンション差、同種類の同じ番手の麻糸でも、色糸と白い糸では糸の性質が異なることが多く、糸の設計や染めのチョイスに自由度や調整が入っていなければ染まった糸というのは糸が硬くなり伸び度が落ちやすい。縦糸切れを直すためにソウコウの間に手を入れると隣の糸が壊れるようにぽろぽろ切れるとか、昔だったらありえない問題が今の糸には存在する。何年か前には100m織るのに3ヶ月以上一つの企画ので費やしたことがあって、その糸の問題ために織機の個体差に掛けて、4回も織機を載せ替えした。でも結局は、それほどまでに問題のある糸は織機の構造の限界を超えていて、奇跡的に新しい織機の導入で解決ができ織ることができたのである。その年には、6ヶ月解決に掛かった問題も同様の問題。もう一つの仕事も100m織るのに1ヶ月とか。細番手の縦糸の縦糸の3つの問題で苦しんだ数年前の1年。

普通だと支給の糸だったので糸が織れないと3つとも断る仕事だったのだろうが、お客さんが困る話だろうから、すべてを捨てるような覚悟で乗り越えた。そういう糸というのは、糊をつけていない状態で横糸としてノーテンションで織っても物性が異なり、白糸と色糸では3cm以上も織幅が異なるなど。自社企画で受けた仕事なら、こういう1回の糸の問題でワンマークの納品ができず織物工場が潰れてしまうほどのダメージもあるだろうと思う。私は他の人の企画でもそれなりに努力はするけど、こういう問題は織機の調節では解決が無理なレベル。それでも奇跡的にそんな織機の調整では織れない糸も織ることが巡り合わせ的な要因でたまたまでき、その一年を乗り越えることができたのである。1年で3つも糸の問題で織れない仕事があると経営が難しくなるだけでなく、普通は、次から同様の仕事も受けてうまく行く自信も無くなり織るのも危なそうな仕事は断る話になるだろう。

こういう仕事も私が現場に入って自分で問題をみていたので最終的には原因も糸の問題だとわかり、解決ができたんだろうと思う。他の人に任せていたら織れないという結論で終っていただろうと思う。シャトルのドビーの織物にしても、横糸切れの処理が普通よりも複雑なので他の人ができないから私が織るということが多い。そういうときに自分だと解決ができるのが強みで、私が普段ほかのものに任せて織っていなくても、普段織っている人が織れないものでも当たり前に織るのを見て、織っている者が、私に織れるといわれたものが普通に織れるんだということを知ることも多いのである。織物経験が長くても基本が正しくなければ織物は織れないことも多いので、そういう基本が正しくない問題に至る考え方から変えてゆかないとならないのも、最初にあげた先代の問題にも共通するところなのである。
2019年04月11日
人というもののいろんな負荷に耐性はある程度は養われるもので、負荷が掛からなければ耐性もなくなってしまうものだと思える。衛生的な環境の中では耐性は劣ってきてしまう。日本人が海外に行くと海外の人は平気に現地の水や食べ物を口にしていても、慣れた食べ物でないと体調を崩しやすいものである。普段から慣れていれば自然と適応しやすいということになるが、普段からなれていなければ適応できないということになる。

日本人が器用だといわれた背景には、他の民族よりも器用さに適応してきたことがあるだろう。日本の神社の儀式や農作業などもかなり複雑で、藁から縄や草履、ムシロなどを作ったりするとか、農家が自分で糸を績んで手織りで切るものまで作り上げるとか、何代にも渡って器用さが培われてきて、単に訓練だけでなく、DNA的にも進化して、日本人は他民族よりも器用であるというあたりになったのだろう。

近代になってからは身の回りのものも自分で育てるでもなく、購入することが多くなり、行事関係も少なくなったために器用さというものは不必要なものとなり、器用さの面では退化したのではなかろうかと。良い時代ほど、人々は退化してしまうもので、豊かになるとより豊かさを求めて、甲斐性を越えた豊かさをほかに求めることになり、国レベルでは戦争や植民地支配などの問題につながって行くのだろう。

麻の生地に関しても、本麻というものの肌辺りが慣れている人にとっては問題がないけども、多くの人にとっては肌触りが硬いという感覚が普通になってきている。これは人々が合成繊維のやわらかさに慣れすぎ、肌が硬さに対しての耐性がなくなってきていることと、人々が汗をかくような想定が少なくなって、汗で体温調整を行うメカニズムも退化して、麻が水分を吸う事で肌当たりのよいものになる流れも生まれにくくなってきていることも一つの原因だろう。

従来型の本麻は人々には受け入れられ難くなって来ていて、スイビ混の本麻のほうがスイビを抜いてやわらかくなりやすいので、受け入れられやすいなど、麻でも合繊ちっくなもののほうが、人々には違和感がないというか好まれやすい状況になってきている。本麻にしても昔のものというのは、原材料からしてもよりピュアな仕上げがされていて、やわらかかったことがあろうかと思われるが、今日では、使う薬剤の制限もあって、昔のようなピュアなテイストの麻は手に入り難くなってきている。

一例では、昔の織物加工の温度は90度を超えていたが、今では70度程度に抑えられている。というのも、90度に耐えられるような染色を施しているケースが稀になってきていて、70度程度に抑えないと色落ちの問題など起こってしまうケースが想定されるからである。本来は、湿摩擦などの堅牢度の問題も、完全に高温で色を洗い流しておけば色落ちは少なくなるのであるけども、加工で高温にすれば色が落ちてしまう問題があるから高温にできないという問題が存在をする。

納期的な問題があって、シルクを染めておられる染工場が麻も反応染料で染められるということで、色落ちも問題ないという話しだったので染めたことがあるけども、加工すると3分の1くらいに色が落ちた。湯洗を50度程度でされていたのだろう、加工での想定温度が50度程度だということを聞いて、70度で加工すると色落ちするのはよく分かる。同じ染でも麻を得意とする染工場と慣れておられない染工場では経験の違いから染まった糸も色は似てても非なるものである。伝統工芸系の染と工業系の染の違いもあろうかと思う。伝統工芸系の染というのは個人が染めるのと近い設備の中で行われ、工業系の染というのはより均一に染められるように設備も大型でしっかりとしている。個人規模でも染の堅牢度を上げることはもちろん可能なのだが、作業工程と作業時間が増えるので、それにどう対応するかの問題であろうかとは思う。
2019年04月10日
ボーイング社の問題で、今回は本社内の開発の問題だったから保身的な構造が働いたように思う。もしもこれが外注部品だったら、ボーイングは失われた命に対する損害や営業上の損害などすべてを外注先の企業に責任を負わせていただろう。本社が問題の根源であるときには、社会的責任は逃れるような対応となってしまうのである。外注部品の問題なら徹底的に外注先に責任を追及する形になったであろう。同じ事故でも本社か外注先かでボーイング社の対応も変わってくるのである。

外から見ればおかしな話だが、責任を逃れたい気持ちは分かる。JR西の福知山の事故でも、JRの人間が130kmで脱線するはずが無いから置石だと、脱線直後から早々に置石説を広めた。100kmを越えるスピードでカーブに突入した運転手個人の過失みたいな話になったが、130kmで脱線するはずが無いというJR技術者たちも含め大きな問題で、重大事故ほどとりあえず問題から逃げようとする構造がある。一番安全な、本部の人間ほど責任逃れの傾向があるのである。

一回目の事故でもボーイング社の中には、MCASの問題であるとう認識はあったであろうが、自分でそれを公表することはしない。人の命を奪った事故ですら、自分の責任を認識できない体質が存在し、2度目の事故で言い逃れができず、事故の責任がMCASにあることを認めた形。安全意識とはほど遠い責任逃れの体質。もちろん、飛行機開発には問題はつきものなのだが、隠匿的な部分がみえ対応を怠ったから2度目の墜落事故が起こった。

MCASの度重なる問題を公表もせずに、1度目の事故が起こり、1度目の事故後も隠匿し、2度目の事故で、ようやくMCASの問題を認める。タカタがあれほどまでにアメリカで叩かれたが、ボーイング社はアメリカの国がらみなので、ここまでむちゃくちゃな対応していてもアメリカの政治に潰されることは無いだろうし、逆で、国家的な保身で守られる。

飛行機のメーカーとしてはボーイング社が世界で一番だろうと思うけども、いざ事故が起こるとこんなものなんだなあという印象。ボーイング社的には自分の問題で落ちてもそんな程度の話なのかと。人が多く働いていると自分の責任だとは感じないというのは仕方ないことなのだろうけど、ボーイング社自身が責任を取らないといけない問題なのであるが、また、上から目線でサポートするとか、注意喚起とか、本来ならリコール、返品の話が普通だろう。ソフトウェアアップデートの話もお粗末で、3度目の墜落が起こっても仕方ないと思う。離着陸という一番のパイロットにとっては緊急時に、頻発するMCASの問題をパイロットが解決しないとならない問題。そんな緊張時に、パイロットの意図と反して逆に動こうとする自動制御に何の意味があるのか。違和感ばかりの操縦になってしまう。MCASは間違っていないという主張なのだろう。たまたま意図しない要因が重なって事故が起こっただけにもっていきたいのだろうけども、MCASはパイロットの正しい判断を損なわせる効果があって、致命的な欠陥であって人の命を奪う原因になってしまう可能性の高いものである。AoAのメンテナンスの問題にすり変えたいようだけども、なぜ左右のAoAの値がタクシーイングの際にずれていることがそもそも想定に入っているのかも不思議すぎ、左右のずれ1度でも駄目じゃないかとおもうが5度も許容範囲とか。人間の感覚のほうが5度のずれを的確に捉えることができるだろうに。人間の感覚よりも鈍いセンサーが飛行機制御のデータを送り飛行機が動かされてしまう。

実際に乗って飛行機が2度落ちて人が死んでやっと改善されるプロセスでしかないのも体制としてはおかしな話。マニュアルの不備の問題よりも、人間が手間取らないように自動化しているのにそれを余計にマニュアルで人間が理解して無効化するとかの話は、自動化の意味すらも不明。離着陸の一番事故が起こりやすい状況で、パイロットが自動操縦の問題も解決しないといけないとなると何十秒かの負担が増えている。自動操縦が人命を脅かす操縦動作を頻繁にしてそれを人間が正しく補正しないといけないなんて、最初からないほうがましそのものだろう。プログラム開発の人間は、ゲーム機のようなコックピットシミュレーターで飛行機が落ちる緊張感もなくシミュレーターを操縦し開発しているんだろうなあと思う。実際に時速500kmで海に突っ込むときに、機械に逆らいながら自動操縦を解除する、解除してもそのあとに復帰しないといけない問題が、誤動作しがちな装置なんて最初から付いていなければよいだけのことなのに、規制というものはそういうものを付けたがるもので、人が死んでも規制のほうが大事となるようなことも実社会ではありがちで、保身構造というものはそういう根本的な危険をはらみ、人が死んでも痛みすらも感じないものたちが存在する。パイロットやグランドオペレーションに改善を求めるよりも、ボーイングに問題の責任と改善をさせるのが筋だろうとFAAのあり方にも問題を感じる。
2019年04月09日
ボーイング737MAX8の問題は、MCASというシステムにあると結論付けられているが、その前提として、燃費を優先した設計で、1回に15%ほどの燃費を節約できるという売りにあるのではないかと思う。急上昇旋廻時によりGに耐え難くなって、そのため、失速墜落するのを防ぐためにMCASというものが取り付けられたようで、低燃費というか、利益を優先した設計が安全を犠牲にしたのではないかと思う。

設計自体がパワー不足で急上昇旋廻の場合失速して落ちる危険性を伴なう想定の機体。利益優先主義というのは、多大な犠牲を伴なうものである。低燃費と絡んだクリーンディーゼルの問題でも、燃費測定時に特別のプログラムを走らせることで、排ガスを押さえるという不正を行ったフォルクスワーゲンも、ディーゼルの排ガスの垂れ流しを何千万台と生み出し、ヨーロッパで人気だったクリーンディーゼルという謳いがもはや大嘘というヨーロッパの巨大企業の構造を露呈した。この20年ほどは大嘘が一人歩きして、不正で大きな利益を得ていたのがフォルクスワーゲン社。地球環境のためにクリーンディーゼルを信じて買った消費者を裏切る行為で、その体質は人間性の問題でマニュアルの整備で治るということはないだろう。原発行政でも、今は地球環境保護のためじゃなく、電気料金が高くなるから原発が必要と電力会社がうたい文句に本音を言い出した。PCBやアスベストどころではない放射能汚染のような地球環境の破壊要素が莫大な利益を生み出す構造で、日本なのだが、日本が一番の原発推進国で、国を挙げて原発輸出を推進してきたような背景すらある。エコノミックアニマルと笑われてもしかたないのかと思う。原発のメルトダウンも隠匿する国家体制と原発行政、旧ソ以下の隠匿体質は、フォルクスワーゲン社の不正などとも共通する要素である。

ボーイング社が、737MAX8を廃止できないのも、ボーイング社の存続という利己的な要素と絡んでいるだろう。1000機以上の販売契約を白紙にすれば、ボーイング社は潰れる可能性もある。安全性の低い機体が今後世界中の空を飛び回る、3度目の墜落が、面倒なMCAS動作のキャンセル手続きで対応しろというのもパイロットにとっては煩雑そのもので、指導もすべきFAAのだらしなさそのものに思えるが天下り構造が働いていそうな穏便なボーイングに対する対応。3度目の墜落を防ぎたければ、構造上危険性のある737MAXは、製造を中止するべきなのであるが、人の命よりも利益が優先される構造がそこにはあり、メーカーだけでなく安全性を統括するものたちでさえも命よりも利益を優先する構造がそこにはある。MCASのキャンセルプロセスがマニュアルになかったのもその辺りでそれで通していたのもFAA、今さら購入した航空会社にパイロットにはボーイング社の指導に注意しろはないんじゃないか。3機目が墜落しないと製造は中止にもならないのだろうが、今後何十年と空を飛び続ける飛行機なのに構造上の欠陥が分かっても後戻りしない殿様商売、過失どころではなく、ボーイング社とFAAの意図的な怠慢が今回の2度目の事故。

最初から無効化しておいたほうがよいMCASだが、無効化するとある想定ではパワー不足で墜落する危険性。利益と乗客の命を天秤に掛けたメカニズムでつくりあげられた737MAX。燃費と絡む設計上の構造的な問題なので解決は難しいだろう、そんな飛行機が今後何十年と世界を飛び回る。新しいものほど危険性が高いのも、カネに目が眩んでのものづくり。アスベストやPCBなんかも同じく、多大な犠牲を伴なわないと危険性すらも日本のレベルでも、被害者である人々を叩き戦うような姿勢に陥る。権威者の保身というものが、人々の命を奪うことも多い。

ちなみに、サウスウエスト航空で、737MAXが、MCASの不具合でのトラブルが8件発生していたというが、オートパイロットを解除して手動操縦に切り替えて、無事に対処できたと報じられている。むちゃくちゃ危ない状況をボーイング社が隠匿している。2度飛行機が落ちて、初めてオートパイロット解除方法が書かれていないマニュアルの不備とかの話。落ちるべくして落ちた事故。サウスウェストのパイロットにはMCASキャンセル方法の教育がなされていたという。ボーイング社やFAAもこういう報告も受けているはずで、危険性も認識をしていただろうから、それを公表もしないのは、命の重さの違いを感じる。

いくらCEOが、ソーリーといっても、駄目なあたり。安全性そのものの軽視。しかも、ソフトウェアアップデートというカネの掛からない方法で解決しようとしているが、MCASを必要とする737MAXの構造上の問題がそこにはある。今更パイロットが自動操縦をオーバーライドできる風に変えるとか、なんたる怠慢なんだろうと思うが、それだと、意図しない自動操縦をパイロットが補正しないといけない自動操縦が危険を招く余計に面倒な問題で、そもそも自動操縦の意味すらもないのである。自動操縦で壁にぶつかりに行く車を運転車がまっすぐ走るように補正しないといけないプログラムが存在しそういう状況が生まれる車と同じで、まともとはいえない飛行機。なぜ製造を中止しないか、自動操縦そのものを廃止しないか、ボーイング社の安全意識の問題の深さがあるだろう。自動操縦が人の命を2度も奪ったのにまだボーイング社は金儲けに目が眩んでしまっている。センサー異常が多発する欠陥が品番に起こりそれを元に自動操縦が働いてしまう飛行機なのである。左右のAoAセンサーが5.5度以上違うという想定すらもむちゃくちゃで、そんなものを自動操縦のデータに使ってもよいのかという話。自動操縦を切って運行したらFAAからオンにしろと指導するんだろうし、飛行機を2度も墜落させた自動操縦をまだ強いるというのもパイロットにとっても酷な話。日本の行政の問題と似ていて、乗客の安全よりも、為政者の保身的な力関係が働いている。

台湾の高速鉄道の問題でも自動運転がまともに働かなかったから切った問題があった。自動運転というのはセンサーが重要だから誤動作するもので、通常の運転よりもセンサーの誤動作対策まで運転手が求められる。自動運転がどれだけ、重大な事故の原因となっているかを考えれば、自動運転は自動運転がないよりも大きな危険を伴なうことは分かるだろう。たばこでも肺がんで死ぬ恐れがあります見たいな注意喚起なのに、自動運転オンにも自動運転プログラムが起因で事故で死ぬ可能性がありますが自己責任でオンにしてくださいみたいな同意が必要だろう。結果はそれだから。自動運転でも偽装が行われ、自動運転の無事故距離がでっちあげられている。自動運転をオンにするとまともに走らないので、オフにして自動運転車を走らせて公表されている自動運転無事故走行距離を稼いでいる。自動運転車のテスト走行で、自動運転車が死亡事故を起こしてしまったら自動運転はオフでテスト運転車が携帯をしていたからではないかと、自動運転の問題ではないと自動運転を正当化。でもなぜ運転車が自動運転をオフにしないと駄目なのかの問題が自動運転車開発メーカーの利益優先で安全偽装の考え方。

役人にしても、人々の健康よりも税収が大事で、たばこは町内で買いましょうみたいな、子供のときに子供ですら違和感を感じるキャッチフレーズでタバコを推進。他人の命よりも自分の立場というのは、役人的な感覚にありがちで、世界に共通するあたり。人々の健康を守るはずの予防接種でも、注射器の使いまわしがもちろん危険だとしっていても、注射器使い回しを許して、家畜のような感覚で子供たちに強制的に予防接種というのも肝炎の問題など何十年も後にほとんどの人が苦しんで死んでから国も腰を上げて過ちを認める。薬害エイズだけでなく、日本の異常の肝炎の蔓延は国がだらしないこといい加減に強制して広がっている。看護婦のお子さんだけが、親の意思で予防接種を拒否していたのも、プロだと分かる厚生労働省の健康を司る役人の国民に対する健康に対する安全意識の低さは犯罪レベルそのもののことが多い、1回で国民の一人ひとりが一生背負う問題が、偉そうに振舞う役人のだらしない行為と保身から生まれる。
2019年04月08日
世界最先端の技術を集めた最新の飛行機が2機墜落。ボーイング社が墜落防止装置に問題があったことを認めたようだが、同じ飛行機自体の生産も続け、FAAも肩を持って、購入者側の航空会社にボーインクの注意喚起を遵守しなさいというようなハシタなさ。

墜落防止装置も2重に掛かったロックを外せば、外せる形だったけども、マニュアルにも装置自体についての記述がなく、そういう装置が墜落事故につながるという危機意識がボーイング社になかったという、原発は爆発しない爆発しても制御できるという楽観的な発想。

自動運転車やETCも同じ感覚だろう。死亡事故が多発するという問題を無視して営利に走ってしまっている。私は運転車が死亡事故を起こすのと同じ問題で責任も同じくらいにあると考えるが、国会議員や国の役人にしても死んでもどうでもよい命というカテゴリーをつくっているのだろう。自分たちは責任がないと逃げるだけで、死者が出たり被害が広がるのである。

たとえば、モサントのラウンドアップを2L飲んでも平気だという科学者。実際に自分が飲めといわれると自分は馬鹿じゃないと飲まない。他の人間の命すらをなんとも思っていない輩が、安全を謳う広告塔になるのである。その科学者のように信じた馬鹿を騙す世界があるのである。

737MAXの製造を中止する措置も取れず、同じ飛行機を今後も飛ばし続けないといけないのは、ボーイング社の体質で、FAAの体質だろう。人の命よりも飛行機会社の利益が優先されるのである。もちろん、ボーイング社とFAAは密接な関係があり、今回の2度の問題でも、2度目の事故はFAAの安全意識の低さそのものと考えても良い。

自動運転車にしても同じ問題がある。国と自動車メーカーは密接な関係で天下りも多い。無車検車の問題にしても、一般のものは車検でも遵守が義務付けられているのに、メーカーが無資格者に適当にやらせていた犯罪そのものである。自動車会社を廃業させてもよいくらいだろうし、事故が起こったときに無車検車だとどういう扱いになるのか、国も即時の車検でなく車検時に対応という車検を見逃す対応。国の車検制度が役人の権益と自動車メーカーの利益を確保するために存在する、そもそもその程度のもので情けない話なのである。実際には車検後に事故や問題が多いのも事実で、まともに走っている車を触れば問題は逆に起こりやすいのである。

今回の飛行機事故でも整備されているという想定があったから、パイロットも地上走行中にセンサーの異常が出ているのに警告を無視して離陸。しかも新型の飛行機のセンサーで、そんなものの左右の角度がずれる問題が続いて、角度がずれたときに大きなほうを優先するというやばさ。墜落事故が起こっても当たり前の墜落防止システムだったのである。これも自動運転車に起こりえないことではない。安全装置が正しく動けば安全装置、だが、万が一正しく動かなければ命を奪うほどの危険装置であるとういうことも、タカタのエアバックの問題でも同じこと。今回のボーイングの問題はタカタの問題どころの問題ではない。ボーイングというよりFAAの体質の問題だろう。同じ問題が日本の国土交通省にもいえる問題で、自動運転車の自動車の欠陥もたくさん人が死なないと国も改善には動かないだろう。
2019年04月08日
遅ればせながらの現在梅田ロフト1Fでテキスタイルマルシェが行われています。林与も出展12社の中に入って出展しておりますが、今回はスペースの関係で生地の持ち込みは少な目です。私も最終日の4月16日には店頭に立つ予定でおります。




2019年04月07日
4月になっても寒い日が続いていたけど、ようやく近江湖東地域も暖かくなり桜が開花し始めた。桜が咲くというのは春ですよということを保証するようなところがあって、水が100度で水蒸気になるというのと似ているほどに暖かくならないと桜は咲かない。桜が咲く前の日の夜の異様なぬくもり感というのは、私自身に動物的なところ残っているからだろうか、暖かさの中に桜の香りすらを感じるのである。

子供のころの近江湖東の冬というのは基本雪に包まれた厳しい寒さなのだが、今はもう日本中どこも同じだろう、それは外の気候がというよりも、家の中も冬でも十分に暖かいというあたりだろう。火鉢のぬくもりだけで手を温めるだけの家の中、雪の中、食べ物を探しに前栽に小鳥が来たことで一瞬寒さを忘れられるくらい。

そういう寒さのなか、子供の頃は剣道をしていたので、私は耐性があって普通の寒さくらいには強いのであろう。今の仕事でも身体的には学生の部活動よりも大した仕事ではないと思う。


2019年04月06日
今日は、自治会のこいのぼり立てに朝から参加。同世代も4人ほど混じっていて久しぶりに出会って話。2歳上の大手織物メーカーの地元の工場に勤めている方が、その工場も人手不足で誰か整経の管理と作業をできる人がいないかという話なのだが、整経という作業は織りの現場よりも難しいところがあって、1回の失敗で何十万、何百万のお金と縦糸を用意するのに使った1ヶ月2ヶ月の時間が消えることになる。私の会社でも整経の作業というのは一番できる人が行う形。

その工場はたぶん産業用の資材織物なので合成繊維が主体であろうから、糸もほとんど切れることなく麻織物よりは整経もしやすいだろうけど、逆に合成繊維は高い基準が求められるので、織物経験者でも田舎だとそういうのに適材っぽい人は少ないだろう。未経験の人のほうが、今のものづくりの現場では役に立つことも多い。

検反機にしても、反物を確認するのには使えないとこまるし、使い方を覚えるのも2回3回反物を巻けば覚えることができる簡単な作業なのだが、経験者や職人と呼ばれる人ほどできないやらない分からないが多いもので、アルバイトに来た人に教えて1日目からできる作業が職人的だと逆にできないということが多い。

仕事というのはやろうと思えばどれだけでもあって仕事があるかないかはその人の能力次第だと思う。できなければ仕事はないのだし、できればどれだけでも仕事はある。

昔、糸の在庫を量るのを頼んだことがあるが、箱を開けて何本木管が入っていて木管1本が50gだから、その分と箱の重さ1kg程度を引いて正味の重量を調べて欲しいという2度3度説明をして、わかった、わかったと返事もらって頼んだのだが、結局、箱を量りに載せてそのままのグロスの重さを書いて終わりだったり。おっちゃんとおばちゃん二人で何日もやってもらって給料は払っても、仕事としてはまったく駄目なのである。何十年の経験者でもその人の経験というのはそんな感じの繰り返しでなかなか通用しないのである。

できる人というのは最初からできるし、出来ない人というのは何かできないやらない要素をもっているから、できるようになったとしても普通に食べて行けるスピードでできるとか正しくできるとかということはほとんどない。早くする方法を一生懸命説明しても屁理屈ばかりでやろうとしない。言われていることに従うと馬鹿にされているように思ってしまう壁があるのだろうと思ったりする。私の母親がそういう逆らいタイプでそういうタイプの人というのは素直に人のいうことを聞いて実行できない。意図はしていないのだろうけども、本能的に、できない、分からないというと相手が困ることで自分が上に立てるような錯覚を持っているのではないかとおもうほど、何でもできない、分からないという。田舎のおっちゃんおばちゃんにはそういうタイプの人が多いのも事実で、力関係に弱く、人間関係ばかり意識して仕事を仕事として見える人が少ないのである。
2019年04月02日
仕事柄、いろんなブランドを立ち上げて立っておられる方々との出会いが多い。ほとんどの場合、普通じゃない努力や覚悟でたっておられるから成り立っているだけのことで、外から見ると理想的な部分しか見えず、憧れる世界が存在している。

でもそれを支えるがわになろうとすると現実の仕事の負荷に追われることになる。理想と現実のギャップ。企画力よりも行動力の方が大事だなあと思うことが多い。プロジェクトを10立ち上げるは簡単だけどそれを形にするには、一つ一つ難しく、一つも形にならないも普通のことだろう。

普通の感覚を持って普通の行動力で普通に終る。やっても成功というか成り立つ確率すら低い考え方の一つだろうと思う。自分自身が覚悟決めて物事をやって経験を積んでいくか、また、動かないといけない環境の中で経験を積むかしないと、普通の経験で時間を過ごしたり、普通を求めて過ごしたりしていると、外からの目にしても普通にしか見えない存在に終る。

ブランドを立ち上げておられる方と言うのは、スポンサーが付いているとかでない限り、相当な覚悟で動いておられ、普通を越えた感覚で動かれている方がほとんど。自給自足的な感覚が当たり前で、他の人に自分の幸せを求めない立場だからだろう。ブランドを立ち上げられて成功に終らず、副業をしながら自分の目標に向かっておられる方も多い。今成り立っている物事でも、何年もうまく行くとは限らないし、華やかにしておられる背景も華やかだと早く終りやすく、幸せに見える裏に苦労があってそれを乗り越えておられると、他の人が真似できないものだとそれが本質的なブランドだろう。
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