2026年01月29日
台湾が邪馬台国だという一つの説があるが、魏志倭人伝の記述からするとあながち一番説明が成り立ちそうな説ではあったりする。台湾は日本ではないので、日本人からするとあまりうれしくない説だけども。
南へ水行20日で投馬国という国がある。トウマ国なのである。沖縄本島の南部のほうに、沖縄に固有の苗字があって、それがトウマさん。苗字というのは地名からついていることが多いから、あるいは、地名がその国の王の一族の氏からついていることが多い。だから、トウマさんが一族的に仕切っていたトウマ国だった可能性はある。沖縄に行く機会があれば調べてみたい。また、トウマという音は、タイマという音にも通じていて、全国のちらほらあるトウマ神社というのは大麻神社である。
そしてさらに南へ水行30日というと台湾で、日本人の今のイメージからすると中国と台湾というのは地理的には非常に近い関係だから、弥生時代にも交流があったのだろうと思われているが、中国と台湾の関係というのは西暦1600年あたりからというのがよくいわれることで、それ以前は、中国にとっては台湾という場所は、原住民たちが住む他国的な存在であった。台湾を征服に行こうとしても病に倒れるとか中国本土の人間にとっては近寄りがたい場所で、南方由来のマラリアとか、フィラリアなどが、原住民しか生活が難しいような場所にしていたのであろう。あと入れ墨文化というのも、海洋民族的で、台湾の原住民には入れ墨文化があって、今も台湾では刺青が人気であったりする。
魏志倭人伝で気になることに、本州や四国っぽいことが倭国としては描かれていないことで、中国と通訳などを行き来していたのは九州地域に限定をされていたようで、その後に、九州は別府など、律令制度の枠組みの中でも別扱いとされるなど、ある意味、本州の倭国とは別枠的な存在であったと考えられるのではなかろうか、特に当時、広島から兵庫までの瀬戸内がわというのは吉備国という国が力を持っていて、吉備国は中国王朝とは接点をもっていなかったのだろう、そしてさらに奈良や京都大阪という近畿地方、卑弥呼の時代にも大和王朝は存在はしていただろうが中国とは直接的な接点は持たないようにしていたのではないだろうか。
ヤマト国のヤマトという言葉の由来についても、数年前までは山の都ということを由来だと考えていたのだが、しっくりといかない気がして、たどり着いたのが、ヤマトというのは人を指す言葉だという考えで、やもうどという言葉ある。山人と書いてヤマビトがなまってヤモウドなのだが、仙人というのも良い意味での山人なのであって、仙人というのは蓬莱山に住むとされていて、倭国以前は中国では日本のことを蓬莱とみなしていただろうといわれることが多い。
そこで、徐福の登場となるのだけども、徐福というのは方士で、方士というのは仙人という意味も含んでいて、徐福が日本にたどり着いて弥生時代を形成してから蓬莱という国が、ヤマト国という名称に変わったのではなかろうかという風に最近は考えるようになった。こう考えるといろんなことがつじつまが合いやすいし、富士山を中心とする関東というのは、昔は富士山の噴火活動が非常に活発だったので、古代に存在していたとされる富士王朝なども火山の噴火で滅んでしまったそうだし、関東ローム層なども、火山灰が2mとか3mとか降り積もってできているのからしても、富士山周辺というのは富士山などの火山噴火活動が活発だった古代には住むのにはそれほど安定した場所でもなかったのかもしれない。
奈良や京都というのは遺跡の宝庫とされているが、滋賀県でも縄文時代の土器などが琵琶湖の湖底70mから見つかったとされ、林与はその場所は当時は竹生島までつながった場所ではなかったのかと想像している。そういう背景には琵琶湖が1年3cm北に北上しているというようなことも2000年で60mほどは琵琶湖も北に移動すれば陸だったところが湖底になるのも仕方ない。竹生島は一枚岩なので浸食さずに残っている形だが、その西側は一気に90m近くまで水深があったりして、浸食された柔らかい水中の土砂は吸い込まれ続けているのだろうと思える。
日本も今は島国だけども、氷河期には海水面が最大で120m低かったとされ、当時は大陸とつながっていたとされている。縄文人は大陸から歩いて日本に渡って来て縄文時代を作り上げたと考えられている。今は国という概念があって、古代のほうが国教というものを意識することなく人々が自由に世界中をたべものや安住の地を求めてさまよいながら行き来していた可能ではある。