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リネンや麻を織る日々をつづっています。
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2019年05月18日
今日は、スタッフの子が、タイイングマシーン2日目の練習。準備作業も昨日よりも何倍もスムーズにできて、つなぎ始めることができた。タイイングマシーンは、機場で何十年の人でも使えない人が多いのに飲み込みが早い。

タイイングマシーンも大事に使わないと調子のよいタイイングマシーンでもレバーが回らないときに無理をさせると一回でこじてしまって調子が悪くなる。林与には、同じタイプのタイイングマシーン4台あるけども、一番調子のよいタイイングマシーンで練習してもらい、上手になってもらう。

たぶん、あと3回くらい見よう見まねで練習をすれば自分で最初からタイイングマシーンを使えるようになるだろうと思う。林与に入ってから2ヶ月で5台のシャトル織機を動かせるようになってくれ助かっている。今まで、もろに挟んで糸切れも少ない、なかなかできる。
2019年05月11日
時代というものを感じるひとつに、書類などある。今、手書きの書類などがほとんどなくなりつつある。私自身、それはすごく残念なことであると思っている。

一方で、パソコンで似たようなデータから似たような書類をつくるという方法で、大量に書類が印刷されることにも疑問を思う。紙という媒体は資源であるので、保存が必要なく一回使うだけのものを大量に印刷するというのは資源の無駄使いそのもの。

また、新聞という媒体においても昔のように有効利用せずなら、電子媒体の形状でいつでもみられるようにしたほうがよいだろう。もちろん、紙媒体がよいとか、じっくりと読みたいとか、好みがあるが全体的な流れとして、新聞は紙媒体でないといけないということもあるまい。

戦前に始まった回覧板というものは、当時の事情を反映して1枚の紙に書いたものを回して読んだ。今、その謀砲が適切なのかというと、シャッター街と化す商店街形式と似ていて、コンビニ方式のところのほうが負担が少なく活性化してしまう。ものごとに陰りがみえたときには大きな方向性の問題があることが多い。

昔の売れていたものが今の時代に売れないのも分かるし、それを残して行くためには別のアローチも必要であろう。でないと、そういう価値のつまったものが海外で生産され、日本の産地を淘汰してしまうだけのことである。おみやげ物屋さんに行っても、おみやげ物は食べ物以外はたいてい海外産だったりすることも多い。

2019年05月05日
こどもの日に、途上国での児童労働をなくすアイデアを考えた。児童が学校に行って教育を受ければ、児童全員に対して、子供一人あたり1日たとえば1ドルを家庭がもらえるとかすればよいだろう。出席日数を確認して日数に応じて払えばよい。その国が支出すればよい。児童労働のある原因は、社会体質にもあるので国自体も国家の体質を変えねばならない。

たとえば、ミャンマーなら1000万人児童がいるとして、1000万人X110円X25日X12ヶ月=3300億円である。ミャンマーは35兆円規模のGNPがあるのでGNPの1%で児童労働がなくなる。GNPのインドなら2億人児童がいるとして、2億人X110円X25日X12ヶ月=6兆6000億円。インドは1000兆円規模のGNPがあるのでGNPの0.66%で児童労働が無くなる。南スーダン250万人X110円X25日X12ヶ月=825億円。南スーダンは2兆円のGNPがあるので4%で児童労働がなくなるが、1ドルでなく、物価をかんがみてGNPの1%程度になるように調整をすればよい。基本、各国がその国のGNPの1%の支出をすれば、子供の多い家庭は子供が学校に行くことで収入を得られることになる。

もちろん、裕福な家庭も含んでいるのでもともと学校に行ける子にも支給するのは必要ないかもしれないが、裕福な家も貧しい家も平等に扱って配れば簡単なことになる。現金ではなく、フードチケットみたいな形にする方法もあるだろうが、偽造や利権など絡むだろうから現金がよいだろう。学校の先生が、半年に1度、親が学校に来たときに渡せばよい。

弊害となるだろうは、各国の支配層や富裕層の不満だろう。児童労働を必要としているのは、支配層や富裕層だろうから。また、間に入って利権を取れないメカニズムにするのを嫌がる連中も多いだろう。日本でも国民全員に給付となると利権を求めて間に余分な人を入れる構図がよくあるのと同じ。
2019年05月04日
明日の子供の日を前に、字のこいのぼりの撤収作業。作業は大したことはなく何事もなかったように終了して、大手の織物メーカーの人と話して、見本整経のできる人を探しておられる件の話。退職後も継続して働いてもらうような形が理想だろうなあと思うが、次の世代に引き継がなければとう状況で、大手にしても人はたくさんいても実際に働く現場でできる人というのは見つけ難いということだろう。

織物設計を記録することや見本整経機を扱えてはたぶん、新卒の人なら学べば誰でもこなせる程度のことだろう。その後がどうだろう、巻き取り?巻き取ったものをタイイングマシンで繋ぐ?この辺りが作業としては地道さがあるので難しいところかもと思う。そこまでいってしまうと見本を織る作業もついでにとなり、一人で全部やってしまうような林与スタイルとあんまり変わらないのではないか。大きな工場だから織物つくれる優秀な能力というのは当たり前の想定だろうけど、織物工場の根本的な機能全体を集約したような人だから職人というより親方クラスの力が必要で見つけるのも育てるのもなかなか難しいなあと思う。

大手の織物工場でも中にそういう人がいないという状況なのも、なんで林与が一人で全部できるみたいな人が大事なのかと考えているのかの理由であったりもする。でも、若い人で普通を求めず志の高い人いたら、実際とことんやるならゼロからでもできる仕事だと思う。何十年の経験者を、半年、1年、2年で越えてゆくという覚悟でとことんやるならできないことではないとは思う。

体育委員の役が、来年くらいあたりそうで、昔20代の後半に一度当たって2度目、50のおっさんが体育委員当たるのも他のメンバーはたぶん20代30代だろうから風通しの悪いことじゃないのかと思う。静かに見守って雑用をこなし、若い世代をサポートする役目が適切だろう。これは今の70代、80代が敗戦後、戦前世代にサポートされて戦後のひと世代を築いたのに似ていると思う。苦労している今の学生のほうが、順風満帆に育った嫌だとか面倒だとかばかりが口から出てくる堕落した年配のものよりもまだましで、まともな感覚の学生や若い世代に日本の世の中を任せたほうが思うことも多い。一部の年配世代は若い世代を同じ流れに取り込もうとしているが取り込まれないほうが自分で生きて行くためには良いだろう。
2019年05月03日
今日は午前午後と2軒お客様。午前は長浜のDENの北山さんで、20年近くの知り合いで今も洋服づくりに専念されている。東京でのイベントがあるそうでそのための生地を探しに来られた。午後からは、大阪でお店を持ってオリジナルの洋服も企画されている方で、オリジナルの生地の件。休みなんだけども普通に仕事のことで動かれていてそれが苦痛なようには思えない。私もこのゴールデンウィークもそれなりに織機を動かしたり、準備しながら、遅れている案件を追いつかないとと誰かにやらされているという感覚なんてまったくないのだが、勤め人だとなかなかそうは思えないのだろうと思う。

休みの日にも本腰的な濃い内容のことを気持ちのある仲間が集まって進める。繊維の世界にそういうの残っていてもよいんじゃないだろうか。もう一軒午前中に宮浦さんの糸編の方もご連絡をいただき、ちょうど今帰省されていて今日しか時間がないのだけど会社訪問できないかというお話、今日は埋まっているのでまた次の機会にということで了承をいただいたが、私のお客様というのは、仕事で自分の世界を持ってつくって動かれている方たちばかり。

お客様が帰られてからミルツルさんの出荷、ゴールデンウィーク中も動かれていて、明日受け取りが出来るよう出荷。私の周りは昭和?のままなのかも。自分が自分で仕事して食べていくというのが普通だとはおもうが、それが消え行く中で、私の周りではそういうのが普通に流れていて、当たり前に支えあって動くような、特別な価値観が生まれやすいんだろうと思う。林与なんて本当に小さな会社だけど力は、そういう周りの人が寛容な対応で与えていてくれているところがあって、迷惑掛けることも多いが感謝なのである。
2019年05月02日
今日は、職人さんがシャトル織機のステッキの皮のバッファが破れている問題に気が付いて交換修理してくれた、ありがたい。でも、しばらくすると織機が止まってばかりになったので、思い切って、その問題を解決しようと夜作業。淡々と時間が過ぎてゆく、4時間、5時間、6時間。なんとか、切れた皮をジャガードの吊り紐で縫う形での修理が終って取り付け直して織ると、横糸を1本織ったくらいで、縫ったジャガードの吊り紐が切れて元の木阿弥。若干シャトルの尻が浮きながら不安定に叩かれる。

これも原因も対応方法も時間があれば、丁寧にどれだけでも修理したいこともあるけど、今は時間がなくとりあえずその状態で動かす。シャトル織機も無理させなければ長持ちするのだけども、時間に追われて無理させることがあるとどうしても壊れやすい。交代でとか仕事ができると織機を長時間動かせるのだが、何か私しか解決できないとか私一人しか織れない状況に陥ると挽回するために、シャトル織機のスピードを少し上げてしまうことがある。良くないのである。

今、新しいスタッフが1ヶ月で、ゴールデンウィークの前半、昼間、シャトル織機を一人で動かしてくれた。林与もシャトル織機に負荷を掛けることなく、織機を調子よく動かせる流れになれたらと明るい兆し。
2019年05月01日
平成天皇陛下も退位されるのには思いがあられるのだろうと思う。地位にしがみ付いて死ぬまで地位を守ろうとする議員なんかも多いけど、そういうのと違って、次に譲ろうとするのが人柄の表れに思う。引き際も利権にすがる政治家たちとは好対照で、そういうものが令和の時代の流れになって行けばよいなあと思う。日本も、若いピュアな精神をもった人たちに任せたほうがよいだろうと思う。死ぬまで地位や利権にしがみつこうとするものが次の世代に重荷を背負わせて食いつぶしても仕方ないだろう。

林与のタイムカード、昭和を平成に訂正して使ってきたけど、それをさらに訂正して令和にして使う。使えるものは使ってゆけばよい、活躍してくれているシャトル織機も昭和のものだし。新しくせずに、訂正して使うということも一つの考え方だろう。そういうのなくなると手の世界の価値観というのは薄っぺらくなってしまうだろう。今あるものに価値も感じずに新しいものを生み出そうとしても今ある価値も生み出せないがほとんどだろうし、私が思うのは、新しい人たちが一つ前の世代越えてゆくような理想系。

行政なんかは軌道修正もできず一世代前の失敗を今も引き継いで上塗りして、若者のなかに起業家を探したりしているけども自由に起業させてあげればよいのに、自由でもない気持ち悪い縛りがついた食い物にされるような起業形態に誘導したり。行政も、カモ探しでは駄目だろうと思う。後継者探しなんかも行政がらみは怪しいのが多かったりするから要注意で、制度としてはしがらみなくスタートできるように行政が誘導しないと。
2019年04月28日
加工の進化がないというあたりの話の延長で、テキスタイルとして魅せるべき部分の進化はどうなのかと考えると、宮下織物さん。女性デザイナーの珠樹さんがおられ、いつも私が邪心でもったいなあと思うのが素材がシルクだったらすべてが究極なのにと思うけど、レーヨンで自由度を持たせて表現力を重視し、舞台衣装というものに特化してのものごとを分かりきった上でのチョイス、昔の職人じゃなく現実的なところで一つ一つ形にしてゆく力が凄いなあと思う。

今回、宮下織物のブースで見させてもらったのがトリックアートなジャガード織物。プリントじゃなくてジャガードでトリック織物を生み出す。技術的にはジャガードだと出来そうだけど、それを実際にやってのけるところが凄いんだと、やらないというかやれない林与は思う。技術じゃなくって技術は当たり前で行動力、そこに力を使ったほうが世の中が変わる例。世界中にジャガードがあっても、織物でやって形にするのは珠樹さんらしい覚悟のある世界。

半年前にはなかったものがまた新しく生まれているのが凄いなあと思う。私自身半年ほど生産の時期を乗り越えようと動くばかりが続き、できることもやらない理想を追い求める世界との戦いみたいなものもあって、何十年のくたびれた職人よりも志のある若い世代のほうが確実に上かもしれないと思えたりして、何年も時間を掛けて理想を追い求めるよりも、行動力で理想を現実に変えるというスタイル。日本のテキスタイル業界を自分で作ってゆく形、気持ちが良すぎて脱帽するしかない。

すごい実績の方でも、理想を追う学生以上にツコツと動いておられるのが、ある展示会でお会いしたときに24メートルの生地が海外の展示会に出て売られた話。それなんだよなあと思う。24メートルの生地を海外に出荷するもろもろを自分でやってのけるも普通は引いてしまう人が多いだろうけど、できる人だからそういうのも普通に喜びであったりする。そういうのに喜び感じられなければ、理想ばかりを追い求めても無理な話で、それひとつで食べてはいけなくても、一回一回やったことで成果を得ようと努力する。これは普段の仕事にも通じることで、ジャガードというのは一つ一つの組織をコントロールして手間を形に変えてゆく世界。無限の可能性に見える一方で、いろんな限界との戦いのなか、すなわち妥協して織物が生まれてくる。できることを目一杯に動いてみるという、同じ材料と道具があっても人が違えば、できるものが違って、成り立つ成り立たないも変わってくる。それが人の差で出来る人ほど苦労を乗り越えているというだけのことだろう。
2019年04月24日
今日は朝東京入りで、TN展、林与は初出展。残念なことながら、体調が余りよくなく風邪気味で私自身はマスクしながら控えめの応対。TN展は機屋の集まりの展示会で、特殊な分野の専門が集まったみたいな感じ。個性のある機屋の特色のままを展示するという印象を受けた。

林与も現在、会社の中の生産体制を再構築中でいろんな展示会も断念するなか、学校関係も来られるなどで人材発掘なども目的の一つにおいて出展を決めさせていただいた。特殊な技術や世界を守るというのは外から見ると華やかにみえても、特別な考えをもった人でないとなかなか成り立たないだろうなあと思うのは私だけだろうか。初出展ながらも、福田さん、宮下さんとか、古橋さんとか、いつも展示会で仲良くさせていただいている皆さんがおられ、やっぱりがんばっておられるところはどこでもがんばっておられるのを感じる。技術的な部分だけでなく、ものづくりに関しても前向きな姿勢が当たり前で、自分の作っている世界を自分で提案していく形。私自身がこの10年ほどやり始めてきたことを、TN展は20数年前からみなさん動かれているお話で、私も地元のおおまえさんから、20年ほど前にお誘いを受けたこともあって、参加してみて実感する。

夜は近くのイタリア料理のお店で懇親会。座らせていただいたのが出展者の女性のたくさん居られるテーブルでその要因は山崎ビロードの会長ということで温厚な人柄が若い女性を集めている。織物加工の専門の方が、加工が15年進歩していない話をされて、私自身、自分だったらどうその問題考えるかを考えた。昔のほうが加工はいろんなことができたということはあるだろう。今のほうが需要が激減しているので、少人数でピークの生産を対応していかないとならないのを、昔以上に限られた時間の中で、限られた人員で無理してやってるのが日本の加工業の現実だろうと思う。技術的にできることを広げるのは理想としてはあっても、それが実現できたとしてもそれが市場で受け入れられるのかどうかとう問題。今回のTN展でも新規のお客様の要望を集約したイメージは、在庫があること、小ロット生産が可能なこと、オリジナルができることのあたり。加工に関しては家庭洗濯のやわらかいものということで、本来量産向けの加工工場が得意図するアパレル向けじゃないテイストだったりする。

新しい化学的な技術が、求められている理想の解決方法なのかというと、天然繊維に関しては逆にそうではなく、天然志向な消費者からは敬遠されてしまう技術だったりする。私自身は本質的な価値観が布の価値観の基本だと思うので、最新の技術というものでも本質的な価値の詰まったものでなければ難しいと思えたりする。染なんかに関しては、麻で質摩擦堅牢度5級約束しますみたいな染色方法があればよいけどとは思うが、それが出たとしても飛びつくのは危険で、人体への安全性の面や他の物性の面での問題、風合いの問題など専門家が見落としがちな部分を検証した上で消費者の方には提案すべきだろうと思う。それは、極端な話、最新式の飛行機が安全なのかという問題に通じ、本末転倒なことにもなりかねない。その専門の方も、出展している機屋たちのように動かれて布の形で加工の凄さを発表されると、それが受け入れられるものなのか受け入れられないものなのか、また、お客様が買って使っていだだく布として一番大事なところ見えてくるのではないだろうか。

私自身が他の人がこだわらないことにもこだわっての部分にているかもしれない。その問題は自分の中で問題であって、他の人にとってはどうでもよいことだったりするとか。自分自身が問題解決をすることは自分にとって凄く大事なことなのであってそれはそれで良いこと。それは自分一人だけの世界で多くの人には理解の難しい世界なのかもしれないから、こだわりはこだわりで自分が追い求め解決して行けばよいんだろうと思う。
2019年04月21日
今日は、朝から工場に入るも右足のくるぶしの痛みがかなり悪化して、全身に倦怠感、よろしくない。10時半から、隣の家に自治会の総会などの資料を配布しないといけないので、とりあえず、資料配布のほうを先に準備して足を休める。午前中には案内を配り終えて、かなり痛みがひどく歩ける状態でもなく、立っているだけでも鈍痛が走るので、横に安静にしている。

急ぎの仕事が残っているのに悔しい日曜日である。



2019年04月20日
みんなが何か志を持ってやろうとするときに報酬なんて考えないのだが、安定期に入ると普通の仕事の感覚になって、普通の待遇になるとそこからの逆戻りが難しい。長続きしないのは、初心の地道な考えがなくなってしまったとき。普通の成り立つことを考えない感覚になると求めるが増えすぎて最初からやらないとましなほうが多いことも多い。最初だけは気分でスタートで成り立たなくてもではすぐに底が見えてきて終ることは多い。

地場産業なんかもサラリーマン化してしまうと、伝統工芸的なものは絶対に難しいだろうと思う。地場産業というと評価は高いがその評価に値する成果ではなくても努力がなければ評価されることも難しいであろう。普通のサラリーマンと同じ週40時間で作り出すものなんていうのは、趣味の人が作るものにも負けてしまうだろう。アーティストとかクリエイターは、たとえば、並外れた才能がなければ、他の人の何倍もの努力でカバーするしかないだろう。

才能がある人でも動かなければただの凡人。階級社会を守りたい人というのは、自分が一番底辺に落ちる覚悟がなく、常に指導的な立場でいようとするから、世の中の諸悪の根源になりやすい。待遇に文句を言っていないで、自分が求める待遇を他の人にしてあげる立場にならないと、自分の立場を他の人に譲れるくらいでないと、そこが本当に難しいところで、恵まれない人は世の中にあふれていて、その人たちを下から支えられる立場になれる人がどれだけいるだろうか。

増田明美の話だったと思う、増田明美のコーチが自分が白いご飯に塩振って食べて、増田明美にはたくさん肉を食べさせてとか。選手もコーチの支える姿が見えずに、次はもっとよいもの食わせてくれになってくるような馬鹿選手だとたとえ金メダル取っても早く消えたほうが良いのかとも思う。そんな選手が将来、自分の金メダル売ってでも、選手に肉を食べさせられるようなコーチにはならないから。これもサステイナビリティーのない一例だろうと思う。

日本の伝統工芸の世界がサステイナビリティーがないなあと思うのは、伝統工芸の多くはもともと食べて行くのも難しい状況の中、試行錯誤で、人々の生活を支えるために生まれていて、仕事して自分じゃなく家族の生活を成り立たせるという側面が大きい。

自分を捨てて家族を支えて行くというもので、野麦峠もその世界。食べても行けない農家の娘が、家族を支えるために女工として働くという辺りで、女工として働くことで家族が幸せに食べて行ける。これと同じことがバングラディッシュの繊維業界にあって、バングラディッシュの農家で家族が食べていけない状況を父親が出稼ぎで染色工場で1日12時間働くことで家族に幸せをもたらしてその父親も喜んでいる。

でも、農家の食べてもいけない苦労を知らない人が外から見ると、野麦峠の女工も、バングラディッシュの染色工場の父親も奴隷のように思えるだろう。けど、そういう農家を救えるのは野麦峠の紡績工場であったり、バングラディッシュの染色工場であったりする。自分を捨てて家族を支えたい人の気持ちを汲んで受け入れているのがそういう工場だったりする。食べるものもなくその人やその家族が死に行くを放置して、自分たちが幸せ掴もうと働こうとしている人の働く環境問題を議論しても始まるまい。野麦峠の問題視された本質は、階級社会を乱すことだったんだろうと思う。貧農がチャンスを掴んで役人よりも豊かに暮らすというのは、役人にとっては屈辱でしかなかったんだろう。ニューズウィークの記者もバングラディッシュの男性を記事にしてそれで食べているなら、それでかわいそうに思うならもらう給料の半分をあげればよいのにと思うが、批判している染色工場のようにその男性を養うとか分かち合うなんて覚悟はまったくなく批判をしている。他の人を支える苦労をしらない他人事の世界。

伝統工芸の世界も今は先生みたいなイメージだが、元来は田舎の農業で食べて行けない人たちの手仕事で、業として極められた形しかない。そういう手仕事の世界は地道な部分で成り立ち、地道さがなくなれば、仕事の本質も見えなくなる。自分が作ったものや仕事が受け入れられて食べて行けるという農業の延長的な自給自足部分。自分たちの手で食べて行くとか本当にアーティスティックなことだと思うが、そういうことが評価されることは少なく、やればそこまでたどり着けることもあるだろうけど。普通にやって食べて行けないから駄目だみたいな半ばの考えだとそもそも難しいだろう。

育くめる人が残っているうちはものづくりというのは続くだろう。それは作り手である場合もあるかもしれないが、作り手でないかもしれない。作り手が経験を積んでいったときに育む側になれればよいんだろうけども、なかなかそうはならない社会構造。サステイナビリティを意図的に欠如させる縦割り的な社会構造があるように思う。私の同級生のお父さんがやっておられた金襴屋さんが何年か前に廃業になった。現場には人もたくさん居られて、設備も新しいものを常に更新されていて福利厚生も普通以上に考えておられた。私がその社長と話したときに、前向きに新しい設備入れて福利厚生も考えてやっていかないと織物業界も続かないし、将来がないという話をしておられた。でもその社長が亡くなられたら、働く人もたくさんおられ設備で仕事もあるのに。実際はなかなか成り立たせるのは難しい問題。続けておられたのは、その社長の従業員に対する親心を感じるのである。自分は白いご飯に塩掛けて食べながら、従業員には肉を食べさせる、みたいな話で、親心もっている人が働いている人の中から順番に育っていないとうまくは続かない。それが本当に難しいところ。

日本では、待遇も良くないけど内職的にやってる地場産業は案外残ってて、価格も手ごろで品質も高く。企業化して福利厚生を充実した地場産業は消えて行くとか、ものづくりをやめてゆく流れ。過去も、繊維産業のものづくりは、基本、大きなところから順番に消えて行ったとか、海外に移転して行った形。日本の地場産業製品と似たものをつくろうと思えば量がまとまれば10分の1で、無理なく海外でつくることができるから、逆に、国内は基本、見本も必要な小ロット生産の仕事をうまくこなせるような力がないと無理で、現場の人に要求される能力のハードルは高い。仕事があって人がいても、できる仕事がないという状況に陥る。もう日本人はそれほど器用ではなくなってしまっている。
2019年04月19日
4月24日、25日は渋谷の〒150-0031東京都渋谷区桜丘町23−21渋谷区文化総合センター大和田10階  
「文化ファッションインキュベーション スペース1〜4、6」で、TN展が開催されます。林与も、今現在、まだほとんど準備ができてもいませんが、2日間おりますので、お仕事と学校関係の方など限定にはなりますが、お時間あられましたら逢いに来てください。

今年は、あまりにも私自身が時間がなくなりすぎて、楽しみに動いてきた展示会もほとんどをお休みしている形になっています。今回はみなさんとお会いできる数少ない機会の一つになります。重なる場合には、お待ちいただくかもしれませんが、ぜひ、お時間のあられますかたはお越しください。

学生さんなどで、林与でのインターンや働くことを希望されます方なども、自分に合うかどうか話を聞きにきてください。やりたいことは一杯ありますが、やるには力が必要で、私に負けないくらい、なんでも全力でバリバリ打ち込める人探しています。学生さんの場合は入り口で入れなかったら林与を入り口の人に呼んでもらってください。
2019年04月18日
ある会社から春の展示会の案内状が届いたのだが、一文字抜けたミスで初め気の毒すぎると思ったが、気付かないで送っておられるわけもなく、絶対に気付かれているはずだが、そのまま送ってこられたというあたりは逆に温かみを感じる。誰でも間違いはあるし、そういうのも許容して行くような会社なんだろう。何百枚も刷ったものを一文字訂正のために刷りなおすという選択もあるかもしれないが、そうじゃなく、今回は間違ったけどこれで行こうと行く決断も悪いことではない。たぶん、そういう面では、上のほうの人間がスケールが大きく出来ているのではないだろうか、と思うのだ。正誤でなく、気持ちや意味が通じればよいことも多い。一つ勉強になったことである。

体裁を完璧にすることばかりで、本質がなくなることも多い。ビジネスライティング的なことや、形式的なあいさつ文など、無難であったりはするけども、何にも心に響かない。逆にミスが一つふたつあって、人が一生懸命にやっているのが見えることもあるだろう。小さな部分を気にしすぎて大きな部分が見えなくなることも多い。小さな部分が大事じゃなく大きな部分が大事だろう。

はがきが大事なんじゃなくて、展示会が大事なんだろうし、そういうはがきをデザインする気持ちも大事、一文字間違っていても本質が変わるわけでもあるまい。逆に興味を惹いてより多くの人が展示会に行くかれるかもしれない。みんなが失敗を笑って場が和む程度のことで、この案内状はアイスプレイカーになるだろう。
2019年04月17日
今日は梅田LOFTテキスタイルマルシェの撤収日で、夕方から大阪に向かう。電車座ることができたが、座っていると右足首に違和感。7年ほど前に、フランスに行った時に行きの飛行機の中で、右足首の筋違えの始まりみたいな感じで、展示会中に歩けなくなるほどまで膨れ上がったその前触れみたいな違和感。座ったままで足首に痛み、私の場合、革靴を履くと起こることが多い。一回ポキッと鳴ると治るんだろうと思うが、打撲みたいなへんな痛み気持ち悪い。フランスのときに大事に至らんようにしないといけないとは思うが、大事にしすぎても私の場合には駄目だと思うので、動きながら筋の補正を行おう。

こういうからだの不調というのは、その場所の問題ではないことも多く、たとえば肩が凝っているとかが問題になって、足首に来ている可能性もある。普段から普通の人の何倍も動いてはいるので、結局、それが一番の健康の維持に繋がっているとは思う。

最近オーガニックのことを書いているが、オーガニックとして衛生的な職場環境を求める流れがあるけども、動物の糞尿を堆肥として使う職場で、臭いなどもするのが当たり前だが、オーガニック栽培をしていない先進国の人の感覚でオーガニックの労働者の環境に口を出し始めると、先進国のような職場環境になって、オーガニックの維持は難しくなるだろう。働く人も楽を求め始めると支配する側の思想に変わってきて働くのが苦痛になってくるとオーガニックの世界なんて否定されるべきものだろう。

オーガニックの世界がたとえばLPOで制限される週48時間労働で守られるのかという問題。農業なんだから雨が降ったりしたらサラリーマンのようには成り立たないだろうし、そういう縛りがあると自然の栽培も難しくなり手摘みのオーガニックコットンなどは機械積みに淘汰されてしまうだろう。それがオーガニックの目指すところで良いことなのだろうかという思いがある。商業的な要素が入りすぎると本物が淘汰されてしまうという矛盾をオーガニックの世界も抱えている。先進国で紙の上だけでお金が儲かる感覚でそれを実際に働く人がかわいそうとかいう感覚こそが、驕りで、先進国が途上国で人々がまともに働いているのを見習うべきではないのか。先進国が、貿易なんかで途上国に抜かれそうになると戦争が起こったり、政治的に頑張った途上国に貧しい状況に追い込むことは多い。立場的に優位なものからすれば抜かれないように先進国的な慣習に従わせるというのが、ありがちな流れ。私は、オーガニックコットンをまともにやってる生産者が、オーガニックコットンに関する規定なども支配されずに支配していく流れでよいと思う。

https://textile-network.com/en/Technical-Textiles/Fasern-Garne/GOTS-Organic-Cotton-from-India-under-fire の記事を読むと、GOTS認証のあるインド認証からは何件もGMOコットンが混じっているという情報。ありえないことではない、認証自体の運用が甘すぎると思えるところだから、インドとしてはよくてもその多くが日本のオーガニックコットン市場を形成して、GMO不使用を謳っているあたりは、認証機関自体の問題だろう。でも、そういう認証機関の理事長でも、不正は企業の責任で自分は関係がないと逃げるだけのこと。オーガニックに関しても隠匿や偽装はつきものなので、消費者をだましたもの勝ちにならないように、供給側と認証で利益を上げることしか考えない認証機関に対しても消費者の厳しい目は必要だろう。
2019年04月15日
オーガニック=有機栽培というイメージではあるが、国ごとにオーガニック基準は異なり、インドでは化学肥料の使用も制限付ではあるが禁止されてはいない。http://apeda.gov.in/apedawebsite/organic/organic_contents/national_programme_for_organic_production.htm

日本のオーガニックの世界にはこういう情報は閉ざされてしまっている部分もあって、オーガニック製品といえば化学肥料(無機質肥料)は、3年不使用の原料が使われているみたいなイメージだけが一人歩きする。インドの国のオーガニックの基準からすれば制限はあるがいろんな化学肥料の使用は許されてるのである。こういう情報は販売するものが気をつけて消費者に説明しないと日本の消費者が誤解を招く説明になってしまう。

インド原料を使用したオーガニックコットンなどは、畑のコンディションが有機肥料だけでは栽培にふさわしい状態にできなければ、多くの種類の市販の化学肥料の使用が自然なバランス状態に戻すためには許されているのである。日本人の有機栽培を信じる消費者が知ったら驚くべきことの一つであるが、普通はそういうの日本の消費者は知らないことだろうと思う。

このあたり日本のオーガニックの専門家たちももちろん知っていることだから、日本の消費者には各国ごとのオーガニック基準にしたがって栽培された作物というオーガニックのきれいなイメージだけでなく、最大のオーガニックコットンの供給国でもあるインドのオーガニック基準が、3年間化学肥料を使用せずなんて表現に当てはまらないあたりも事実として伝えるべきであろう。

最大のオーガニックコットンの栽培国であるインドに、そういう真実があるとしたら日本の消費者に真実を伝えるのも、オーガニックのプロの役目であったりするとは思う。きれいごとばかりで、3年間化学肥料は使わずとかは、化学肥料が使われているならアウトな表現の一つであったりもする。農場によっては、化学肥料を一切使わない農場もあるかもしれないが、インドの国のオーガニックの栽培基準自体は有機肥料で足りないときは制限付で化学肥料の多くの種類も使える基準なのである。だから、オーガニック?コットンがたくさん作りやすい背景もあるのである。

日本人の消費者は、真面目というか厳密なオーガニックを求め、オーガニックとラベルがついていたら日本人的感覚で日本での謳いを信じてしまうが、海外で作られるオーガニック作物が日本で謳われるような3年間化学肥料無使用なんて基準ではないというのも普通にある。そういう作物を使った製品を認証したり日本で販売するオーガニックの業者であるプロが、そういう事実があることも日本の消費者に伝えるべきであろうが、なかなかそういう情報は伝わり難い。

合成繊維が5%、10%入っていてもオーガニックと呼ぶような基準からすると、途中の化学肥料の使用くらいはどうでもよいにも思えるが、消費者がオーガニックであることを本当に信じて買っているのを忘れないことは大事だと思う。インドという国ではそれでよいのかもしれないが、インドのオーガニック作物が日本で製品としてオーガニックとして販売されるときには、真実を伝え、日本の消費者の誤解を生まないような真実に基づいた説明が必要だと思う。日本の消費者に対して、各国のオーガニック基準にしたがってという表現だけでは不十分。裏で有機栽培で難しいときには普通の市販されている化学肥料が使われて栽培されても、オーガニックコットンの最大の生産国であるインドでは、オーガニックの基準の範囲ということも知って日本の消費者には買ってもらうべきだろう。

林与の集落でかるがも農園を子供会でやってるけど、それを支えている農家の人は正直に化学肥料使わないと普通にもち米なんて実らないと正直に話する。似ている話なのである。インドの人にしても普通にオーガニックを目指しても限界にぶつかるもので、有機肥料だけでは無理が普通なんだろう。集落の農家の方もカルガモだけでやってるんであまりまともなもち米が取れないので、その農家が自分のもち米を持ち出して、みんなが餅つきするのを支えておられる。仕事で食べていかないといけないとするとオーガニック基準を下げ化学肥料で補うしか成り立つ方法はないのだろう。真実は真実として、伝えれば誰も悪くも思わない、真実も伝えられないままきれいごとだけ並べられたら騙されたようなほうが問題だろう。そういうズレは、日本国内の絶対的みたいなオーガニックの謳いを崩して正直に化学肥料もときには使うという説明で良いと思う。

オーガニックコットンを愛用している人にしてもそういう部分は知らないまま、3年間化学肥料を使用しないという言葉だけ信じているのが普通だと思う。日本への最大の供給国のインドのオーガニック基準を読んだりするとどの程度の基準なのかも見えてくるが、その辺りを日本の消費者にちゃんと日本語で説明しないのもオーガニックの基準に関する幻想が生まれる一つなので、基準的な謳いに縛られすぎずに正直にラベルなどで説明を加えるべきだろう。それが日本で言うところのオーガニックの定義から外れたとしても正直な説明に勝るものはない。

普通オーガニック栽培すれば、品質はまばらで落ちるのが普通なのである。オーガニックリネンやオーガニックラミーででよくわかっているから。化学肥料で補えば普通のリネンやラミーの品質に持って行きやすいだろうけど、普通の糸と比べると値段は高くても、まともに織れないことが普通なのでオーガニックな麻の世界は正直に作っているんだろうなあと感じる。問題が多いと使うのも大変だし売るのも大変だろうけど。
2019年04月14日
地球環境を守るという謳いがクリーンディーゼルの場合には偽装に繋がる。安全だという飛行機が安全装置のために墜落。そういう背景には人という要素が絡んでいて、本質が消費者を騙して利益を上げることしかないというところを露呈する。消費者がクリーンディーゼルの謳いを信じて、結果、大気を汚染するディーゼルを吐き出す車が何千万台もヨーロッパで普通に走っているとか痛ましすぎる。また、墜落に誘導する危険な装置の付いた飛行機が世界中を飛び回るとか。新しい技術が逆にそういう結果に結びついてしまう。

エコという共通のキーワードがあって、エコロジー、省エネとか。エコというものは本当に利用されやすい。エコが利用されて偽装された場合も、エコ的な推進力国がらみが多いので隠匿されることが普通だったりと、どこまでが本当なのかが分からない。地球温暖化で原発がエコだと推進されたりと世界的な国連ですらも大きなエコの考え方に問題があったりする。

今の一部のオーガニック基準では、よく謳われている3年間農薬不使用とかはもはや幻想になりつつある。たとえばポリエステル、ポリアミド、ポリプロピレンが5%とか10%入っていてもオーガニックと呼んでよいとか、厳しい基準ではなくなってしまって、ポリエステル、ポリアミド、ポリプロピレンは可なのに同じ綿であるGMOは不可とか、私も一般的にはGMOのような利権主義には反対の立場だけど、オーガニックでは作物が育たない環境というものも存在し、オーガニックコットンがその規定のために、逆に普通はコットンが育たないような雨の少ない砂漠のような場所で地下水をスプリンクラーで撒いて人造的にしか効率よく量産され難いという要素などを考えたりするときには、自然の中でコットンを栽培しやすい日本では同じことは無理で、自然にコットンが栽培できる場所だから害虫もいるんだよみたいな本当のオーガニックの世界でハンドピックトで量産は難しい。インドなんかでは2010年資料では、国が、オーガニック基準で足りないときは無機肥料の補助的な使用を認めている話で、オーガニック基準に歯止めが利いていない裏事情は日本の消費者には届いていない。そこに来て、オーガニックを謳う基準として合成繊維が5%、10%入っててもオーガニックを謳ってよい流れ、もう、オーガニックなんていうのは消費者騙しに近づきすぎて、基準というより努力目標程度でよいんじゃないかと思う。

私も麻を扱っているけど、麻100%と、耳糸以外の生地部分に少しでも綿が入っていれば麻ではなく綿麻という表現にしている。さらに、合成繊維が入ってて「麻」ですと謳うと消費者からすると後から合成繊維が入っているのを混率みて知ったら騙されたと思う人もいるだろう。麻生地を使いたい人が麻を求めておられるから。「オーガニック」という言葉に関しても、オーガニックといって販売されたら、一般の消費者は合成繊維が入っているとか思いもしないだろうと思うが、私が間違っているのか?ましてや、3年間、化学肥料不使用、殺虫剤不使用、枯葉剤不使用のような謳いのオーガニックの基準を謳う製品に、5%とか10%合成繊維が入っているとか。消費者の誤解を生まないように「オーガニック+合成繊維」とか「オーガニック○○%」いう表現が適切な表現であろう。合成繊維が入っているものをオーガニックとだけ謳えば、混率に関しても厳しい基準の日本では、消費者の誤解を招く不当表示に当たる可能性はないのか。オーガニックを求める消費者の感覚からすれば許容できないレベルのものという気がしてならない。たとえば、オーガニックリネンと謳うからにはオーガニックリネン100%でないと合成繊維が5%でも入っていれば、まったく別物で、私は騙された気分になるけど、そこまで緩い基準が今のオーガニックの基準のひとつなのが、なんか、GMOの会社と同じで、供給側の利益ばかり都合よく考えすぎて、それを購入する消費者のことは考えていないのではないのか。

別の話になるが、典型的な枯葉剤を使用したコットン畑の画像をバックに、I support organic cotton.が、あるオーガニックコットンの協会のトップページのままなのも、その協会の誰もその畑の画像を見て違和感を感じないのかと思うところ。オーガニックコットン販売士の資格検定というものもされているのに、なぜ、オーガニックコットンでもない画像で、I support organic cotton.というPRなのだろうか。枯葉剤を使った典型的なコットン綿畑の風景がオーガニックコットン畑の風景だと間違った認識につながりかねず、枯葉剤を使用することをエシカルな問題で批判する立場なのだから、こういうミスは放置しておくより指摘があれば修正も必要ではなかろうか。
2019年04月13日
林与では、夏休みの2週間のインターンの学生を2名募集いたします。8月の前半2週間1名、8月の後半2週間1名です。応募を希望される方は、お問い合わせからご連絡ください。締め切りは5月末日。履歴書とインターン志望動機による書類選考ありで、応募者が多数の場合には各期間1名の方を選ばせていただきます。交通費の支給はありません、滞在場所と食事相当は支給いたします。インターン内容は織物製造の現場作業の体験です。
2019年04月13日
両方の墜落の原因は、AoAメカニズムだろう。パイロットの判断とは別に自動的に失速防止目的で機能しないとならないはずの、急上昇しようとすると、逆に急降下してしまい、急降下を防ごうとしてもパイロットが操縦幹ではどうしようもない自動操縦で、海に相当なスピードで墜落。米軍にはその対処方法がしらされていたのではないだろうか。

似たような技術が似たような墜落を生む、ほんとうの一瞬でレーダーから消えてしまうのもエンジントラブルではなく、急降下の証。低速で上昇旋廻なんてしようものなら、AoAを伴なう自動制御メカニズムが働いて、急降下墜落に繋がる確立は高い。あたらしい自動制御のメカニズム、自動制御させなければ熟練パイロットなら回避できる問題で問題はないのだが、自動制御メカニズムがオンなら機首を上げなければならない状況で、自動制御が機首を下げるように働き、脱出も出来ない、どんどん加速して時速500kmとかで海に墜落とか、自動制御にありがちな事故。

原因究明とメーカーの立場とどちらを重視するかの問題があって、ボーイングのときにもメーカーは原因を予測できただろうに、第二の事故を招いた。自動制御がついていなければ問題ないのに自動制御が付いているせいで墜落事故が逆に起こるという問題。同じ問題が起こったんじゃないかと予測する。また、自動制御をデフォとした飛行機や戦闘機なら機体自身が自動制御が必要な要素を詰め込んで設計されている可能性があり、自動制御があるから安全に飛べるというようなものなら、将来も起こる事故である。

ボーイング737MAXが安定して飛行が必要な理由は、想像するに大型のエンジンを積んで、主翼の下に収まりきらないので主翼のかなり前方に取り付けたことだろう。全体としては重心は中心に収まっているのだろうけど。首尾方向に天秤みたいな状態でバランスが取れていて、機首上げ下げの安定性はMCASがないと難しいのだろう。過敏に反応しすぎるのだろう。エチオピア航空の場合には、手動に切り替えたら空気抵抗が重過ぎて手動では尾翼は操作できなくて、自動操縦に戻して墜落したようだ。旧型の737と同じ位置にエンジンを取り付けていたらMCASなしでも問題なかったろうけど、新しい大型エンジンと機体の取り付けの相性が合っていないように思える。従来の実績のある機体に新しい大型エンジンを取り付けたのが、飛行機として全体のバランスを欠く設計になってしまっているのではないだろうか。センサー一つが壊れただけで自動に墜落するような飛行機で、しかもそれをパイロットが阻止しようとしても阻止できない自動制御。安全装置のはずが人々を危険に貶める装置。安全でないのが分かっても引き下がれなくなってしまっているのも、根本的な問題を認めると代償が大きいからだろうけど、次の事故を避けるためにはMCASのソフトウェアのアップデートではなく、MCASを必要としない機首の上がり難い飛行機を設計すべきだろうと思う。エチオピアの事故で、墜落の緊張の中、機長と副機長がマニュアルに沿って、尾翼の制御を電動から手動にしたら、手動では空気抵抗が重すぎて尾翼を動かせなかったということもブラックボックスの解析で分かったようだが大問題なのである。
2019年04月12日
今日は大阪の上田安子服飾専門学校のトップクリエイターコースの皆さんが工場見学にお越しで、まだまだ生産が続いている状況なので手も足りずに散らかった状況の中、数人の工場でもいろんなことやってるのをお話しさせていただいた。多分、織機の構造の説明とかほとんど服を作られることとは関係ないのも分かってはいるけど、一般的な工業生産にしても、伝統工芸と並ぶかそれよりも大変なくらいの綿密な作業が伴っているのを知ってもらいたく説明。

仕事を優先のため、現在、基本、一般向けの工場見学はお断りさせていただいている状況なのだが、全くもって普通じゃない林与とでも取り組んでくださる先生方の心の広さ、また、学生さんをそういう現場に誘導もくださるというありがたさ、現に今、林与では上田安子のトップクリエイターコースを卒業した方が一人、林与に入って普通じゃないのを支えてくれている。

その女性スタッフも実質、3日ほどの現場経験でシャトル織機を動かしてみなさいと、試練的なチャンスを経験し始める。日本に百台あるかないかくらいの状態も良いヒガエ付きの希少なシャトル織機を任せる。日本では織物経験なん十年のおっちゃんでもシャトルは怖いわで、逃げ腰なシャトル織機をさわってもらうのも絶対無理な世界がある一方で、海外では小学生がシャトル織機を当たり前に動かしているとか。仕事というのは経験の長さじゃなく、一回一回の深さそのもの。

今回の見学も熱心に聴いてくださる学生さんがいてくれてうれしかった。見学後も、家で一度リネンというものを使ってもらえたらよいなあと、シャトルで織ったリネンのキッチンクロスなどをプレゼントさせていただいた。年を取ったらできなくなる一方が普通なので、若いうちからいろんなことに挑戦をして軽く越えていってもらいたい。夢を実現するためには自分自身が一番動かないとと思う。アイリッシュリネンのプロジェクトの冊子も同封したが、現在では幻といわれ手に入れるのが非常に難しいアイリッシュリネン糸を織り上げるプロジェクトのことが書いてあって、林与が10年ほど前、40歳のころに取り組んだプロジェクト。デフレで高いものが売れなくなる流れの中、没頭し、とことんつくりたいものをつくるに挑戦してやってみた思い出、迷ったときに、また、何かやろうとする人に読んでもらうと参考になることもあるかも。探していた幻のアイリッシュリネンの糸が林与の倉庫で見つかり、しかもそれが140番手という超細番手で、いろんなことが惑星直列のように揃って素敵なリネン生地に織り上げることが実現できた話です。

2006年頃に、アイリッシュリネンの糸の情報をネットで探していると、同じような思いをもった方がたしか2000年を過ぎた頃におられ、北アイルランドまで行かれたけどもアイリッシュリネンの糸にはたどり着くことができなかったという残念な話をブログに書いておられたのを見かけました。そのブログを書かれていた方限定になってしまうのですが、もしリネン日記読まれていて、北アイルランドで紡績されたアイリッシュリネン糸を今もご自身で織ってみたいという思いあられましたら林与までご連絡いただけませんでしょうか。
2019年04月12日
F35A戦闘機に導入されたALISという故障パーツを自己診断するシステムがある。これは怖い話で、ALISにプログラムミスがあれば正常な部品が故障とみなされるわけで、みなされた故障パーツはその時点で故障なので機能しないことにされてしまわないのか。最新型の飛行機が落ちる問題が自動制御的な構造が取り付けられてしまうせいではないのかと思える。

また、外部から戦闘機を制御できるという問題は便利なようで非常に危ない機能なのである。パイロットが操縦しようとする意図とは別に、外部信号で戦闘機が簡単に制御されてしまうというあたり、今回の墜落でもその外部制御すらまったく機能しておらず、異常の原因すら外部から不明の状況。完全に問題のある戦闘機なのである。

基本的なことよりも、自動制御的な変なものを詰め込んだせいで、パイロット自体が異常を察知しながらも、敵もいないのに緊急事態を回避できず命を失うような問題。アメリカでは、ALISを使っていないという話もあり、日本の自衛官がALISのプログラム実験に使われてしまっていないか。ボーイング社の737MAX8もアメリカの飛行機会社に対しては解除方法が説明されていたが、他国の航空会社には解除方法がマニュアルにも載っていなかった問題と共通する問題があるのではないか。

ものづくりするものが陥りがちやすい罠で、コンピュータや機械技術がすべてだと思うと、人の判断のほうが正しいことが多いものである。機械化されても機械の面倒を見るのは人だから。機械の面倒を機械にみさせようとして、その機械の面倒をみるソフトウェアが人よりも勝っていると信じているけど、それが誤動作や誤判断したときに、正しい人間の判断が否定されるか、邪魔される。そういう考えには、つかう人を幸せにしたいというよりも、自分の考えでつかう人の行動を支配したい欲望があったりするんじゃないだろうかと思える。そういう人はあたたはなになにしなければならないみたいな一方的に要求するタイプだったりする。ものの問題じゃなくて人の問題だろうなあと思うのである。AIなんて完璧になったとしても、AIが責任を取るとかAIを作ってる人が責任をとるなんてことはないから現実社会からみれば遊びというか他人事の世界、そんなのに本当の人の命が掛かる判断を委ねるような流れはないほうがマシだろう。

予測的な話だけど、737MAXは当面注文するものはいないだろうという話。事故が起これば責任を取らないといけない航空会社の当たり前の判断だろう。小学生のころにアメリカに剣道でいったときに、JALの飛行機にはじめてのったけど、出発前の集いで、JALの社長のお孫さんに当たる小学生のお嬢さんがピアノを披露する中、団長がJALの社長にもしも飛行機が落ちるようなことが起きたらどうされると問い詰めた話をされた。それに対するJALの社長の返事が、「腹を切って詫びさせてもらう」ということ。当時、私はまだ子供で本気の話とは思えなかったが、団長にしてもJALの社長にしても本気で責任をもって子供たちを預かる覚悟。覚えている子供の頃の話の一つ。
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