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リネンや麻を織る日々をつづっています。
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2017年12月03日
目の前に仕事があってそれをやるかやらないかというだけのことだと思うが、やらない選択をすれば仕事をしないだけ、やる選択をすれば仕事をするだけ。そういうのが見えなくなるのが分業の世界、会社の中だけじゃなくて外も同じで仕事はいつでもあるものと思うと目がくらむ。

目の前の仕事をどれだけ当たり前にこなせるかだけのことで、目の前の仕事も見えなくなったら仕事は無理な話なのだが、今の織物の現場というのは目の前の仕事も他人事になりがちで、自分がやらなくても誰かがやってくれるものという感覚も多い。普通に目の前の仕事をこなしてゆけばよいのにと思うがなかなか仕事も自分がする覚悟がないと見えないもので、仕事に対する文句が出てくるけども仕事している人間というのは自分がするかしないかだけなので仕事しないで仕事に文句いってても仕方ない。

仕事なんて目の前のやればできる仕事に文句いってしないような部分がなければ簡単でシンプル。これは中にもいえることだし、外にもいえることで、普通にある仕事を足元をみてもったいぶるとかの人がいたり、自分がしきらないと気に入らない人がいると、一つの仕事もややこしくなる。私情をいれずに目の前のことに前向きにうごけば形になるのに、欲を出したり我を出したりすると普通に動く仕事も回らなくなる。自分自身で立とうする人の足を引っ張ったり、食いつぶしたりすることで自分の存在感を出すタイプの人というのは厄介そのもので関わらないほうがよい。

2017年12月02日
昨日、夜に愛知川の平和堂で滋賀麻の山田さんに久しぶりに出会って、ミラノウニカの話になったのだけど、今年も林与は今の仕事で手一杯で後手後手になってしまってのお話。昨年出展された会社さんがミラノウニカで大きな仕事が入ったというお話でその話を聞いて私自身もうれしかったことをご報告。

イタリアは、リネン、ウールなど、天然素材がそろった紡績の本場でもある。日本で1960年代後半にメゾンが立ち上がったのもイタリアでミラショーンをはじめとするブランドが1960年代中ごろにコレクションを始めたのを、日本版として今の日本のファッションブランドの大先生とされる大御所の先生たちが続いたことがあろう。続いたと書いたがそれはヨーロッパの流れからの還流で、イッセイミヤケ氏などはすでにヨーロッパを舞台に日本の布の文化を広められた。

林与の布も布として洋服になるが、デザインをみても布を布として魅せるような見せ方をされるのは、布に対しての思いが基本であられるあたりだろう。布を羽織るような形で贅沢に使い、布を盛り上げることに力を注いでおられるところが、布から受ける感性を大事にされているのではないかと、大御所たるスタイルなんだろうなあと。一枚の布を羽織るようなスタイルが多いのもイッセイミヤケの特徴。洋服問いうよりも布をまとうようなみせかた。

求めようとすれば欲のように広がる創造の世界なのだが、自分の出会う人が作り出すものごとを支えようと最後は人を支えることなんだろうと思う。イッセイミヤケはアパレルでありながら多くの布を生み出すところに力を注いでいるのが、着物の世界の織元と似ている。

林与自身が布そのものが最終的な作品であるように思えるのもまさに衣(コロモ)に対する評価で、天婦羅でいうとどうでもよいようなコロモノの部分の美を求めるというより、そこが自分の人生を反映するキャンバスである。デザイナーにとっても、自分の人生を布というキャンバスに表現するというだけのことだろう。それに憧れなのか情けなのかで人々が自分のつくった布をまとってくださる。

価値を見出す布というのはそれを作る人なんだろうと思う。昔は農家だったら若い母親が自分で家族の着る服の布を織った。裁縫して服にまでして、優劣などもなくできた形を受け入れるだけ。布を織る、裁縫する母親がへたくそだったら子供は我慢すだけの世界。別のチョイスはないあたりが、自分のつくったものを子供に着せて、自分の作ったものに世間の評価を受け、母親の技術も向上する理由だったのだろう。
2017年12月01日
12月に入って、それなりに冷え込んでいるけど。昨年はあれほど雪が降ったので、今年は雪があまり降らないと予測。クリスマスの日あたりに1回、年明けに1回、2月頭に1回の3回雪が降るが昨年以外の通常の流れ。

雪の降らなくなった原因は地球温暖化だけじゃなく、水の循環がなくなって砂漠化したからだろうとおもう。実際に木も水が立っているような状態なのだが、この何十年かで、平地の雑木などは一掃されてしまって、田舎でもうっそうとした森や林は消えてしまっている。田舎ですら雑草も生えることもできなくなって、虫をはじめとする小動物にとっても居場所がない。

小動物を食べる鳥などの動物も消え果た感がある。先日だが、宇曽川ダムの上流の田んぼを30分ほど散策したが、田んぼは柵に囲まれて、野生動物への分け前はない。野生の大型の動物が生きてゆくには厳しい環境だろう。人が心地よい環境と動物が生存できる環境とは相反する部分があろう。

人の求める理想郷は砂漠の上に人口で作られたオアシスなのだろう。作り上げられたオアシスに住むと、体調の管理も必要がないので、耐性が落ちてゆくもの。私も、以前、世界一よいだろう工場の中で働いたことがあるけど、外は暑くても寒くても、工場の中にはいると湿度も温度も完璧で、働きやすいものの、そういうのが当たり前になって、体が寒さや暑さに耐えられなくなってほかの会社で働くことは難しくなるだろう。

自分自身の体が環境に適応する能力というものを失うといろんな衝突が起こる。別のプログラミングの会社にいたときは、夏なのに18度もないほどに冷えている。風邪をひくくらいに寒いのだ。でも、それに慣れてしまっている人にとってはまだ暑いなあだろう。一般的に男性は暑がりで女性は寒がりみたいなのも、男女が集まると室温調整一つで意見がばらばらという光景もよくある。料理の味もそう。結局、だれが我慢するかなんだろうということ。

多くの人が集まって一つのことをするのはその一つの実際の仕事がというよりも、仕事以外の部分が難しいことが多いので、日本の国でのものづくりが難しくなった部分が大きい。他国のほうがものごとが簡単に進む。
2017年11月29日
日野で滋賀県として最大規模の大麻栽培が摘発された件がある。近いところで大麻が栽培されていても、県警すらもがゆるすぎるのが原因ではないのかと思う。大麻栽培というのは警察も真剣に動かない案件で問題すらもが大きくなりやすい。もちろん、所轄によっては相当に厳しく動く所轄もあるけど、全国的に特に鳥取なんて大麻栽培に関しての緊張感すらもなく、取り締まるのも一般の国民の大麻意識からすれば後手後手で、違法大麻は栽培されていないことになっているけど、現実年手は違法大麻が栽培されていたような状況で、それを警察が動かないので、私が自分で明らかにするというと訴えられますよと、警察の方に言われた。

日本では大麻栽培は無理な話が、日本の行政のレベル。組織化しすぎて違法大麻を取り締まることも取り締まる立場の警察があしらう。一応東近江署に電話したけど、大麻問題東近江所も本気で日野の県下最大の大麻栽培の撲滅に動いたのも2週間ほど前に日本の大麻栽培を野放しにしているような警察(すくなくとも滋賀や鳥取県警の地元所の現実)の事情もあろう。組織だから自称があって無理とか。日本では大麻栽培は、末端の県警や警察暑の許認可レベルでは本当に無理だろうと思う。民間の厳しさすらもなく、大麻が栽培されていたちごっこで、国民のいかりすらも理解できないようでは大麻栽培は無理そのもの。

日本のまともな麻の業者が大麻禁止を真摯に受け入れて大麻の違法縛滅に動いていながらも所轄がそれ以上の覚悟がなければ違法大麻を取り締まることも難しいだろう。2週間ほど前に大麻栽培の話で厳しい話を東近江署にぶつけたら日野の違法大麻栽培が滋賀県警が摘発。どんどんとやってもらえることはうれしいが、違法大麻栽培を軽くあしらわれるような警察には、滋賀県警は違法大麻養護じゃないのかと思えるほどの苛立ちすらもある。2週間前に東近江暑に電話で、滋賀県警最大規模の大麻問題の摘発が起こったのも私の電話も一員じゃないのか。

警察もほっておいたら駄目で、アル中以上の大麻中毒廃人が滋賀県をはじめとする近畿圏内で増える話。警察も素人以下の大麻問題対応では廃人が増えるだけのこと、本気でというが、窓口が署長にすらも話ができないとか、署長すらもが国民に対する覚悟なく日本で大麻栽培は絶対に無理な話。



2017年11月26日
今朝、起きると足の甲がヒリヒリと痛む。両足ともだが、右足の甲の内側が流動化してしまったようにまともにあるけないくらい。どうも、原因は、電気毛布。寒かったので一番厚くしてうつ伏せで寝て、足をまったく動かさず数時間だったのだろう。あるいは、2年前に骨折したのが戻ってきたのか。

まともに歩くのも痛むが、織機は動かし続けないので、無理して動いていると痛みも忘れる。が、夜中になって、糸を繋ぐために立っている状態で鈍痛が耐えられないほどになったので、右足の甲にシップを貼ってみる。プラス、寒気がするので貼るカイロを肩に2個貼って、これが調子がよいのだ。

薬という感じは楽になる草という意味だろうが、かぜなんかでも治す薬はないとよくいわれ、痛みを抑える程度であとは、自分自身の体が治癒する力を発揮するかどうか。痛みを感じるのもまた健康な証拠なのだろう。回復力なんかも仕事の能力の一つ。林与の取得のひとつは体力だろう。
2017年11月25日
今日はリネンデニムの出荷。リネンデニムは思い入れのある生地で、インターテキスタイル上海と合流して行われた国際テキスタイルコンテストでも3位に入賞したのも懐かしい。難点は織るのが難しいという問題があって、イメージ普通の生地よりも織るのが3倍ほど難しい。また、糸を1.5倍から2倍ほど使うので、生産コストが成り立ちにくいという問題もある。

今回も細番手を織っていた織機に掛けたので、まったく織れないような状態から織機の調整が始まり、調子よく数分織れるような状態まで持っていって、蒸気を発生させ工場の湿度を上げることによって、糸に湿気をもたせることで調子を上げる。2分から3分くらい動くような状態になった。糸が黒いので、糸も太いけど筬とおしなど見極めが難しいので、経糸切れはできる限り起こらないほうがよいのである。

L25のリネンデニムも織っていただけに、今回のL40はそれよりは生地の重さ的に3割ほど細いのでうまく織れないといけないのである。最近の染め糸の糊が硬さを感じるあたり、糸の伸度がない感じでその影響もあるだろう。これは一概に染の問題なのかというと、この数年でも糸の質は、染めをしない場合でも、通常の番手、中国のオーガニック、イタリア銘柄のチュニジア紡績のオーガニック、リネンL100番手、ラミーなどの細番手、どれも弱くなって、そのままおる場合数年前より織り技術がより必要となる。糸の値段のほうはリネンは為替が円安の影響と関税で4割ほど上がってしまっている。

日本のリネンブーム落ち着きを見せたのも為替の影響が大きいであろう。世界的にはリネンはエコな側面からも根強いブームとなっている。
2017年11月24日
織物は分業でというのは、今の中国の工場をみていると、男性が織機を修理調整して女性が織たり検反補修というような分業がなされている。昔の日本もそんな感じで、一つの現場を一人が担当することが多かった。織物工場に来て、最初の数日で覚えたことが一生の仕事としてのパターンで、その仕事以外はできないのが当たり前というスタイルなのだが、今の日本ではその大企業型の量産システムを理想としては存続すら難しいだろう。

私自身、織物の仕事をしているけど、織物が好きだからというような単純な理由ではなく、織物の中に、仕事という基本の要素を感じているから。織物の仕事といっても織るだけが仕事ではないところ。仕事をしていると見えてくるものも見えてきて、仕事とは何かということも自分なりに意味が出てくる。仕事をやらされている状態だと見えてくるものも見えてこないだろう。仕事があって「ありがたい」という基本を感じていなければ、生産には自分の時間、気力、体力を使うので、うまく回らないだろう。

仕事があって「ありがたい」と素直に思える人がどれほどいるだろうかと思うと私はその点で仕事に向いていると思える。自分一人で業を成している人は若くてもそういうあたりもって仕事されている方が多い。組織の中に入ってしまって守ってもらえるような立場の人だと仕事に文句が出て、仕事しないことが自分の仕事みたいになってしまう人も多い。そうなってしまうと、ものづくりの問題をどうこう話す前に、人の問題がややこしすぎて仕事なんてしないほうがよいだろうと思う。精神とか責任感とか、心の問題の部分。

仕事をする気持ちでどんどん仕事していると技術が身についてくる、これは、ビデオをみて技術を修得するのとはまったく違うのである。自分がまず真似してやってみて、下手なのがなぜ同じようにできないのかしることも大事で、自分が自分の体を動かして、よい方法、悪い方法の区別をはっきりと分かることが大事で、たとえば、草木染するにも、公式的な薬剤の分量をしっていることは大事だが、それを間違うとどうなるのかも本当なら自分が失敗してその失敗を被って正しいことを身に着けるのだが、今の仕事にはそういうチャンスはないので、失敗してもあまり深く考えないで、また仕事があると思うのだろう。これも人の問題ということにつながるが、この部分が技術。

あと、自分自身がコンスタントに作業をできるのかは、技術とは別の部分で、こなしてゆけるかどうかという体力的な部分。仕事を教えてもらって仕事が理解できてもそれを自分自身では与えられてもこなせない。体力、視力、聴力、忍耐とか、集中力というのもここと関係をしてくる。

いろいろと偉そうに硬そうに書いていても、実際には目の前の一つに仕事をやるか、やらないかだけのことで、それは総合的な力が必要とされる。人が集まれば仕事がスムーズに動くかというと、逆のことも多く、仕事があって「ありがたい」と思えるような人が集まらないと仕事があって問題ばかりが増えるだろう。
2017年11月14日
今日は産業支援プラザのよろず相談に午後から、いろんなことを乗り越えてゆくために、行政支援の窓口である滋賀県産業支援プラザとも助成金関連や専門家相談など活用をさせていただいていて、今日は、近江八幡でいろいろと解決したい問題などの相談。今、加工の機械を作りたいなあと思っているので、モーターとかと融合できる機械部品を一部オーダーメードが必要で、それをつくれるところがないかとおもっている。

織物にしても、織物を織るのが仕事のように思われるかもしれないが、織物を織る技術があっても食べてゆくことは難しいだろうと思う。普通のものでは溢れすぎていて、普通のものを織れた所でものが溢れている今日では興味を示してもらうことは難しい。そこが昔のよい時代の織物のものづくりとは違うところだろう。より働かないスタイルを目指す日本で、より良いものをつくるとかは、すごいギャップだなあと思う。日本人がパクリ上手になったのも自分が生み出さないから。

自分で作るよりアウトソーシングというのを理想にするのが組み立て産業。自動車や電機が元気なのは、そのあたりなのだろうが、
2017年11月13日
今日は長英座の2回目のロビー展示出展、琴の弦の丸三ハシモトさんと北川織物工場(ファブリカ村)さんの間のブースで、両隣が馴染みの糸編の方で久しぶりの再開で、途中の雑談なども弾む。私も十分おっさんの域だが、糸偏というのは、70歳80歳でも現役というケースが多く、50歳あたりではまだ若い方で、3人ともまだまだ若手として次世代を担う若手なんだろう。

こういう場所に出てくるのも自分がやっている人がPRのために出てくるというのが普通で、こういう場所でやっている姿を認識していただけることが大事なんだろうと思える。近江上布の柄を復刻した広幅のリネンストールはリクエストも多く、現実的な作品あるいは商品として形にしてゆければと思う。

今日も宿題で修正作業を持ち込んで、舞台の最中に修正をする。糸の目とびを直すのだが、インチ70本くらいの織物なので、1ミリに3本程度の黒い糸を模様にあわせて拾ってゆく、顕微鏡で修正するので、1本の糸は150ミクロンから250ミクロンくらいだが、画面では1ミクロンに相当する毛羽まで見える。針が太すぎて厚みがあって扱いにくい。

帰り、南彦根にある手芸のお店TOKAIに寄って針を探す。普通の手芸コーナーでは手に入らない細い針が売っていて、ビーズ刺繍用の針が細くて扱いやすそう。帰って使ってみると糸を針先で裁きやすく、作業がやりやりやすくなった。私自身は、1日中でもこういう作業大丈夫なタイプであることが特殊だとは思う。時間があれば食べる以外ノンリミットで過ごせるだろう。でも、現実は、いろんな仕事に目をかけて動かないと、追ってくるばかり。

お医者さんで頭は優れていても手先が器用とは限らないだろう。ミクロン単位の毛羽を見極めて作業するのは医者の手術と似ているだろう。作業だけなら医者以上に上手にできるかもしれない。

2017年11月11日
昨日は長野県の織物工場が社員旅行で滋賀県に来られ林与の工場を見学。シャトル織機なども動かしておられるので、設備的にはそれほど新しい情報もないだろうけど、ジャガード織機などはないということでご覧になられていた。麻とシルクとの織りの違いなど差があるのだが、シルクの場合はテンプルを使われていないということで、テンプルがシルクを傷つけてしまうからだろうとおもうが、麻の場合織りにくいそうだ。分かる気がする。

後、湿度の問題もあって、麻の場合には糊のついた糸などは湿度を与えてあげないと織れないことがある。シルクのちりめんの場合には、撚りが戻ってしまうので、湿度はよくないということ。ほかにちがいといえば整経のときのビームで機草紙を入れて巻き取るそうで、基本、フリンジをつけて巻き取る量産のスタイルの林与とは異なる部分である。林与でも、2重ビームの場合など消極送りの場合には機草紙を入れて巻取りするが、着物の世界というのは量産対応が難しいのもそのあたりだろう。ビームに巻き取るは巻き取るで、微妙な幅の調整がうまくできないと織りにくい問題が起こりえる。小ロットの生産だと機草紙を巻いてするほうが楽なことも多いが、大きくまくとなると糸以上に紙をたくさん巻いている感じになるので、ぎゃくに大変。

事務所では、近江上布の絣のものをごらんいただくと、やはり伝統工芸的なものづくりもされている工場の方々なので着物の世界の織物のほうに味を感じてもらえる。でも、需給の関係などもあって、今のアパレル向けの織物を織るほうが糸の手配、納期の調整、生産量の調整など、実際の労力や覚悟は大きかったりして、広幅絣織物のほうが私にとっては高度でありながらも趣味に近く気軽にできたりするあたりなど。

長野の工場では10数人が分業的に仕事をされているそうで、林与からすると産地がまだ元気だった頃の林与の昔みたいな体制の整ったものづくりでうらやましく思えるが、それはそれで大変な部分もあろうかと思う。現実、今の日本の現場ではちょっと難しいことが出来ないというのがありがちなので、長野の工場さんのように設備と新しいことでも学ぶ力のあって実線してゆく意欲のある人が揃っていると今の日本では例外的に元気に仕事が舞い込んできてこなしてゆけるだろうと思う。仕事があって天国と地獄の差というのも壁を越えてそれをこなして行ける人がいるのかいないのかの差だろうと思う。8
2017年11月10日
織物に修正作業が伴い、それは織るよりも手間が掛かることが多い。麻の100番手クラスだと、インチ70本だとセンチ30本ほど、縦横それぞれの1mmに3本の糸が存在する。麻糸は凸凹なので、それぞれの糸がまっすぐに走っていようが、織られた状態で一本一本の糸を把握しようとすると、肉眼では難しいことも多い。今、修正しているのは黒い糸がベースになった織物で織ること自体も、細番手の麻糸のような場合だと、白の織物を織る何倍も難しくなる。

布(ヌノ)という言葉はオを縫うことが語源となって、ヌウオが布(ヌノ)となったといわれる。日本で最初の織物というのは、日本でもアンギンだとされるけども、アンギンというと上から下に糸を平行に等間隔でたくさん垂らしてそれを編むような感じで横糸を通す。私が思うのに、木の棒2本に糸をぐるぐる巻きにして、それを縫うスタイルの織物もあったろうとおもう。地面においてやったほうが簡単だろうなあと思う。

織物を縫って作ることが可能なのだ。織物は、居る(イル)が転じてオルとなった説と縦糸を折って織るので織るというようになった説などがあるが、オルのは布で、古代に布というのはオを織ったものを指した。絹は、打面して綿として使ったので織るものではなかった。近江真綿なども、綿ではなく、絹の布団綿のことを指すのを初めてしったときには、何で綿布団なのにシルク使っているのか疑問だったけど、絹を打面してワタとして面にして、それを肌に当てて服としたのが始まりとされる。
2017年11月09日
昨日は、麻の古い布をみる機会があって大麻が原料になっているというお話。近江上布ということだが、絣ではなくプリントが施してあった。白く晒した生地にプリントというのは珍しく、私としては初見で柄と色合いからすると京都の捺染の世界の色合い。地場の江戸時代の麻というのは、藍染が主体で、絣になっているものが近江上布とされる。

近江では野洲晒が有名ではあるが、愛知川の晒も野洲晒の職人が移り住んで愛知川での晒が始まったといわれている。野洲晒しは、奈良に野洲の職人が技術を勉強に行って覚えたとする説が有力だそう。今も野洲には紺九さんを初めとして京都の国宝や重要文化財を守る藍染の技術がある。野洲では晒すだけでなく藍染屋さんがたくさんあって、古来の藍染めの技法を再現したのが紺九さんである。

彦根城のすぐそばには紺屋町が残っており、彦根では織物はあまり織られていなかったとされるが、染屋は存在していて、高宮布を藍染していたものと思われる。彦根には京町という名も残っており、小京都の名残で、京都の文化さながらだったろう。江戸時代にも、京都のものが入って売られていた可能性は高い。彦根の呉服商の旧家をゲストハウスにしておられる無我さんでみせていただいた着物は、まさに金襴の世界で、彦根の地場産業である仏壇の技術などもシルクであろう素材には京都の室町の金襴織物を感じる。彦根城博物館にあった大名の衣装も麻は確認が出来なかった。素材に関するドレスコードがあったに違いない。

シルクというとやわらかいイメージがあるだろうけども、必ずしもやわらかいとは限らない、シルクを精錬する技術もたしか江戸時代に完成したような説があり、それまでのシルクというのは麻を思わせるような表情のしっかりしたものだったろう。着物の世界ではハリやコシというものは大事だったりするもので、光沢感のないマットなものは安いものとしてとらわれたのだろう。
2017年11月08日
昨日はタイイングマシーンの使い方を教えるというところ。自分がタイイングマシーンを使う分には、どうでもよいけれど、慣れない人がつかうとなると。使いやすいように準備作業が必要で、タイイングマシーンの糸を押さえるラバーゴムを変える作業を数時間かけて行う。タイイングマシーン本体が問題なくても、糸を押さえる4本の棒のゴムが経年劣化して硬くなっていると糸をしっかりとホールドできず、糸が緩んでサクサクと作業が進まないことがありえる。

作業というのは自分の作業が正しくても使う道具の扱い方が駄目では駄目で、そのあたり分かっている人でないと全体のバランスも取れずにになってしまうので、分かっていくことが仕事としては大事。タイイングマシーンのラバーゴムも、1台4本、8本分でタイイングマシーン2台分買うのに15000円くらいかかるけど、それ以上にそのゴムを交換する作業が苦痛であるのも仕事のうちとして経験がの世界。

そういう仕事をどれだけ当たり前に仕事して流せるか、それが継続してできるのがほかの人にできない私の強みだったりする。私自身なれているかというよりも、なれなんて必要なくてやるかやらないかだけのことと割り切っているので、慣れとかいつかできるみたいな憧れみたいなことは職業体験の子供の世界。目の前のこと慣れてなくてもこなして行けば素人でもやらない講釈ばかりの熟練者よりもよい仕事ができる。

ラバーゴムを替えたタイイングマシーン、今までとは違う糸を確実にホールドして、カチカチと音を立ててキビキビとした動き。苦労してラバーゴムを替える意味もあるのが分かる結果。ほんとそうで、何十年の現場というのは新しい現場とは違って、より厳しい目をもっていろんなことを見据えていかないと難しい一例。何十年前に、一台自動車が買える値段のタイイングマシーンを新品で買ってスムーズな作業をしていたとしても、それが何十年も経てばタイイングマシーン本体も古くなるが、本体だけでなくゴムなどの消耗品も交換が必要。消耗品を買うはよいけど交換作業をする覚悟があるのかないのか、その程度が当たり前でなければタイイングマシーンをもっていてもまともな仕事を続けてゆくこともできない。

糸を繋ぐのは糸をつなぐ専門の人の仕事とか、整経は整経屋さんの仕事とか、検査や修正は専門家がとか、自分がやってみればわかることも多いし、プロよりも自分が上手に出来ることも多い。収縮物性なんて、自分で生地を洗えば分かることで、さらには、加工工場が難しいという収縮の問題すらも、収縮の問題が問題であってが何が問題なのかも分かることも多い。素人の人が使えば問題がない生地でも量産の世界では現場のまさに素人が扱うので問題になることが多い。その現場の素人に合わせて生地をつくるとなると安全な生地しかできなく、プロの匠の技を素人中の素人のために用意することに力を注ぐ必要があるのが今の品質検査の問題の一つ。

神戸製鋼の問題があったけど、JISの規格なんてものの強度は最低ラインとして定めているようなものではないか産業用のものは何十年ともたないとならない。タイイングマシーンも昭和51年に導入したのだが、1976年ということになる。41歳の精密な機械。シャトル織機にしても、シャトルに使われる木が丈夫なのは30年も掛かって乾燥させるからみたいな話。日本のものづくりを世界の画一的なところに落とし込んでいけば、日本のものづくりは薄れるだけで、考え方一つから世界のほかの国のひとと違うのが分かる程度でないと、特別な世界は維持してゆけないであろう。

実は日本人よりも海外の人のほうがものづくりに熱心になってしまっているんじゃないのかと思うことが多い、着物の世界も日本人は飽きてしまっていて海外の人のほうが着物の世界のものづくりに憧れる。布にしても同じで、日本の布の世界というのはすごくハイレベルだったのにどんどんと出来なくなってしまう。一つには、行政による規制などが軒並みなものが多くて普通のものしか作れないところに落とし込まれてゆく流れ。

私自身は自動運転車に関して反対なのは、日本では、バックするときにカーナビの画像を信じることも許されず目視確認義務があるのに手放し運転を推奨する流れは一貫性がなさ過ぎる。アメリカだと人の命というのは、戦争もそうだけど軍人が亡くなるような悲劇も本人の意思で納得しているから済む話。20ドルも払えば1日で運転免許が取れるアメリカと、30万円40万円コースの教習所が当たり前の日本の違い。20ドルも払えば1日で運転免許の世界が自動運転の発想なんだと思える。アメリカだと小学生が車運転するのが夢の世界だろうが日本だとそんなんは許さない土壌があるだろう。
2017年11月07日
植物から繊維を取り出すよい方法は、茎を蒸すこと。だから茎蒸(カラムシ)といわれるのだといわれるが、そうやって取り出された繊維というのは、苧(オ)という名前で表現され績(う)まれる。績む作業というのは、昔から年寄りのおばあさんの仕事とされていたが、私の大ばあさんも、もう紡績の時代の人だったけども、10cmの糸でも足して使ってたのは、糸というものは績む作業から始まることをしっていたからだろう。

今もリネン紡績の現場にいったりすると、麻糸というのは草の茎なんだなあと思えたりするものである。形は変われど自然の草を身につけているだけのこと。今日も工場の中で、リネンの100番手の切れやすい織物を織りながら、カラムシの繊維を取り出す作業をしていると、どっちも雰囲気は同じなんだなと思える。リネンの100番手を織るのも、手績みの糸をつくるのもほとんど同じ感覚。

簡単な作業なんてないと思えるのが、作業というのは自分のペースと関係しているので、どの作業も簡単で終わらない。今手元のことをやりながら、あんなことをやってみたいなあとか、少しづつ準備を始める。仕事を自分で生み出して行くことが出来る人というのは、繊維の業界ではほとんど稀である。仕事というものは与えられたことをするのが当たり前の感覚があったりするのだろうけど。自分で仕事を生み出してゆく、生み出すだけでなく、成り立たせてゆくというのが私にとっては仕事。

私が自分自身を職人だとも思っていないし、職人っぽくないといわれるのも、新しいものを生み出しているからだろう。一般的には職人というと与えられたことを慣れでするのが職人らしい仕事。私自身が作業をしていると慣れはほとんどなくって、厳しい感覚で常に注意をしていることがほとんど。慣れというものは今の慣れていない人が携わることの多い繊維業界では、自分がいくら正しくてもほかから生まれてくる問題すらも解決していかないと難しい。

作業が機械化されてしまうと機械が悪いとか言う人が出てきたりするけども、それは本末転倒。機械なんていうのは自分が単に作業をしやすいようにするための道具で自分が使いこなさなければならないものだろう。鋏が切れないという人がいるけども、鋏なんて使いようで、切れる使い方をできるかできないかの部分も大きい。だれもが切れないという鋏でも私の場合、コツ次第で問題なく切れることがほとんどだったりする。職人が何十年使う鋏というのは、普通の人がつかうと、切れるようで切れないことがほとんど。職人にとって使うとき意外に切れる鋏は危ないのだ。使うときだけ切れる鋏が危なくもなく一番よい。
2017年11月04日
林与のオリジナル的な加工方法を考え中で、この加工で加工したものをネットなどでも販売していく予定である。味があってやわらかくて皺にならないような加工、そんな布を生み出すことが目的である。

今日は私自身は、一日その作業に取り組んだが、加工の力が足りずに方法を断念。新しい機械のメカニズムを考え直す。現場では、環境の勉強をしている大学院生の女性が織物の製織や整経作業を経験。卒業したらシンクタンクに就職を予定の女性ではあるが、こういう町工場的な現場を見て作業を経験して、ものづくりの仕事というのは頭で考えるのと現実は違うという部分も経験はしてもらっておくと、考え方が変わることがいろいろとあるだろうと思う。

日本人が農業をしたり織物をしたり必要ないのではないかと思われるかもしれないが、農業も織物も優秀な人だけが携われるというような作業でもなく、間口が広いのである。真面目に作業をしようとすれば、それほど頭の良し悪しなんて関係はなく、学校のように単なる成績で、できるできないが決まるわけでもない。貧しくみえる途上国の人のほうが農業や織物の仕事は上手なことも多い。

右から左の仕事が多くなってしまっている日本で、それを理想とする考えがあれば、右から左の仕事というのは駄目な仕事としてはじき出されてしまうことになる。右から左の仕事なんて誰でもできるので成り立ちにくくなるのが当たり前なのだがほとんど何もせず利益率が高かったりするのでよい仕事に思う専門家も多い。それを日本が目指し、みんなが生き残れるのか。

日本人が器用とか、忍耐強いとか責任感があるとかいう部分、世界の中でもほんとうに強みなのだと思うけど。世界でも日本は裏方で面倒を見る側だったけど、そういう要素がなくなって、名前はあっても実質が伴わなくなってしまっている。神戸製鋼の問題なんかもというよりJISの規格にしても、通常に流れているネジ一つにしても耐久性のないのものが多くて数ヶ月で使い捨てのレベル。自動車メーカーなどがJIS規格以上のものを求めるのも当たり前に分かる。一般に流れているものではJISがついていても満足できない日曜大工に使うレベルのものが多い。
2017年11月03日
今日は文化の日で、米原の伝統産業会館で長英座のロビー展示のイベント。仕事に追われていてあまり準備ができないが、昨年、しが新事業応援ファンドで試作した近江上布の絣柄などのストールを展示しました。次は12日にロビー展示予定です。

今年は、ワンピース用の生地を試作予定で、染料も手に入れることができ機器も作成ができたので、次は、捺染してシャトル織機で織り上げるステージ。今年は年内には完成が必要なのだが年内の仕事もかなり埋まっている。

時間の流れるのは本当に早い。人一人が、1日にできることなんて限られていてよほど前向きに取りくまないと。店頭に安くていい感じのものがたくさん並んでいてもなかなか売れるのが難しい状況で、売れるものをつくることは難しいだろう。

しが新事業応援ファンドのような助成金を受けて行うプロジェクトは、お金儲けというよりも、この仕事をするなら自分が本来はやっておきたいプロジェクト。できるかできないか分からず、時間と労力を要するプロジェクト、本業のつもりでやったら失敗するだろう。別腹で、時間を見つけて動く。自分の頭、時間、体力を使う。まさに自分がつくるものだから、無理してでもしっかりと作りたい。

2017年11月02日
今、自分自身にとっては織物の新しい加工に取り組んでいる。柔らかくシワになり難い麻を目指す。このメリットは、小ロット、クイックレスポンスという対応も兼ね備えているところで、今後、林与の生地の風合いの特色のひとつとなっていくものと考える。林与のナチュラル仕上げを一歩踏み込んだ形で、ナチュラル仕上げの3倍ほどの時間を要することになる。

今は世界中、やわらかいリネンストールも今は普通になったが、当時は麻のストールといえば、腰のあるものや濡れ雑巾をしぼったようなものがほとんどだったのに、やわらかいリネンストールができないものかと細番手で織り上げて林与が会社の中でリネンストールを柔らかくしようと洗ったところから始まった。ほかの人に頼んでもなかなか難しいことが自分の手の中では簡単にできたのが不思議だったが、織りだけでなく、そういう切っ掛けから、加工や染のことをやったり、糸の仕入れなどトータルに自分でこなしていくようになった。

今回の新しい加工も、見せるのはこの春夏物向けからプレゼンをしていこうと考えている。ナチュラルな風合いながら柔らかくシワになりにくいリネン。ただ、手間が掛かりすぎるので、卸売りはせず、当初は切り売りベースでの販売になろうかと考える。この加工方法もオーガニックなので、従来の生地では難しいアレルギー体質の方やベイビー用途にも対応できるのではと思う。
2017年10月29日
織機を調節して調子を上げると、やはり織りやすい。織機というのは上手な人が織っているとどんどんと調子がよくなっていくのだが、下手な人が織ると調子が落ちてゆく。調子の悪い織機を直そうとして、問題のない場所を触ってしまって、織機がボロボロになってしまうこともあり、織機を調整するときは時間のあるときに私自身が織りながら調整を掛けてゆくのがベスト。

この1週間で7台の織機に調整を掛けた。最近、リネンの60番手を織るのに苦戦をしたので、調整をしまくったがためにその調整が仇になっている。織る前の糸や糊付けなどに問題があると問題のない織機に調整を掛けることになって織機の調子が狂うのだ。出来上がった糸を織れないといって織れないままにしておくことも一つの方法だろうけども、それだとあまりに芸がなさ過ぎて、素人に近いのではないかと思うところがある。

現場というのは「織れない」「できない」「分からない」ということを口にするが、問題を乗り越えることに時間を使っていないことが多く、「織れない」「できない」「わからない」の積み重ねが、何十年の経験があっても惰性では続けてゆくことは難しいだろう。新興国で何千人がそれなりに正しい織物を作れるのが当たり前なのに、先進国の日本では正しいものをつくるのが難しいとかでは厳しいのも当たり前だろう。

展示会などで海外の繊維関係の人と話していると仕事に前向きで気持ちよいのだが、日本の繊維関係の経営者の多くが面倒な仕事はしたくなくお金儲けしたいだけみたいな人も多い。結局、海外に仕事が流れてゆくだけで自分たちがよいものをつくろうとする気持ちすらがないことが多い。できることを減らしてシンプルに仕事みたいなスタイルがほとんどで、それだと海外の何千人の工場に分があると思う。
2017年10月28日
蒸し器の水の量を多く入れすぎて水が配線部分に滴って、電源を入れてもブレーカーが働いて使えない。大満足で使っていた蒸し器、本来は染色用の蒸器なのだが、温度制御もできるので、ちょっと寒くなってきた工場の暖房代わりにも使って便利だった。長く使って行こうとおもうと、ここで一気に分解して原因を探る。

中のパーツは、それほど多くなく、電気の流れを追っていくと大体の動きが想像できる。一番疑ったのはヒーターへと制御を繋ぐ配線部分のコードが濡れて駄目になってしまっている可能性。そこで、コードを新しく付け直したが同じ結果。

ブレーカーが、30アンペアを超えてしまって働いているのか?それとも漏電して30mAの電流の差が出てしまっているのか。この装置を作ってくださった方にも問い合わせて知恵をかり手伝ってもらいながら。たぶん、水に濡れた部分がまだ濡れていてということで、配線をはずしてみることにする。配線を外してみると、ヒーターの中の配線と外側とは完全に絶縁していて問題ない。

絶縁のシリカを守るためのワッシャーが悪さをしているような気がして、ワッシャーをはめて抵抗値を探ると、ワッシャーがはまると絶縁状態が緩まってしまうようで、ワッシャーを外して絶縁用のシリカをつけてやると問題が解決。この数日、直らないのではないかと悩んでいただけに、問題が解決して気分晴れ晴れで、その後は仕事に打ち込めた。

これからもこの蒸器は活躍してくれる。
2017年10月27日
古代において大麻というのは粗いもので、太麻と書くこともある。神事で大麻がつかわれるのも高級品とされる細いものではなく、逆に麻本来の味のある質素であるからだろう。高級なものにこそ人の欲や邪が潜むだろうから、原始的ものや祖なるものを大事にしているあたりが神道の精神にも通じるのではなかろうか。

大麻が古代から高級であると当てはめるのは、今の感覚過ぎるんじゃないかと思う。大古の時代にもカラムシやアカソなどより細くてやわらかく未精錬のシルクにみえるような繊細な麻があったけども、神社で大麻が使われるのは、素や粗であることこそが大麻が神社に使われた理由だと思う。麻らしい粗野に思える部分が神事にはよいのであろうとおもう。神社に供える麻というのは鰹節のようなイメージに近いものであり、洋服に使えるようなものではないようにみえるところがよいと思う。大麻に関して細くてやわらかいものがよいというのは、あまりにも現代の感覚過ぎるのではなかろうか。それを古代の大麻に求めるのも無理があろう。

リネンでも本来丈夫でよいとされるのは、ラインや一亜と呼ばれるものだが、硬さがある。グレードが低いとされる、トウや二亜と呼ばれるものは落ち綿なので糸にしても柔らかく、ホームファブリックなどには適していると思う。なぜ麻が高級とされるかの背景には、細くて長い繊維を取り出すことができ細い糸が作れることがあった。細い糸をつくるのは手間がかかり、また、織るのも手間がかかるから。しっかりと織っても細い糸を使っているので、柔らかさや軽量感、清涼感が伴うことになる。

日本の着物の世界ではしっかりと織ったものが良いものとされてきた経緯があって、江戸時代は、日本中で苧績みが行われていて、一般の人でも、自分自身が苧を績むという作業を行っているので、着物を見る目も高く。高級な着物に対する価値観も、高かったといえる。成人するときの晴着のために、親がコツコツと蓄えをしたというのも日本的な部分で、年配の方とお話するとその方々のおばあさんの時代の着物が残っているという話をよくお聞きする。
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