for English speakers: Welcome to HayashiyoWelcome to Hayashiyo
リネンや麻を織る日々をつづっています。
ホームリネン日記機屋体験2日目
リネン日記
機屋体験2日目
2020年11月03日
今日は、2日目、朝から整経機のクレールに糸を立てて、それを前まで送って、整経スタート、1日掛けて整経が荒巻ドラムに巻き終わった。途中、少し余裕があったので、下でシャトル織機を織る練習と、合間に、縦繋ぎの練習。

縦繋ぎはやはり高度な感じなので、整経の足台にしているドリンクのプラスチックの箱を縦繋ぎ練習機にして、整経機の横で練習をしてもらう。指の動きは最後にあやとりのような要素があるので、そこが一番難関か。

私自身が縦繋ぎを覚えたのは必要に迫られて、従業員の女の子に教えてもらって、40過ぎてからだったろうけど、それでも遅くはなく普通に縦繋ぎもやって仕事している。素直に学びたい人だと普通に職人が無意識にやっていることくらいは数時間でマスターできるものである。あとは、慣れと実際の仕事となれば何千本繋ぐ話でそこが大事なところ。

10本20本結ぶのは頭で考えながらできても、1000本、3000本を結ぶのは頭で考えながらでは難しい。頭で考えずに、体の力も抜いて作業ができないと難しい話である。着物の世界の手織りの織物は通常麻織物だと1000本くらいが普通。たとえば、アパレル向けだと同じ規格でも3000本と手織りの世界の3倍の負荷になる。

よく言われることに、近江上布は1反織るのに1か月とかだけども、実際には1反を1日で熟練者が織りこなして、大学卒業の人よりの田舎の出機の人ほうがたくさんお金がもらえてすごく良い仕事だったということ。手に技を持っている人が日本からどんどんと消えている現実で、繊維の世界で織物の技術的なことを教えようとしても、それを習得しようとする人は日本人では逆に少ないと思う。何十年前は普通に日本人ができたことが今の人だと難しいみたいな、それでいて先進国というあたり。

同じ人間とした場合、海外の子供でもやっていることが日本の大人が難しいとかではダメで、日本の大人がやるからには海外の子供以上に正しく正確で明らかな大人の仕事の違いを見せないといけない。そうでないと仕事のできない自分が仕事するのが面倒くさい大人があふれて、立場の弱い児童労働なんていうのはなくならない話。大人がしっかりと仕事していかないとダメだろうと思うが、大人ほど仕事が面倒でできないことが多いのが今の世の中。先進国の大人と同じで仕事が嫌とかが海外に回って途上国でも大人が仕事が嫌で子供が児童労働、そういう悪循環を先進国の仕事の考えから断ち切らないと、児童労働はなくならない。

私が仕事を始めた時にも、何十年の経験者が仕事を面倒そうにいう人が本当に多く、大事な部分をやっといてばかりで、文句ばかりで限界が浅すぎて高度な作業にはつながらず。人間関係的な上下で下だと思うものに偉そうにするのに重点が置かれてしまって、もっと仕事に前向きな外の世界から取り残されているのにも気が付かない危うい状態。

経験も浅くても仕事する気持ちのあるものがそういうのをかぶって成り立たせて面倒を見るというのが海外の児童労働にも通じる世界。自分の両親ながら、地道なことを自分がやろうともしせず、こんなことはやっても無駄とか、地道に仕事するのを馬鹿にしている親をはアルバイトも難しい半人前。自分が自分でやって食べていくのが仕事だがそういう本質も忘れて、偉そうに面倒見てほしい経験者ばかりが増えてしまっては、繊維じゃなくてもなんの仕事やっても難しい話。

日本の全体としても、エルピダメモリもジャパンディスプレイも国の発想からして同じようなところ。安易な発想で、覚悟みたいなものなく国内生産にこだわろうとしても通用せず、海外生産しているといつのまにか海外の生産現場の人たちのほうがその業界では本物というだけのこと。自分たちが上のつもりで、メイドインジャパンや業界を牛耳ろうとするけども、そのひとたちこそが業界の人というよりも単なる不要の長物となってしまっている。ずぶずぶじゃなく、逆に研ぎ澄まされたみたいなそういうのを否定する意志の強さがないとダメなのだけど。絵にかいた餅のようなものを求めて、現実の努力が足りないから、初心は良くても結果は金満でずぶずぶになりがち。投げ出し状態でも続けたい。

食べていく苦労も味合わずに食べていきたいという感覚だから食べていけないは、仕事する前の人にありがちな理想だけが高い感覚だけども、経験が長くなると同じところにたどり着いてしまう経験者たちも多いのではないかと思う。エルピダメモリやジャパンディスプレイなんかはキズを大きく広げた感じそのもの。結局、国産がセールスポイントだったのに、結局外国の大手企業に買ってもらって正反対で落ち着いて喜んでいるというのも養分そのもので、もはや、人の資質が海外のほうが上のことが多いということだろう。