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リネンや麻を織る日々をつづっています。
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リネン日記
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2015年12月08日
今日はテキスタイルマルシェの準備日なので準備をしないとならないのですが、朝から織機とにらめっこが続く。私が織るとシャトルのなくなった糸を交換するだけで織れるのに、他のものが織ると駄目。見ているとできないには理由があって無駄な動作が多く、大事なことができていないのがわかる。

仕事というのは、基本を押えて、次に、上手な人の真似をまずできるようになってから、より上手にこなすために自分流をという3ステップが必要。一番駄目なのは、最初から、我流を出してしまうタイプで、上手な人が教えてもそれに素直に従わず、いつまでも基本の動作すら自分の体に入らない。基本の動作が苦もなくできるようになったくらいに、上手な人の素早さを真似て作業スピードを何倍にもする。最後は自分自身との戦いかもしれないが、より早く動くためにミスを絶対にしないという条件で基本動作を省くこともありうるだろう。最初は目で手で確認だが、慣れてくると音で確認するとか。

私自身、織場の作業で、音に敏感であることは大事だと思う。今日も、ビームにテンションを掛ける錘が落ちたが、その音に気がつくかつかないかで大きな違い。織機が止まる音で縦糸が切れたか横糸がなくなって止まったか、切れて止まったかわかったりするものだ。シャトル織機は個体差があるので、どの織機の動いている音なのか聞き分けることもできる。また、音で織機がしんどがっているのが分かるが、それが当たり前だろうと思うが、誰もが必ずしもそうじゃないので、そういうことが分かる人が仕事をすべきだろうと思う。

夕方出発で、テキスタイルマルシェの会場準備。30分遅れて準備開始だがなんとか追いつけて。私が12月は忙しくって、今回のテキスタイルマルシェは最終日の午後から店頭に立てるだけになりそうで、ほかの日は代わりの人に立ってもらいますが、いつもと同じく、キッチンクロスなどたくさんもって行っております。今回の出展者は、福江さん、大江さん、松尾さん、IPさん、細川さん、YSさん、林与の合計7社になります。
2015年12月07日
今日も工場の中で張り詰めた仕事、土曜日、日曜日と工場に篭っての調整、急げど急げど糸は切れ、前に進むことができない。

週末は3時間に一度くらい休憩をとりながら2日間仕事。今年は暖冬なのですごく現場で働くにはありがたい。前までは、工場の中でストーブを炊いたこともあったけど、やはり、ストーブの周りでサボって止まった織機を動かさなくなったり、ストーブを全開にして昼休みで、私が火事の心配をして消すとか、やはり、現場というのは厳しくしないと仕事が成り立たないものだなあと悟り、今は工場ではストーブは使わない。

夜中、急ぎの出荷分を3件済ませる。近くの運送会社の営業所の人ってすごいなあと思える。できることをできる限り対応してくれる。今の日本ではそういうのがなくなりつつある。大変だろうが運送会社として今のサービスのまま残って欲しい。無理できる人というのは頼りになるし温かいものだ。会社としてそういう風土をつくるのはなかなか難しいことだろう。
2015年12月06日
野麦峠というと残酷なイメージがあるようだが、現実的にはまったく逆の世界で長時間労働になっていたところがある。一年働けば当時100円という工賃がもらえ、田舎なら家が買えるというような高待遇で、農家の娘たちの憧れの職場なのである。今のサラリーマン社会で残業しても、1年の給料で家が買えるなんてことはほとんどなく、今のほうが野麦峠よりも厳しいという現実もあろう。

産業がないときに人々に産業をもたらして、農業では貧困で食べていけない人々を救って、悪者扱いされている繊維産業というのも気の毒なところがあるが、比較するなら、単純作業で長時間くらいは、たぶん、現代中学生高校生の受験競争のほうが難しいし、新しいことを次々と覚えないとならず厳しいだろう。それでいて大学を出ても使い物にならないといわれ仕事がないのだからどうしようもない。一生単純作業で生きていけるというのは幸せな時代そのものでそういうことですら罪悪視して潰してしまっては成り立つものも成り立たないだろう。可哀想とも思っていないものに可哀想という感覚を植えつけても、そういうもともと恵まれない立場の人のチャンスを奪うだけに終わるのではないかと思う。

今の子供のほうが大人よりも仕事の吸収力がある。小学生は初めてミシンをさわっても、ほとんどの子が1時間でカバンがつくれるが、大人が同じようにできるのかというとたぶん難しい。子供は、新しいことでもやらないといけないという覚悟がすぐにできるものだ。
2015年12月05日
ほんと、暖冬だなあと思える。12月に入って、もうすぐ年末なのにこの暖かさ。日本のアパレル業界にとっては、暖冬というのはマイナス要因だろう。日本は季節があるから、春夏の服が売れて、秋冬の服が売れる。

日本も雪が降らなくなると日本らしい文化が衰退するのじゃないかと思えるのは、雪深い地域で織物のような忍耐の必要な作業が行われたこと。かつての近江湖東地域も田園には恵まれたものの冬場は雪に包まれて、村からもでることが難しい状況。

一般に琵琶湖があって湿度が高いことが近江湖東産地の麻織物が盛んである理由といわれるが、湖岸では資材系の荒い織物、細い番手のものというのは山側で織られたということからしても、雪深かったことと関係があるのではないかと思える。それと地理的な要因よりも、さらには人という要素や歴史的要素が相当大きいものだろうと思える。

東円堂という場所も、古代から奈良の寺領という土地柄で、律令制度から逃れて裕福な土地柄であったというのも普通とは違う織物を育むのには適していただろうし、また、神仏とあいまって母屋の先祖代々の仏壇や田畑を守るというようなことが何をもっても一番大事というようなあたりも、母屋を安泰的に存えさせる要因となった。織物もその流れの中に存在し、代々受け継がれていたのだろうと考えられる。
2015年12月04日
東京からは今朝帰って、工場の中の進捗状況を確認するとやはりあまり進んでいない。本来は折り始めているはずのものがまだ糸もつなぎ始めの状態で放ってある。

午後3時過ぎから大阪府の方+数名の有志で、午前に岐阜のガラ紡見学のあと、林与に立ち寄ってくださる。新しく移設したシャトル織機などもご覧いただく。相当キャパは増えたので、仕事も捗るはずなのだが、移設した食器のシャトルなども今手配中で、当面は従来の織機での生産が続く。
2015年12月03日
京都発の始発のノゾミで、東京に向かう。サンプルのストールを手渡しする件もあって、新横浜で降りて各駅停車に乗り換えようとするも、八王子方面の列車が運行停止で11時くらいまで再開に時間がかかるというので、待ち合わせ場所を新宿に変えてストールを渡すことができ、会場に向かう。

ストールを渡す新宿駅で、プチハプニング。待ち合わせ場所に急いで向かっていくと足元にピンクの折りたたんだような布切れが落ちている??? 一旦通り過ぎて20mほど行った後、やはり気になって戻って拾い上げるとPASPOの定期が入っている。女性の方が落とされたようで、6万円以上もする最近買われたばかりの定期券。インフォメーションに届けた、落とし主の方に届けばと願う。置忘れなどで逆の立場で善意の方に救われたことが私も何度もある。

展示会の会場につくと、10時にアポイントをとって下さっていたお客様が待っていて下さる。事前に遅れそうだったので主催の方にお客様が来場されたら林与が少し遅れますとお伝え下さいと連絡をいれておいたので、落ち着いて会場に向かえた。機屋をやっていて一匹狼なのかというと、いろいろな皆さんに支えられていて、新しい出会いなどもいろんなところでいただいて、そういう出会いに支えられて新しい取り組みに恵まれることも多い。

本当は常に新鮮でなければならないのだろうと思う。慣れてしまうと新鮮味がなくなって、ひとつひとつのお出会いを大事にできないことも多くなってくる。ひとつの展示会で一日に30人以上の方とお話しすることなどもあって、誰と何を話したのかなども時間がたつとあやふやになる。今回はできるだけ早く対応させていただこうと考えている。

今回のハーベスト展はすごく時間のたつのが早く思えた。会場の片付けも皆さん手っ取り早く30分ほどで片付いてそれぞれが帰路に。
2015年12月02日
今日からハーベスト展、9時半に、恵比寿の会場に入ると一番入り口の場所に林与の場所。くじ運がよかったと皆さんに言われるも、いつもバタバタなので、展示会準備もちゃんとできないのと、春夏向けの商材なので、目立たない奥のほうでとリクエストをさせていただいいておいたのだが。

ほかの出展者の皆さんは、前日から準備されており、10時の開始に準備を間に合わせる。いつも10分くらいで準備を済ませるので、そういうところが林与らしいのだけども、全体の準備をお手伝いできないことなど考えるとこのままではいかんなあと。

初日のお客様は全体的に少なめな感じで、その分、ゆっくりとお客様とお話がさせていただけた。お客様の途切れた合間には、会社に連絡したり、発送、スワッチの準備をしたりと、あっという間の夕方で、夜の出展者の打ち上げの飲み会を楽しみにしているのだが、今回は、事情あって滋賀県に戻る。

会社に戻ると、やはり、これもまだあれもまだで、まず急ぎの出荷を済ませて。そのあとサンプルを織る。1時間半ほど仮眠して、ストールサンプルを織る。本当なら、横糸の柄をセッティングしてあるので織れないとならないのだけど、カードの正転と逆転の調整が足りずに、手動で目で柄を数えながら一枚、一枚のストールを織りおえる。

ぎりぎりの4時過ぎに織り終え、出発で、車で京都駅に向かう。京都から始発のノゾミで東京。

2015年12月01日
東京出発の準備をしないとならないと思って、ゴールデンラックに並べるものは? アイリッシュリネン140番手の高密度タイプのストールと、ラミーの超細番手のストールをピックアップ。ラミーの超細番手は、昨年、白いタイプをゴールデンラックに置かせてもらったので、今回も同じでは駄目で藍染にしたタイプを並べようと考え、藍染作業に取り掛かる。

午後4時頃から始めて午後5時には染まりあがって、思った以上に綺麗に染まったので至極の思いに浸る。大判のストールなのに超細番手使用なので軽いのだ。140番手のアイリッシュリネンのほうが高く見えるべきなのだが、超細番手ラミーのほうが高級に見えてしまう。
2015年11月30日
仕事における壁にぶつかったときに、変化とか改善とか改革とか、簡単にできないと、改善できないことに無駄に悩むとか、自分自身が腐ってしまうことになるものだろう。特に悪い流れというのは大きな変化が必要で、自分だけの変化ではとどまらず、周囲のひとも同様に変化できないと意味がないことが多い。

外から見ればそれはエゴに映るのだろうが、チャンスというのはそういうところにしかなかったりする。成り立たないことを続けて成り立つようになるということもあんがいおおいものでそういう我慢というのはできるできないで作れるものも変わってくるものだろう。

普通の考え方だと普通のもの作り止まりで、いくら続けても普通
結果で、続かないという結論になろう。一回の判断というのは決して軽くなく、同様のチャンスが回ってきたとして最初の一回目でそのチャンスをいかせなかったり、失敗したりスレば、次もパスする結果になるだろう。

何かするときには失敗させない相手と組む必要がある、これが案外一番大事な事かもしれない。
2015年11月29日
機をたくさん貰い受けることができたので、それを置く場所を工場内につくらねばと、スチールラックを買いに行った。幅の広いラックが9000円であったので、それを複数購入。組み立ても簡単だが、一枚の板で100kgまで持ちこたえるとあるけど、それほど頑丈そうには思えず、機を3つも置くと棚板が反る。

棚板をたくさん入れると問題はなさそうなので、通常は5段なのだが、7段くらいにして、小分けして置けばそれほどわるくないだろう。以前、2000円くらいの特価のスチールラックも使ったことがあるけども、それはやはり、ぺこぺこして使い物にならず。見本糸を置いたりする程度にしか使えなかった。

こうやって、周りから固めていくと織機を置く壁からの位置などが適切に決まってくる。最後に工場の真ん中にスペースを残してあげるような形を考えている。今日の夜からアンカーボルトの設置を始めた。
2015年11月28日
今日は周辺のものを片付ける。急いでいる仕事がいくつもあって生産のピークの時期に織機の移設となり、本生産が遅れ始めていて挽回しないとならない。当初は移設したらすぐに織機を動かせる予定をしていたのですがシャトルがないという想定外の事態なので、とりあえずの生産は従来の織機で乗り切るれればと思う。

小ロット多品種を求められるときに、素直に、カウンター見本、着見本、本生産の流れで織機の台数が少ない状況で、3回機替えして仕事をしていたら成り立つことはほぼない。織機の調整もその度に行う必要があり、結局、織るという作業が出来ないのである。

小ロット多品種のものを生産しようとすれば、織機の台数を増やすべきで、同じタイプの織機が1台しかないような状況では、もしその織機に問題が発生したときには生産は厳しくなるので、納期のある本生産を想定するならもしものときも他の織機で織れるとか、他の織機の部品と交換して乗り越えられるようにしておく必要がある。
2015年11月27日
シャトル8号台を3号台のあった場所に移動する作業。問題は、床板の上をハンドパレットに織機を載せて移動することと、すり抜けないとならない織機の間隔が2センチほどしか余裕がないこと。5月には西側のジャガードのスペースにレピア織機を移動したので、今回のほうがシャトル織機なので重量が少なく難度は低い。

同じ形の織機なのでアンカーボルトをそのまま生かして設置したいと考え、今日は、とりあえず着地させるまでに行かなかったが、大体の位置までに持っていくことができ、工場内の通路は復活した。

モーターの位置がどうしても合わないので、モーターはベースも含めて取り外して、正しい場所に後で添え付け直す計画。SUYAMAのシャトル織機はモーターを織機とは別個に地面に設置しないとならないタイプなので、足元のスペースがモーターで取られるのと、モーターというのはVベルトで織機の軸と連結されて回っているので危なさがある。

上下運動や前後運動などよりも、回転運動というのは怖いもので体の一部でも巻き込まれると体全体が持っていかれる。林与は工場の中では、携帯はポケットにしまっておくか、工場の中に持ち込まないようにしている。携帯のストラップなどは非常に危ない。
2015年11月26日
今日は移設の2日目、残りの6台が運び込まれ14台の移設が完了する。夜、工場で移設された織機を眺めると、感無量。これから動かしていくことを考えると楽しみでしかない。が、織機が動いていたときにあったシャトルが一つも見当たらなく、シャトルの管もない状態。

業者さんを通じて間接的に移設を行ったので途中でそういう大事なものがうまく引き継がれずに、シャトルとシャトルの管を準備するところからはじめないとならないが、シャトルなんてものは作ろうと思えば作れるし、シャトルの管にしても会社にあるものを使うことができそうだ。しかし、移設してすぐに動かせないというのが非常に残念なこと。一ヶ月前にあった、何度も戻してもらうように言っていた林与の特製の小さなフリンジのついたビーム2つもどこかに紛失ということで探さなければならない。
2015年11月25日
織機の移設が朝から始まり、工場の中は今までにないほどに平坦なコンクリート面が広がる。広いなあという印象で、また織機で埋まるのが惜しい気もするほど普段見慣れない工場の中の広い空間に感動。

織機が着々と運ばれてきて、今日は8台入ったところで終了。準備というのは非常に時間のかかる作業だが、運んでもらうという作業は非常に簡単に思える。夜、シャトルの3号台の場所に、シャトルの8号台を移動する。これはほかの織機の通路をぎりぎりですり抜けて移動するので慎重を要する作業。

無事に場所までもっていけて、すでにある3号台のアンカーボルトに8号台を落ち着かせるのがまた一仕事。

今日は、東京から一人と神戸からお二人が来られて移設の作業をご覧になられた。14日の日には神戸美術館主催の近江ラミーリネンツアーで見学のお客さんが来られる。テキスタイルマルシェも9日から14日の開催ながら、今回は、テキスタイルマルシェの店頭に立てるのは3日程度になりそう。

2015年11月24日
明日からの移設に備えて織機の移動と分解。ぎりぎりになるのは、ぎりぎりまで織機を残しておかないと生産を抱えている時期なので仕方ない状況もある。今日も夜友達が手伝ってくれる。友人なので技術はないけど私のいうとおりに作業を親身に手伝ってくれる。

仕事で成功しようとすると自分がやろうと思うことを出来るか出来ないかが大事で、そのやろうとすることも月並みでは商売にはならない。普通に仕事して食べていけるのかというと、経験ある人ほど変な壁があって初めての素人の方がなり立つことも多いのが今の時代で、そうでないといけないというのが理解できないから、教え込めるような素人を集めた新興国の方が先進国を追い抜いていけるのだろう。

日本の仕事の世界が他を殺して自分が食べていくような情けないことが普通になりすぎて、騙して儲けてなんぼがサクセスストーリーの人が多すぎる。以前も地元の人で地元の廃業された機屋さんの残反を足もとを見て買い上げ何倍にもして転売出来たことを、あれは儲けものだったと誇らしげにかたっておられた70代の元職人のかたがおられたが、そういう昔でいうくすぶりが増えすぎなのだ。

それは人を食いものにして儲かる世界かもしれないが、全体としてはやせ細っていく世界で、他の人を食いつぶせばそれで終わり。自分自身で物事を育んで、仕事を高度化していけるような人が成功してほしいと思える。

極端な話、戦争なんかも、もうけたいひとが他の人をくいつぶしているから、絶えることはない。きれいなことをいいながら安全な場所で指図したい人が、自分の命を賭することなく、見方や敵の命を握ってしまっている状態が続く限りは、戦争の本質は変わらないだろう。

無人爆撃機で攻撃するというのは、昔、アメリカが奴隷制度での失敗とにている気がしてならない。
2015年11月22日
今日は、倉庫に行って織機の部品をストックする場所を準備。倉庫の一角の糸を置いてあった場所を、部品置き場にする予定で片付ける。午後から夜中までの作業。なんとか、片付いて分解したシャトル織機の部品を置くことができそう。5台分くらいの部品になろうかと思うのでそれなりには場所が必要。

今が生産の時期に入っているので織機を動かしながらの移設作業で、とりあえず、工場の中に織機が納まるようにして、あとは順番に立ち上げていくような形。工場の中の織機を完全にシャッフルするような理想的なレイアウトも考えたが、今の織機を稼動しなければならないタイミングではそれは難しい。

使うか使わないかわからない部品をスペアで取っておくということは非常に無駄なことなのだが、それができるのかできないのかで織機の寿命というものは大きく違ってくる。いろんな意味で織機の寿命がすなわち機屋の寿命であるということが多いので、織機の維持がスムーズに行くことを想定することが大事であろうと思える。

シャトル織機の部品をとっておく倉庫のスペースだけでも織機数台は置けるようなスペースであったり、でも、一つ部品が手に入らなく困ることを考えると、なるべくたくさんの部品を残しておく必要がある。そういうところから仕事というのは始まる気がするが、そういうところは今のジャストインタイム式とはまったく逆の考え方になろうかといえる。
2015年11月21日
修羅場というのは避けるべきだろうと思えるが、修羅場を乗り越えるところに経験みたいなものの重みがあるのではないのかと思えたりする。商売が安定的に動いているときには、働く人というのはそれが当たり前に思えて、いざ立ち行かなくなったときには無力であったりするものだ。

企業というのが安定すると、外からではなく中から崩れ始めることが多いものだ。よりよい待遇が当たり前になって危機感がなくなるとか、ものを生み出す力がなくなるとか。普通考えて、人は一年に一歳年をとるのだが、一般的には年を取ると、仕事は出来なくなっていくものだろう。

今はあまり聞かなくなった年功序列型賃金制度というものがあるけども、それは土地の価格は上がり続けるという土地神話に近いバブル的なものがあるが、それを日本人は信じるように誘導をされ続けてきたが、それが壊れたときにそんなのは基本でもなんでもなく、企業なんて30年も持てば立派で人の一生よりも寿命が短いことのほうが多いのである。
2015年11月18日
林与もヘンプ糸を使った大麻布を生産しているが、林与の場合には、通常の紡績の大麻布。今、よく聞く昔の大麻を再現したといわれる大麻布というのは、水溶性ビニロンを紡績時に使って、織った後に水溶性ビニロンを溶かして細い糸にして作り上げる今風の手法で生み出される。

これは、ラミーなんかもそうで、細いラミーの糸は、ラミーのステイプルと水溶性ビニロンのステイプルと混紡して、水溶性ビニロンの混紡糸をつくり織ってから、加工で水溶性ビニロンを高温で溶かして除去して、薄いラミーの織物を作り上げる。

普通だと織れないものを織れるようにするために水溶性ビニロンが活躍しているのだ。織り難いはずのものが織りやすくなると、ますます機屋の力は不要になりつつあるのだろうと思える。

水溶性ビニロンの問題は、それが残留するかしないかの問題があろうし、また、水に溶けた後、水の処理の問題もあろう。従来の植物系の糊剤などを使うメリットというのは別の意味で残り続けると思う。
2015年11月17日
仕事をする上で器用さというのは大事で、職人的な器用と言うのは経験を積んだ結果であることが多いが、今までの人生経験でいろんなことをやっているので新しいことを初めてやっても器用にできるというのが必須になっているように思える。

新しいことを教えてもらって、難しいからできないといつまでもいい続けるのか、すぐに出来るようになるのか、あるいは、何ヶ月も掛かってできるようになるのかでは、食べていけるのはすぐに出来るようになる人だけであろう。習得が遅い人というのはそこに今までの仕事経験みたいなのが凝縮されていて、そういう習得が遅いというあたりから解決をしていかないとならないと思える。

よく言われるのが、現場では教えてもらえることは稀で、自分が上手な人の作業をみて、真似するしかないということ。いわば、上手になるためには技を盗めということ。現場で教えてもらえることばかりを期待していて自分が上手にならないのを教えてくれる人のせいにしていても、そういう人というのは自分が教える立場にはなかなかなれないもので、教えるほうが一生懸命でも教えられるほうが教えてもらえるのをまってそれを仕事していると勘違いして、全体としては上手な人が下手な人に使われてしまっているような一番駄目な状態を生み出してしまうのだろう。

新しいものづくりは、問題なんかがあっても自分で解決してものにしていける人でないと成り立たないだろう。毎日、目の前にトラブルみたいなものがあって、それを現実的に解決していけないと仕事としては成り立たないのである。何十年の経験をもつ職人さんたちを抱えている工場の経営が傾く一途で、経験のない新興国の工場が立ち上がって元気に日本向けの仕事をこなしているのを考えると、日本の織物企業がどんどんと形骸化して輸入企業に変わるのも自然な流れではあろう。
2015年11月16日
仕事を自分で生み出しておられる会社というのは、仕事のないタイミングというのがほとんどなく、自分で自分のために働くことも仕事という感覚だろう。仕事というのが他の人のことではなく自分のためという心境が必要で、働くことがあって仕事が生まれるという基本のあたりが欠如すると、いつも仕事があるとかもらえる感覚に陥り、緊張感もなくなり、そうなると堕ちるのは早いものだ。

そういう仕事に関する緊張感のなさというものは働く人にみられがちだがそれが組織全体でみられがちになったときになかなか元に戻すのは難しい。バブルの崩壊とともに、仕事の価値も土地の価格が下落したことで下落したのだが、給料は何分の一にもなることがないのでそういうのには気がつかないものだ。最後には製造業は日本から出て行くという結果に繋がった。

海外も豊かになって本来は国際競争の中で一番恐れるのは、豊かになっても働き続けるような国の存在なのだが、アジアの新興国も豊かになると働かないというような普遍の原理が働いて、一国の一人勝ちが続くようなことはない。

週40時間働いたところで一生働いても仕事としてそれほど経験もつめず、温い域を抜け出ることは難しいんじゃないだろうかと思えるが、そういう現場の前線の人の生産活動というのが、製造業では管理や事務の人の分まで収益を生み出すだけでなく、その会社に関わる人の働かない階級の人の生活までも支えていかなければ、その会社が存続というのは成り立たないだろう。40時間働いて、自分以外の5人、6人の分まで生産しないとなると相当の重荷になる。
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